第7話:新しい髪、新しい私
午後の柔らかな陽射しが、ビルの隙間からそっと街角を撫でていた。春の訪れを告げるようなその光は、冷たい風に震える東京の街に、わずかな温もりを与えていた。
佐藤美咲は、手に小さなケーキの箱を提げながら、美容室の扉を静かに押し開けた。箱の中には、親友・鈴木絵里の大好物のチョコレートケーキ。ふわりと香る甘い匂いが、美咲の緊張を少しだけ和らげた。
「絵里、こんにちは。これ、お礼に。いつも私のこと、見守ってくれてありがとう。」
差し出された箱とともに、美咲の笑顔にはどこか決意の色が宿っていた。絵里はそれを見逃さなかった。
「美咲ちゃん……どうしたの? なんだか、今日のあなた、少しだけ違って見える。」
「うん。私ね、決めたの。今日はその記念日。だから、髪を切りたいの。ばっさりと。」
その言葉はまるで、心の奥底にしまっていた感情をひとつひとつ、丁寧にほどいていくようだった。
「肩くらいまで切って、色も戻したいの。昔の自分に、少しでも近づけたらって。」
絵里は頷き、美咲を椅子へと案内した。鏡の前に座った美咲の表情には、かすかな不安と、新しい一歩への期待が入り混じっていた。
「田中健くんとのこと、終わったのね?」
問いかけは優しかった。鋭くない、ただ寄り添うだけの温度。
「ええ。もう、彼には新しい彼女がいるって。…でも私、ちゃんと終わらせたかったの。彼との過去も、揺れていた自分も。」
シザーズが静かに音を立てる。シャッ、シャッと髪が落ちるたびに、美咲の心のしがらみも、少しずつそぎ落とされていく気がした。
「本当に、元の髪色似合ってたのよ。明るい茶色が、美咲ちゃんの優しい雰囲気とよく合ってて。」
「ありがとう、絵里……。私、自分を取り戻したいの。誰かのためじゃなくて、自分のために笑いたい。」
鏡に映る自分が、少しずつ変わっていく。髪が短くなるたびに、どこか澄んだ空気が体の内側から湧き出すような、不思議な解放感があった。
やがて施術が終わると、美咲は鏡に映った自分をじっと見つめた。肩に触れるくらいのボブカット。どこか懐かしくて、でも新しい。そして、かつての自分がそっと手を差し伸べてくれているように感じた。
「……似合ってるね。すごく、綺麗。」
絵里の言葉が、胸の奥にじんわりと染みていく。美咲は照れたように微笑み、そっと髪に触れた。
美容室を出て、二人は併設された小さなカフェへと向かった。扉を開けると、店の看板猫・ミミが鳴きながら美咲に寄ってくる。
「ミミ、久しぶりだね。」
その柔らかい毛並みを抱きしめると、温かい何かが胸いっぱいに広がっていった。
絵里がコーヒーを淹れながら言った。「それで、これからの美咲ちゃんは、どうしたいの?」
「うん、もっと本気でグラフィックの仕事に向き合ってみたいの。田中くんとのことに、ずっと心を取られてたけど……今は、自分の人生を生きたいって思える。」
窓の外では、夕暮れが街をゆっくり包み込んでいた。オレンジ色の光がカフェの中を優しく照らし、まるで未来がそこに広がっているかのようだった。
「実はね、新しいプロジェクトのアイデアがあって。東京の、ちょっとした路地裏の風景をテーマにしたビジュアル企画。誰も気づかないような美しさを、もっと多くの人に伝えたいの。」
「それ、すごく素敵ね。美咲ちゃんらしい。ちゃんと、前を向いてる。」
コーヒーの湯気が、ふわりと立ち上る。その香りに包まれながら、美咲の目に小さな光が宿った。
「副部長に相談してみるつもり。ダメ元でもいいから、自分のアイデアを伝えてみたい。」
「それが美咲ちゃんの強さだよ。失恋を超えて、何かを生み出そうとする姿勢……本当にかっこいい。」
「ありがとう、絵里。本当に、今日はあなたに会えてよかった。」
二人の笑顔が、カフェの小さな空間をほのかに照らす。そこには、過去を手放した美咲と、それを支える友人との、静かで確かな絆があった。
美咲は、今日という日を忘れないだろう。
それは、髪を切った日。
だけど本当は——
新しい自分を、ようやく愛せるようになった日だった。