第4話:ゆらぎの午後
春の柔らかな日差しが、東京の静かな住宅街を包んでいた。
美咲は、新しいアパートの前でふと立ち止まり、胸の奥に広がるざわめきを深呼吸で落ち着けようとしていた。段ボールの山が積み上げられ、太郎ともう一人の運送業者が、忙しなく荷物を運んでいる。その風景を見ながら、美咲はこれが新しい人生の第一歩なのだと、心の中でそっと言い聞かせた。
「美咲、大丈夫?何か手伝おうか?」
絵里の夫の太郎の声は、まるで春の風のように優しく、美咲の不安な心にそっと触れてきた。
「ありがとう、太郎。…うん、大丈夫。ちょっとね、この空気に慣れていくだけだから」
美咲は微笑んだが、その微笑みの奥には、過去への未練と未来への一抹の不安が滲んでいた。
部屋の中へと足を踏み入れた瞬間、彼女の視線は一つの家具に吸い寄せられた。母の形見であるアンティークのクローゼットとドレッサー。そこには懐かしい香りがまだ残っていて、美咲の胸に込み上げるものがあった。
「これらは…母の形見なの。丁寧に扱ってほしいの」
声は穏やかだったが、その言葉の奥に込められた思いは重く、強い。
「了解、美咲。任せて。大切に運ぶよ」
太郎の誠実な声に、美咲は少しだけ肩の力を抜いた。
けれど、新居の寝室に入ったとき、彼女の表情が一瞬で凍りついた。
乱れたベッド、開け放たれた引き出し、そして――見覚えのない女性の服。
「太郎…!来て…。なんだか、おかしいの…」
震える声で呼んだその瞬間、胸の奥で何かが崩れる音がした。
太郎が駆けつけ、部屋を見渡した後、眉をひそめる。「これは…誰かが入った形跡があるな。まさか、田中…?」
田中――美咲の元恋人。
鍵をまだ返してもらっていなかったことを思い出し、美咲の顔色がゆっくりと青ざめていく。
「これ…私のネックレスじゃないわ」
ドレッサーの中に残されていた一つのアクセサリーが、すべてを物語っていた。
「田中が…新しい彼女を、ここに連れてきたのかもしれない…」
言葉にした途端、喉の奥に熱いものが込み上げ、涙がにじんだ。
「大丈夫だよ、美咲」
太郎の声は低く、頼もしかった。「公証人を呼んで、正式に荷物を引き渡そう。そして、田中との関係もきっぱり終わらせるんだ」
荷物の搬入が続く中、美咲は目を閉じ、心の中でひとつの決意を固めた。
この場所で、もう一度人生を始めよう。母の思い出とともに。田中に傷つけられた過去も、今日ここで終わらせる――。
やがて、公証人が到着し、形式的な手続きが粛々と進められた。
「これで、全て完了しました」
その言葉に、美咲は小さくうなずき、深く息を吐いた。
太郎とその助手が去った後、静寂に包まれた新居に一人取り残された美咲は、そっと部屋の中を見渡した。
カーテン越しに差し込む夕陽が、クローゼットの木目を金色に染めている。
その光の中で、母の声が聞こえたような気がした――「頑張ってね、美咲」。
そして、夕暮れの街を歩いて、美咲は絵里のカフェへと向かった。
店の扉を開けた瞬間、漂ってきたコーヒーの香りと、絵里のあたたかな笑顔が、どこか懐かしく、安心できるものだった。
「どうだった?無事に終わった?」
「なんていうか…まだ全部整理できてないけど…少しは、進めているような気がする」
微笑む美咲に、絵里は力強く頷いた。
窓際の席で二人は未来の話をした。
静かな夜の始まりとともに、美咲の心には、新しい物語のページがそっとめくられていた。