第10話:香りの向こうで、また会えたなら
朝の陽光がカーテン越しに静かに差し込み、淡い金色の光がリビングの空気を優しく染めていた。
佐藤美咲はその光を背に、ディフューザーの香りを交換していた。選んだのは、亡き祖父が愛した、雅やかな和の香り。海を越えて取り寄せた香原料を、祖父が丁寧に調合した特別な香りだった。それは、過去と未来を繋ぐような、不思議なぬくもりを帯びていた。
「今日も一日、頑張るぞ。」
自分自身にそっと囁くその声には、少しだけ震えが混じっていた。胸の奥に残る失恋の痛みが、まだ時折顔を出す。それでも、美咲は一歩を踏み出していた。東京の広告代理店で働くグラフィックデザイナーとして、彼女は今、新しいプロジェクトに取り組んでいる。
磁石付きのお風呂場ディスペンサー。何気ない日常に、ちょっとした快適さと美しさを届けるアイテムだった。
作業机の前に座り、ペンタブレットに指を滑らせる。ソフトを立ち上げると、目の前には何枚ものスケッチとカラーパレット。
画面の中で、形が変わり、色が踊り、素材が呼吸する。
「この曲線、もう少し柔らかくしてみようかな……」
独り言をこぼしながら、美咲の指先はまるで舞を踊るかのように滑らかだった。創造の世界に身を沈めるその姿は、まるで心の奥底と対話しているようだった。
昼過ぎ、スマートフォンが震えた。画面に映るのは、親友・絵里からの着信。
「ねぇ、美咲。新メニュー入ったんだけど、ランチしない?」
「うん、ちょうどいいタイミング。少し気分転換したかったんだ。」
絵里のカフェは、美咲にとって“帰る場所”のような存在だった。温かい木の香りと、おだやかなジャズの音。絵里が淹れるコーヒーは、どんな日でも心をほどいてくれる魔法のようだった。
「で、新しいプロジェクト、どう?」と絵里が聞くと、美咲はふっと笑った。
「まだまだ試行錯誤。でも……なんだか楽しいの。悩みながら作ってる感じが、ね。」
カフェの片隅では、絵里が飼っている猫のミミが丸くなって眠っている。その寝顔を眺めているだけで、心が柔らかくなっていった。
ランチの後、美咲は再び作業へ戻る。夕暮れが差し込む頃には、試作品のデザインが形をなし始め、資料作成に取りかかった。プレゼンに向けて、美咲は一つ一つの言葉を慎重に選びながら、夜遅くまで集中を続けた。
ようやく資料が完成した頃、彼女は深く息を吐き、ワインのボトルに手を伸ばした。グラスに注がれた赤が、部屋の灯りに静かに揺れる。
ふと脳裏に浮かんだのは、たった一度、山で出会った青年――悠斗。
遭難しかけた山道で、偶然にも彼と出会い、数時間だけ共に過ごした。だが、その短い時間が、美咲にとっては忘れがたい記憶となっていた。
「あの時の話、もっと聞いてみたかったな……」
呟きは夜に溶け、遠い記憶が胸を温める。再会の約束はなかった。でも、彼の前向きな瞳、自然体の言葉。それらすべてが、いまの美咲の原動力になっていた。
夜が深まり、ディフューザーから立ちのぼるお香が空間を包み込む。美咲は仕上げたディスペンサーを見直し、細部を確認した。
「これで、ようやくプレゼン用のデザインが完成か。」
達成感と心地よい疲労感が彼女を包む。その目には、未来への静かな決意が宿っていた。
今週、彼女はクライアントである河野悟に、このディスペンサーを提案する予定だった。大きなチャンス。けれど、その胸の奥では、別の不安も密かに蠢いていた。
失恋の余波、田中健との終わった日々――それらがまだ心のどこかで影を落としていた。でも、絵里の言葉が彼女を支えていた。
「美咲さん、そのディスペンサー、めっちゃ素敵です!」
画面の片隅に、後輩の菜々子からのチャット通知がポンと現れた。
彼女はいつも仕事の合間にさりげなく声をかけてくれる、気遣い上手な存在だった。そんな言葉ひとつで、美咲の心はふっと軽くなる。
「ありがとう、菜々子ちゃん。そう言ってもらえると、すごく励みになるよ。」
返信を打ちながら、美咲は小さく微笑んだ。画面越しでも、温かい気持ちはちゃんと伝わる。たとえ距離があっても、誰かに見守られていることが、どれほど心強いか――そのことを、美咲は最近よく感じていた。
その夜、グラスを手に、美咲は東京の夜景を見つめていた。星のように瞬くビルの灯り。その中に、どこかでまた悠斗も見ている景色があるかもしれない――そんな希望をそっと胸に灯しながら。
「悠斗さん、また……どこかで。」
声なき願いは、ワインの香りと共に静かに夜へと溶けていった。
新しいプロジェクトと向き合いながら、過去を乗り越え、未来へ進む。
美咲の心は揺れながらも、確かに前を向いていた。
そしてその揺れこそが、彼女をさらに美しく、強くしていくのだろう。




