第3話:さよならの証明書
午後二時ちょうど。
東京の片隅、公証役場の無機質な会議室の扉が静かに開き、田中健が一歩足を踏み入れた。
窓のない部屋に差し込む蛍光灯の白い光が、彼のやや浮ついた表情をくっきりと照らす。
向かいには、まるで春の終わりに咲く山桜のように静かにたたずむ佐藤美咲が座っていた。その隣には、冷静な眼差しを湛えた伊藤弁護士。そして、公証人が黙々と書類に目を通していた。
美咲の眼差しは湖面のように静かで、田中のそわそわとした態度が浮き彫りになる。彼の心がどこか遠く、まだ過去に囚われていることを、彼女は瞬時に悟った。
「まずは、共同名義口座からの二千万円を折半する件です。」
伊藤弁護士の静かな声が部屋の空気を切り裂いた。その一言が、これから始まる"終わりの手続き"の幕開けだった。
美咲は一つ小さくうなずく。田中も口元を動かし同意の意思を示したが、その目はどこか泳いでいた。まるで自分の台詞を忘れた舞台俳優のように。
そして、核心へ。
「慰謝料として、田中さんから美咲さんへ三百万円の支払いがなされます。ご確認ください。」
緊張が、田中の肩にうっすらと乗った。
「……はい、その通りです。」
彼の声はかすれ、場に似合わぬ後悔をにじませていた。
話題はマンションの共有資産に移る。
豊洲の空に向かって聳え立つタワーマンション。かつての“夢”の象徴だった場所。
「僕が住み続けたいと思ってる。今支払えるのは……二千万円だけど、残りは……」
田中の口調には、どこか“交渉”というより“懇願”の響きがあった。
美咲はしばし黙し、そして静かに言った。
「支払いが完了するまで、名義はそのままにしておきます。清算されるまでは、私は動きません。」
空気が変わった。
風が止み、時が凍りついたかのような沈黙が降りる。
「でも……花ともう住むって、約束してしまってて……」
田中が漏らしたその名前は、今この場で最も口にしてはならないものだった。
部屋の温度が一気に下がる。
美咲の顔には何の感情も浮かばなかった。ただ、静かに何かを切り捨てたような目をしていた。
「名義変更をご希望なら、まずは全額清算を。」
伊藤弁護士の言葉には冷静な優しさがあった。その優しさは、弱さに流される者には痛みとなって突き刺さる。
田中は、言葉を失ったままローン申込書にサインをする。
美咲はその様子を、まるで他人事のように見つめていた。けれど心の奥で、かすかに何かがほどけていくのを感じていた。
手続きが終わると、美咲はそっと立ち上がった。
誰にも気づかれぬように深く息を吸い、心を整える。
契約担当の男性が小さな声で話しかける。
「田中さんって……あんな感じの人だったんですか?」
美咲は遠くの空を見るような目をして、静かに微笑んだ。
「私も今日、初めて知りました。」
その声には、涙も怒りもなかった。ただ、人生の一章を閉じるための決意だけが滲んでいた。
伊藤弁護士が扉を開けながら、美咲にそっと言葉を送った。
「よき婚約破棄を、おめでとうございます。」
その一言に、会議室の空気が少しだけ軽くなった気がした。
――別れもまた、一つの祝福。
午後の日差しが、会議室の隅に静かに差し込んでいた。
その夜、美咲はいつものカフェを訪れた。
木の温もりに包まれた静かな空間。カウンターの隅には、常連客のように佇む猫・ミミがいた。
「ミミ、今日も元気だった?」
美咲がしゃがみこんで語りかけると、ミミは喉を鳴らして応えた。
カウンターの奥から、絵里が笑顔で顔を出す。
「大変だったね。でも、やっと終わったんだね。」
差し出されたコーヒーの香りが、美咲の疲れた心を優しく包む。
「……少し寂しい。でも、不思議ね。これからのことを考えると、どこか心が軽いの。」
「新しいプロジェクト、楽しみにしてるわよ。美咲ならきっと大丈夫。」
その言葉に、美咲は思わず目を細めた。
「ありがとう、絵里。あなたがいてくれて、本当によかった。」
カフェの中は温かい光に満ちていた。
まるで、新しい人生の始まりを祝う祝福の灯のように。
美咲はその光の中で、確かに感じていた。
――失ったものの先に、何かが待っている。
それを信じて、一歩を踏み出せばいいのだと。