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第12話:それでも、誰かを愛してしまった

美咲が帰ったあとのオフィスの片隅で、田中健は椅子にもたれかかり、深く、重たい息を吐いた。


——どうして、こんなことになってしまったんだろう。


自分が悪い。それは最初からわかっていた。けれど、胸の奥で燻るやるせなさは、どうしても消えてくれなかった。


美咲は、自分が入社したばかりの頃、商品開発チームで一緒に働いていたデザイナーだ。そして彼女の父・佐藤豊は、学生時代にインターンでお世話になった浅草の老舗雑貨店の店主であり、自分に“ものづくり”の本質を教えてくれた師匠のような存在だった。


製品の哲学、デザインの意味、そして売り方——すべての基礎を、豊さんから教わった。


美咲を初めて見かけたのは、会社のプレゼンルームだった。


ビビッドなオレンジのパンツに、幾何学模様の大胆なシャツ。毛先だけピンクに染めたショートボブの髪。大量の資料とスケッチブックを抱え、颯爽と現れた姿は、まるで春風のように周囲の空気を変えた。


「佐藤美咲です!」と元気よく頭を下げたその声に、部屋の空気が一瞬で明るくなったのを、今でも覚えている。


——すごいのが来たな。


思わずそうつぶやいた自分がいた。気づけばその日から、彼女の存在が気になって仕方がなかった。


プロジェクトで何度か顔を合わせるうち、会話も自然と増えた。彼女が防水素材を使った新しいパッケージを提案してきたときには、もう完全に意識していた。


夜中まで続いたブレストの帰り道、ふと「君って本当に仕事が好きなんだね」と言うと、美咲は少し照れたように笑った。その笑顔が、たまらなく愛しかった。


婚約の話が出たのは、彼女が友人の家に泊まりに行っていた週末だった。豊さんに誘われて飲みに行った席で、「美咲とのこと、真剣に考えてみないか」と言われた。


そのとき、ほんの数秒だけ考えて、気づけば「はい」と答えていた。


その後、美咲に伝えると、彼女は少し驚いたような顔をしたけれど、「よろしくお願いします」と静かに頷いた。


半年後——豊さんは会社の会議室で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。


葬儀のとき、美咲は目を赤くしながらも、一言も泣き言を言わず、すべてを淡々とこなしていた。取り乱すこともなく、ただ、静かに。誰よりも冷静に見えた。


「彼女は強いな」と誰かがつぶやいたとき、自分はなぜか、不安になっていた。


その日から、美咲の服装は落ち着いたトーンに変わり、髪も自分の好みに合わせて暗く染められた。香水をやめ、暮らしやすさを気遣い、言葉少なに寄り添ってくれた。


自分の言葉に、彼女はいつも静かに従ってくれた。


けれど、その優しさが「義務」でしかなかったことに、気づくのは時間の問題だった。


——そして、出会ってしまったのが、佐々木花だった。


同じ会社の別部署で働く、明るくて、前向きな女性。


「田中さんのプロジェクト、すごいですね!」


初めての会話で、無邪気にそう言ってくれたその声が、なぜか心に残った。


ランチを一緒にした帰り道、「こんなふうに、誰かに真剣に話を聞いてもらったの、久しぶりです」と言われた瞬間、自分は——心から彼女の笑顔に救われていた。


気づけば、花のことばかり考えるようになっていた。


そして、婚約を解消した。


佐藤家に出向き、深く頭を下げた。理由は語らず、ただ「申し訳ありません」とだけ伝えた。


そのときの美咲の表情に、怒りも、悲しみも、浮かんでいなかった。


——むしろ、安堵のようにさえ見えた。


オフィスを出た帰り道、並んで歩いていた花が、不安そうに声をかけてくる。


「健さん……美咲さんと、どんな話をしてたの?」


「仕事の話だよ。もう、終わったことだから。」


作り笑いを浮かべて答えると、花は目を伏せ、小さな声で震えながら言った。


「ごめんなさい……私が、好きになってしまったから……」


その頬をつたう涙を、そっと指でぬぐった。


「悪いのは、全部俺だよ。君は、なにも悪くない。」


そう言って、彼女を抱きしめた。


華奢で柔らかなその身体を抱きしめながら、この人を守っていきたいと、心から思った。


そのとき、自分の中で、何かが小さく弾けた。


——美咲。君にとって俺は、結局『田中健』じゃなくて、「父の弟子」でしかなかったんだよな。



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