第6話:削除ボタンに込めたもの
美咲の朝は、最悪だった。
いや、もはや朝と呼ぶにはあまりに遅く、そしてあまりに虚しかった。
昨夜、彼女はひとり部屋でウイスキーを煽っていた。
グラスを満たすたびに、心の隙間にアルコールを流し込む。忘れたくて、思い出したくて、でも何も感じたくなくて。ただただ、飲むことで時間を潰した。
テレビの音も、スマホの通知も、いつの間にか遠ざかっていた。部屋の隅にぽつんと座り、グラスを手にしていた記憶だけが、ぼんやりと残っている。
そして、どれだけの時間が過ぎたのかもわからないまま、ようやく目を閉じたのだった。
だからこそ、玄関のチャイムが鳴ったとき、彼女の頭はズキズキと痛み、現実を受け入れるにはあまりにも無防備だった。
「……誰よ、こんな時間に……」
重たい体を引きずるようにドアを開けると、そこには、見たくもなかったはずの男の姿があった。
田中健——。
美咲の元恋人。いや、今はただの“過去”の人。
「……あんた、何しに来たの?」
声はかすれていた。二日酔いのせいだけじゃない。心が、まだ傷んでいる。
田中は少しだけ視線を泳がせながら、口を開いた。
「……結婚指輪、返してもらえないかな」
まるで誰かに言わされてきたような、そんな他人事みたいな言い方だった。
美咲の心が、カチンと音を立てて冷えていく。
そうか。
ついに来たんだ、この瞬間が。
「……ちょっと待ってて」
そう言い残し、彼女はふらつく足取りで部屋の奥へ向かう。
クローゼットの奥深くにしまい込んだ、小さなボックス。見るのも嫌で封印していたはずなのに、手は迷わずそれを探し出していた。
そっと開けると、あの頃の象徴がそこにあった。
光を反射する指輪。その小さな輝きが、胸の奥に刺さる。愛していた。たしかに愛していたのだ。
でも、もう戻れない。
リビングに戻ると、田中は所在なさげに立ち尽くしていた。
その姿が、今ではやけに他人のように見える。
無言で指輪を差し出す。
「……これでいいでしょ」
彼はそれを受け取り、小さく呟いた。
「……ありがとう。ごめん」
それだけ言って、彼は背を向けた。
玄関のドアが閉まる音が、やけに静かだった。
美咲はその場に立ち尽くし、深く息を吸い込む。そしてスマホを手に取り、田中の名前を探し出した。
一瞬だけ、昔の記憶がよぎる。でも、もう迷わなかった。
「削除しますか?」
——はい。
その一言で、彼との繋がりが、この世界からも消えた。
しばらくして、彼女はバスルームへ向かった。
冷たい水で顔を洗うと、肌を伝う水滴が静かに感情を冷ましていく。
鏡の中の自分が、少しだけ凛として見えた。
「もう、泣かないから」
そう呟く声は、昨日より少しだけ強かった。
タオルで顔を拭き、自分の部屋へ戻る。
ノートを開き、手にしたペンが自然と動き始める。新しいアイディア。新しい物語。
それは、失ったものの代わりに生まれる、自分だけの未来だった。
夜が更ける。
東京の街は相変わらず美しく光り、でもどこか遠い。
その中で、美咲は小さな願いを込めて夜空を見上げた。
——どうか、あたしの人生が、あたしの手で輝きますように。
そして静かに、息を吐く。
もう田中の影はなかった。