第11話:名前を取り戻す朝
東京の朝は、まるでドラマのワンシーンのように、忙しなく、それでもどこか希望に満ちていた。灰色のビル群の狭間からこぼれる光が、街を行き交う人々にそれぞれの「今日」を照らしている。
その中に、佐藤美咲もいた。
小さなバッグを肩にかけ、彼女は静かにビジネス街を歩いていた。足取りは軽やかで、それでいて少しだけ緊張が混じっている。今日は特別な日だった。自身がデザインを手がけた広告プロジェクトの最終確認。初めて一人で挑む大きな節目だった。
つい数週間前まで、彼女はその仕事を元婚約者・田中健と組んで進めていた。しかし、別れは思った以上に深い傷を残し、彼との関係は今や途切れた糸のように、風に揺れているだけだった。
「…もう、前に進むって決めたんだから。」
小さく息を吸い、彼女は会社の自動ドアをくぐる。エレベーターの中でガラスに映る自分の顔を見つめ、ほんの少しだけ口角を上げた。
オフィスに着くと、美咲は迷わずコーポレート部門の水野裕太のもとへ向かった。優しげな笑顔が印象的な彼は、いつも穏やかに業務を進める信頼のおける同僚だった。
「水野さん、おはようございます。今日、私の広告案の最終確認をお願いできますか?」
彼は微笑みながら、「もちろん、美咲さん。すぐに確認しますね」と頷いた。
だが、次の瞬間、彼の表情が曇った。ファイルを探していた彼の手が止まり、眉がわずかにひそめられる。
「…おかしいな。美咲さんの名前が、見当たりません。」
美咲の鼓動が一瞬にして早くなる。何かがおかしい。そんな予感を裏付けるように、若い女性職員が駆け寄ってきた。
「美咲さん…っ、大変申し訳ありません!」
震える声で、彼女は深く頭を下げた。
「田中さんが…担当者欄を、自分の名前に変更してしまったようです。“了承を得ている”と仰っていて…」
時が止まったように感じた。
喉の奥がひどく乾いて、手先が冷えていく。それでも、美咲は震える心を懸命に抑え、静かに言った。
「…わかりました。伊藤副部長のところへ行きましょう。」
副部長・伊藤春香は、美咲にとってただの上司ではない。いつも彼女の成長を温かく見守ってきた、憧れの女性だった。
執務室に入ると、伊藤はすでに状況を把握していたようだった。机越しに目を合わせたその瞬間、美咲の心に一筋の安心が流れる。
「美咲さん、辛い思いをさせてしまってごめんなさい。でも、私はあなたの味方です。担当者欄の修正はすぐに手配します。」
その言葉に、こみ上げる涙を何とか堪えながら、美咲は深く頭を下げた。
その後、水野が田中へのペナルティについて提案するが、美咲は首を横に振る。
「水野さん、ありがとうございます。でも…私は、罰を望んでいるわけじゃありません。名前さえ修正していただければ、それで十分です。」
過去にすがることも、誰かを責めることも、もう彼女には必要なかった。ただ、クリエイティブな世界で、自分の足で立ち続ける。その強さだけが、彼女の進む道だった。
昼過ぎ、社内に活気が戻る中、美咲は一人の親友に会いにカフェへ向かった。店の奥、窓際の席に座るのは鈴木絵里。昔から彼女を支えてくれる、優しく、そして芯の強い女性だ。
「絵里…ちょっと、聞いてくれる?」
美咲はすべてを打ち明けた。悔しさ、不安、そして、それでも進もうとする決意。
絵里は、何も言わずに彼女の手を取った。
「美咲、あなたは本当に強い人よ。今までも、これからも。きっとこの経験が、もっと素敵な未来に繋がるから。」
その言葉に、涙がにじみそうになった。けれど、美咲は泣かなかった。泣いてしまえば、今この強さが崩れてしまいそうで。
夕方、美咲は再びオフィスへと戻った。静かに再登録の手続きを進めながら、自分の名前がプロジェクトに再び刻まれるその瞬間を見届けた。
それは、ただの事務処理ではなかった。彼女自身の“存在”を、改めてこの世界に刻みつける儀式のようだった。
東京の空に、夕陽が滲んでいた。
ビルの谷間を吹き抜ける風は、冷たくて、それでもどこか優しい。
美咲の物語は、まだ始まったばかりだ。




