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第5話:ウイスキーと、ひとりの夜

東京のざわめきが、窓の外から微かに聞こえてくる。

車のクラクション、信号待ちの人々の足音、どこか遠くで響く笑い声。それらすべてが、美咲の小さなアパートの中にぼんやりと染み込んでいた。


佐藤美咲は、荷解きもそこそこに、窓際に立ち尽くしていた。

彼女の瞳は、浅草の喧騒の先にある、かつて父と手をつないで歩いた懐かしい街並みにそっと焦点を合わせていた。

――あの頃の私は、何も知らなかった。ただ、愛されていた。


「これから、私…どうなるんだろうね」

ぽつりと呟いた言葉は、部屋の中に静かに溶けて消えた。


田中健との未来を夢見ていた。

豊洲の新しいマンション、ふたりで選んだソファ、週末の朝に一緒に淹れるコーヒー…けれど、すべてはもう過去の幻になった。


彼のそばにいたのは、もう私じゃない。

代わりに隣に立っているのは――佐々木花という、同僚の契約社員だ。


心が音もなく崩れ落ちていくような感覚に襲われながらも、美咲はそれでも立っていた。

前に進むしかなかった。後戻りは、できない。


ピッ、と電子音がして、玄関のドアが開いた。

現れたのは、親友・絵里の夫である山田太郎と、引っ越し業者たちだった。


「美咲、大丈夫?無理してない?」


太郎の穏やかな声に、美咲はわずかに微笑んだ。

「うん、大丈夫。ありがとう。…自分でやらなきゃ、意味がないから」


太郎と絵里から贈られたナッツとウイスキー。

それは言葉以上に温かい、彼らなりの優しさだった。


一人になった部屋で、美咲は箱を開け、服を畳み、本を棚に並べながら、新しい日々を少しずつ組み立てていった。

けれど、時折手が止まり、心の中に田中の笑顔が浮かんでは、ゆっくりと消えていった。


「私、彼のこと、本当に愛してたのかな…」

ぽつりとこぼれたその疑問に、自分自身が驚いた。


愛していたはずなのに、なぜか今はただ、自由になったような気がしていた。

そして気づいた。自分にとって本当に大切なのは、彼との未来じゃなく、

“自分の人生を、自分の手で描いていくこと”だったのだと。


夜の静けさが部屋を包み込むころ、美咲はキッチンで一人、ナッツをつまみにウイスキーをグラスに注いだ。

琥珀色の液体が光に反射して、どこか切ない輝きを放っていた。


「案外、泣けないもんだね」

自嘲気味に呟いて、口元にグラスを運ぶ。


涙が出ないのは、心が空っぽになったからじゃない。

きっと、もう前を向き始めているからだ。


その時、チャイムの音が鳴った。

美咲がドアを開けると、そこには心配そうな顔の絵里が立っていた。


「大丈夫?…顔、見たくなっちゃって」


「うん…ありがと。なんか、今ちょうど寂しさが込み上げてきたとこ」


絵里は何も言わず、美咲をぎゅっと抱きしめた。

そのぬくもりに、張り詰めていた心がほんの少し緩む。


「何かあったら、いつでも言ってね。私はずっと味方だから」

絵里のその言葉に、美咲は静かに頷いた。


しばらく他愛もない会話を交わしたあと、絵里は帰っていった。

「じゃあね、また連絡するね」

そう言ってドアを閉める音が、静かな部屋にぽつんと響いた。


美咲は一人、リビングに戻り、グラスにウイスキーを注ぎ直す。

ナッツをひとつ口に運び、グラスをゆっくり傾けた。


液体が喉を通り過ぎるたび、わずかに胸の奥が温かくなる。

孤独と静けさの中で、美咲はぽつりと呟いた。


「…もう誰かに選ばれるのを待つんじゃなくて、自分の心が向かう方に、そっと歩いていきたいな」


夜は更けていく。

でも、美咲の中に、小さな灯がそっとともっていた。

それは、傷ついた心の奥に芽生えた、新しい希望だった。

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