第1話:もう、あなたのためじゃない
美咲はその朝、どこか胸がざわついていた。
理由はわからない。ただ、冷たい春風のような違和感が心の奥でさざめいていた。
東京・渋谷の喧騒の中で働く彼女は、広告代理店のグラフィックデザイナーとして、日々クリエイティブな波に揉まれていた。だが、その日彼女を覆っていた不安は、クライアントの理不尽でも、締切のプレッシャーでもなかった。もっと、個人的で、静かに胸を締めつけるもの――。
オフィスのディスプレイに映る未完成のデザインに目をやりながら、美咲の脳裏にふと浮かんだのは、元婚約者・田中健の顔だった。
数週間前、何の前触れもなく「別れよう」と告げられたあの日から、世界の色が少しずつ剥がれ落ちていくような感覚があった。
「美咲、ちょっと話があるんだけど……いいかな?」
背後から聞こえた懐かしい声に、心臓が不規則に跳ねた。
ゆっくりと振り返ると、田中が少し緊張した面持ちで立っていた。彼の目は、美咲の視線を避けるように揺れていた。
「実は、花との間に子供ができたんだ。彼女と一緒になりたいと思っている。」
まるで何気ない報告のようなその言葉に、美咲の心は一瞬で凍りついた。
佐々木花――田中の部署で働く契約社員。いつも明るく、社交的で、田中と親しくしている姿を何度も見かけていた。しかし、こんな形でその名前を聞くことになるとは。
「そう……」
声が思いのほか冷静だったのは、心が現実を受け止めきれていなかったからかもしれない。裏切られた怒りと、どこかで予期していた失望が、胸の奥で交錯していた。
「美咲、ごめん。僕たちが共同で建てた家に、花が住みたいって言ってるんだ。」
静かに、しかし確実に、美咲の中で何かが音を立てて崩れていった。
深呼吸をひとつ。彼女は静かに頷いた。「わかったわ。でも、その話はきちんと手続きを踏んで進めないとね。」
田中は少しホッとしたように見えた。「ありがとう。後で、ちゃんと時間を取って話し合おう。」
田中が去った後、美咲はしばらくの間、窓の外を見つめていた。雨が降り出しそうな曇り空。いつもの東京の景色が、今日はやけに遠く感じた。
本当に自分は、田中のために何もかもを犠牲にしてきたのだろうか?
自分の人生を、他人の期待に合わせて生きることに、どれほどの価値があるのだろう?
「もう、うつむくのはやめよう」
そう心に決めた瞬間、胸の奥で何かがふっと軽くなるのを感じた。美咲は新しいプロジェクトのスケッチを始めた。画面上に広がるカラフルなデザインが、彼女の心を少しずつ明るく照らしていった。
次の日、美咲は健とカフェで再会した。
窓の外には春の雨が降り続けていた。カップから立ち上る湯気が、ふたりの間の空気をぼんやりと揺らしていた。
「美咲、わかってほしいんだ。これは僕たちにとっても、花にとっても最善の選択なんだ。」
田中の声には苦悩がにじんでいたが、その言葉は、美咲にとって自分の存在を切り捨てる宣言のようにしか響かなかった。
「健、私たちが折半して建てたこの家に、彼女が住むっていうの?」
問いかけに、田中は少し間を置き、視線をテーブルに落とした。
「ああ、そういうことになるかもしれない。花がそう望んでいるんだ。」
「私たちの思い出が詰まった家に、私がいない未来を想像するだけで、胸が張り裂けそうよ。」
美咲の声は震えていた。それは、過去との決別を告げるかのような痛みだった。
彼との記憶が染みついた家。笑い合ったキッチン。夜更けまで話し込んだリビング。
すべてが今、他人のものになろうとしていた。
「でも、もう呆れたわ、健。あなたの勝手な選択に、これ以上振り回されるつもりはないの。私、自分の人生をあなたなんかのために犠牲にするほど暇じゃないみたい。」
田中が何かを言いかけたが、美咲は手を挙げて制した。
彼女の言葉は、静かだけれど確かな決意に満ちていた。
「健、もういいわ。あなたとの時間で得たこともあったけど、今はそれを思い出して感謝するほど心に余裕はないの。正直、早くこの話を終わらせたいのよ。私、自分のことに集中したいから。」
小さな微笑みを浮かべて、美咲は席を立った。
部屋に戻ると、彼女はデスクに広げた新しいプロジェクトの資料に目を通し始めた。
カラフルな配色。自由なレイアウト。そこには、彼女自身の「これから」が映っていた。
外はすっかり暗くなっていたが、部屋の中は温かな光で満たされていた。
美咲は深呼吸をひとつして、未来に思いを馳せた。
彼女の新しい日々が、ここから始まる。