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波多野家、浮く

作者: 雉白書屋

 とある静かな町の一角に佇む一軒家、『波多野家』。そこそこの広さを持ち、古風な外観と厳めしい雰囲気を漂わせるその家は、まるで周囲に静寂を強要しているかのようだった。

 しかし、ある朝、その静寂を突き破るような怒号が波多野家から響き渡った。


「な、な、な、何をしているんだ! 今すぐ『それ』をやめなさい!」


「でも、パパ、僕……」


「いいからやめるんだ! 口答えするな!」


「でも、僕……空を飛んでるんだよ!」


 波多野家の父は、家そのものと同じく時代錯誤なほど厳格な男であった。

 ゆえに許せなかった。自分の息子が人とは違う奇妙な行動を取ることを。今はまだ小学一年生だが、将来は名門大学に進学し、一流企業に就職することが彼の中で決まっていた。ミュージシャンやタレントなど論外。たとえ、特別な才能に恵まれていたとしても許しはしない。それが“空を飛ぶ”能力であっても。

 実際のところ、息子は『飛んでいる』というより『浮かんでいる』と表現するのが正しい。

 その朝、居間で新聞を広げていた波多野家の父は、妻の悲鳴を耳にした瞬間、眉間に深い皺を寄せた。

 何かあったのかと心配するよりも先に、『朝からあんな大きな声を出して、近所に聞かれたらどうするんだ』という恥の意識が先立ったのだ。

 その直後、廊下を駆ける足音が響き、波多野家の父は新聞を床に叩きつけるように置いた。襖を睨みつけながら向こうから近づいてくる足音に耳を澄ませ、息を吸い込んで迎え撃つ準備をした。


「あ、あ、あなた……」


 襖の向こうから現れたのは、髪を乱し膝を震わせる妻だった。その姿を見た波多野家の父の心に湧いたのは、やはり心配ではなく『見苦しい』という感情だった。

 たかが息子を起こしに行ったくらいで何をそんなに取り乱しているのか。一喝するつもりだったが、呆れて吸い込んだ息をただ吐いた。蔑むような目で妻を見つめ、もう一度息を吸い込む。

 その瞬間、彼の耳に突き刺さるような勢いで息子の声が飛び込んできた。


「パパ! 僕、空を飛んでるよ!」


 妻の頭越しに見えたのは、宙にふわりと浮かぶ息子だった。そして、波多野家の父は激昂したのであった。


「やめろと言われたらやめればいいんだ!」


「でも……」

「あ、あなた、これはいったいどうなっているのでしょうか。お医者様をお呼びしたほうが――」


「お前は余計なことをするな! 火でも見ていろ! ガスがつけっぱなしだろう!」


「は、はい……」


「さあ、早く降りなさい」


「でも、パパ、降り方がわからないし、せっかく飛んでるんだよ。僕、このまま学校に行きたい!」


「な、な、な! パパじゃなくて、お父さんと呼びなさいと前にも言っただろ! 降りなさい! 今すぐ!」


 彼は息子に掴みかかり、無理やり引き下ろそうとした。息子はバタバタと暴れて抵抗したが、それがなくても彼には息子を下ろすことができなかった。息子はまるで浮き輪をつけているかのように、ふわりと浮力を保ち、どれだけ引っ張っても元の高さに戻ってしまうのだ。


「痛いよ! はなして! 僕は空を飛ぶんだ!」


「そんなこと許さないぞ!」


 前述のとおり、彼の息子は空を飛んでいるというよりも、風船や無重力状態の宇宙飛行士のように宙に浮いていると言ったほうが正しい。だが、そんな細かい違いは波多野家の父にとってどうでもよかった。彼はただ息子を引きずり下ろそうと躍起になった。

 しかし、その騒ぎは近隣の住民たちの耳に届き、心配した人々が次々と波多野家に集まり、インターホンを押し始めた。「出るな!」という波多野家の父の怒声も虚しく、妻はまるでロボットか、染みついた生前の行動を反芻する幽霊のようにふらふらと玄関へ向かい、ガラスの引き戸を開けた。

 こうして、騒ぎは瞬く間に広まっていった。


 ――息子さん、すごいじゃないですか!

 ――東TVです! カメラに一言!

 ――息子さんを出してください!

 ――帝東新聞です! ぜひ取材を!


 周囲からの称賛や興味、そして取材の申し込み。報道陣がどこからともなく湧き、気づけば家の周りはカメラとマイクのジャングルになっていた。朝のニュース番組では「飛ぶ少年」の話題で持ちきりに。リポーターがマイクを向ける。

 しかし、波多野家の父は一貫してしかめっ面を崩さず、息子が空を飛ぶという事実を頑なに否定し続けた。

 彼は息子を部屋に閉じ込め、記者たちを門前払いし、報道を行ったテレビ局や新聞社には厳重に抗議し、それ以上話題にすることを許さなかった。

 誰もが食いつくセンセーショナルな話題だったが、当事者の許可がなければ報道の続行は難しい。マスコミは食い下がったものの、波多野家の父は壊れた蓄音機のように「訴えるぞ!」「訴える!」「訴訟訴訟訴訟訴訟訴訟!」と繰り返し叫んだ。その凄まじい剣幕に押され、波多野家の周りをうろつく報道陣の数は日を追うごとに減っていった。

 一部の週刊誌はなおもしつこく、波多野家の妻を取り込もうと画策した。しかし彼女はこの騒ぎに躁状態となり、交渉の最中に妙なタイミングで笑い出したりした。さらに、「おほほほほほほ! 私だって飛べるのよ!」と叫び、バレエのポーズを取って踊り出すなど奇行を見せたため、まともな話し合いが成立せずに断念した。

 その結果、週刊誌は方針を変え『息子を家に閉じ込めて学校に行かせないのは明らかな虐待である』などと攻撃的な記事を掲載した。

 それにより、学校関係者や児童相談所の職員が家を訪れる事態に発展したが、波多野家の父は「家庭の事情だ」「息子は病気だ」という二本の刀で追い返した。

 職場でも同僚や社長から息子の件について尋ねられたが、波多野家の父は断じて折れなかった。その態度が原因で職場での評価は冷え込んだが、解雇される筋合いはないため、彼は毅然とした態度で働き続けた。

 続報が出なければ話題にも上らない。世間の興味はやがて薄れ、近しい関係の者からは腫れもの扱いされていたものの、波多野家は騒動前とほぼ変わらぬ生活に戻った。

 もっとも、息子は未だに宙に浮いていた。

 波多野家の父は子供部屋の柱に鎖を取りつけ、息子をそこに繋ぎ、外出を一切禁じた。食事は部屋に差し入れ、トイレはおまるで済ませるよう指示。排泄物の処理や世話はすべて妻の役目とした。

 最初は大声で抗議していた息子も、父が決して折れないと悟ると、やがて静かになった。唯一の慰めは、部屋にテレビが置かれたことだった。息子は毎日テレビを見て過ごすようになった。

 月日が流れても、波多野家はまるで日常アニメのように静かで変わらぬ生活を続けた。

 転機が訪れたのは、騒動の終息からしばらく経ったある日。妻が息子の排泄物の処理に耐えられなくなり、金切り声で苦痛を訴えた。

 その声を浴びせられ続けた波多野家の父は、半ば投げやりに息子の鎖を解いた。

 しかし、息子は自由になったにもかかわらず、家の外に出ようとはしなかった。あるときから与えられたパソコンに夢中になり、外出の必要を感じなくなっていたのだ。

 そして実は、その頃には息子は『宙に浮いている』とも言えない状態になっていた。彼はせいぜい数ミリ程度しか地面から離れていない。ただ、それは彼の体重が激増したからではなく、もともと浮遊できる高さの限界が決まっていたのだ。

 その高さは約百七十センチ。つまり、彼自身の身長とほぼ同じである。(ちなみに、父の身長はそれより低かった)

 もっとも、膝を曲げればその場でふわふわと浮いているように見えたし、座禅を組めば仙人にも見えたかもしれない。しかし息子はそんな姿を他人に見せようとは思わなかった。また、たとえ見せたところで彼のその醜悪な見た目が先立ち、人々は不快感しか抱かなかっただろう。

 こうして波多野家の生活は変わらぬまま続いていった。


 ただ、波多野家の父は、まるで海上を漂流中のボートに乗っているような微妙な浮遊感を抱き続けたのだった。

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