09 ジェマの狂気とオーロラの反抗
アビゲイルがオーロラの部屋を訪れると、オーロラは熊のぬいぐるみを抱いてぼんやりと窓の外を眺めていた。もともと血色のいい顔立ちとは言えないのに頬に赤みはなく、唇に至っては紫に近い。
「……オーロラお嬢様」
「っ!」
呼びかければ、オーロラは不自然なほど大きく肩を揺らした。何かに怯えていることは明らかだ。
「お嬢様、アビゲイルと申します。本日は私がお嬢様のお傍に仕えさせていただきます」
「そ、そうなの。よろしく、アビゲイル」
「よろしくお願いいたします」
ジェマは訪問の際は婚約者の屋敷に朝から五時間ほど滞在するらしい。
婚約者と交流しながら義母から家政を少しずつ学ぶ。そして昼食を取った後、王宮勤めのスチュアートと義父は仕事に出かける。
そのあともジェマは義母や使用人たちと過ごすのだが、ここでジェマはいつも義妹のオーロラと一緒に過ごしたいと言い出すらしい。
オーロラはジェマが来る日に予定を入れることもあったが、ジェマが「オーロラ様から刺繍を習いたい」と言うと、兄に予定をいれることを阻止されるようになった。確かにオーロラの刺繍の腕は素晴らしい。ジェマが「オーロラ様に刺繍を教えていただいて、刺繍を刺したハンカチをスチュアート様にプレゼントしたいんです」と言われれば、スチュアートは嬉々としてオーロラに協力を要請……いや、強要したのだろう。真っ青になる妹の顔色に気づくこともなく。
「失礼しますわ、オーロラ様」
昼食が終わってすぐ、ジェマはオーロラの部屋を訪れた。
怯えるオーロラを見てにんまりと笑うと、傍に控えるアビゲイルを一瞥する。
「あなたは出て行ってちょうだい。オーロラ様と二人きりになりたいの」
「……かしこまりました」
オーロラが愕然とした表情をする。
だがアビゲイルには選択肢がない。かわいそうだが、オーロラにはあと少しだけ痛い思いをしてもらわねばならない。
おそらくジェマはスカートの下に鞭を隠し持っている。かつてアデラにしたように鞭でオーロラを嬲っているのだろう。傷跡がつかないよう慎重に。そしてうら若い乙女が自己申告できない場所に、あえて傷を残しているはずだ。ステラ侍女長によれば、オーロラはここ半年、入浴の際も着替えの際も侍女を遠ざけて一人でするようになったらしい。まだデビュー前でコルセットが必要ではないので、周囲はそういった年頃なのだろうと納得しているようだが……。
部屋を出たアビゲイルはそのまま素早く隣の部屋に入り、オーロラの部屋と隣の部屋を繋ぐ内扉をそっと開けた。
内扉はうまいこと二人の死角になる位置で、しかも声がよく聞こえる。
スチュアートとファース伯爵は出かけてしまったが、まだ屋敷にはオーロラの母の伯爵夫人がいる。
彼女をこの部屋に呼んでジェマがオーロラを虐げているところを見せれば、ジェマはまずい状況に追いやられるだろう。
ジェマは執念深い。一度鞭を振るい始めれば二十分近くも嬲られ続ける。虐待が始まってから夫人を呼んでも十分間に合うはずだ。
「今日も陰気臭い顔をしているわね」
ジェマは早速鞭を取り出していた。そのまま部屋をぐるりと見渡したので、アビゲイルは一瞬どきりとしたが、内扉が開いていることには気づかなかったようだ。
彼女は家具を見渡していた。そしてチェストの一つに近づくと、上においてあった宝石箱を床にぶちまけた。
「……あっ」
オーロラが思わず声を上げる。アビゲイルも緊張感に息をのんだ。
「相変わらずしけてるわね。……あら、これはいいわね。もらってあげる」
まるでチンピラのようなことを言いながら、ジェマは宝石の一つを取り上げた。琥珀のブローチで、いかにも高価だということがわかる。今までもこうやってオーロラから私物を奪っていったのだろう。
オーロラはブローチを取られても俯いたままだ。拒否したところで無駄だと悟っているのだ。
その間にもジェマは他のクローゼットやドレッサーを勝手に開き、めぼしいものを物色していく。だが思うような収穫がなかったのだろう。鞭を握りしめながらオーロラにゆっくりと近づいた。
「あんた!いいものをわざと隠しているわね!!」
ぱしっ。
軽く鞭が床を叩き、オーロラは飛び上がった。アビゲイルにはわかる。あれは鞭で打たれる痛みを知っている怯え方だ。
「あんたみたいなどんくさくて大して美しくもない女は、私に宝石やアクセサリーを貢いで喜ばせるためにいるのよ。それすら満足にできないなんて……ねえ?」
ばしんっ。
「きゃあっ」
「大きな声を上げるんじゃないわよっ」
ばすっ。
ばすっ。
とうとうジェマの鞭がオーロラの背中を打ち始めた。まだそれほど強く打たれていないようだが、痛いことには変わりないだろう。オーロラは唇をかみしめて悲鳴をこらえている。
その様子を見たジェマはにやりと口の端を上げる。そしてとうとうオーロラの尻に向かって鞭を振り上げた。
ばしんっっ。
「うっ……、ぐ」
「なっ!?」
「え?」
ジェマとオーロラは驚愕した。なぜなら先ほど部屋を出たはずの侍女が、オーロラに覆いかぶさるようにして彼女を鞭の衝撃から守ったからだ。
《ちょっとぉ!何やってんのよぉ、アデラーーーーッッ》
「な、なによあんた!」
「く、……。あなたこそ、こんな幼い子になんてことをっ」
「ふ、ふんっ。スチュアート様に言いつけるつもり?無駄よ。スチュアート様も伯爵夫妻も私を信頼しきっているわ。そこの陰気な娘よりもね!」
開き直ったジェマはさらに鞭を振るう。
「やめて、やめて!」
「う、…、ううっ」
《作戦が台無しじゃない。アデラのバカーーー!お人よしーーー!》
アビゲイル……いいや、アデラの中のもう一人の彼女が罵倒してくるが、どうしても見過ごせなかった。
自分の目の前で、なんの落ち度もない少女が鞭うたれるなんて、虐げられてきたアデラだからこそ許せなかった。
結局アビゲイルはそのまま二十分もの間ジェマに鞭うたれ続けた。
しかもその後ジェマはアビゲイルがオーロラのあの琥珀のブローチを盗もうとしたと伯爵夫人に告げ、アビゲイルを解雇させてしまったのだ。本当に抜け目ない。
オーロラが全てを知ったのはアビゲイルが身一つで伯爵邸を追い出された後だった。
「お母様!どうしてアビゲイルを辞めさせたの?」
「あの侍女はあなたの私物を盗んでいたのでしょう?言い出せなくて怖い思いをしたわね」
母の言葉にオーロラは愕然とした。自分が弱いせいでアビゲイルがとばっちりを受けたとすぐに気づいたのだ。
「ち、違います!アビゲイルは何も盗ってはいません」
「もう嘘をつかなくていいんだよ。ジェマに聞いたんだ。あの侍女はお前を脅していたらしいな。まったく忌々しい」
「違います、お兄様!そんなの嘘だわ」
「オーロラ、お前はそのうちどこかの家に嫁ぐんだ。侍女に脅されるなんて気が弱いにもほどがあるぞ」
「お父様」
家族たちが笑顔で慰めてくるが、オーロラはむしろ恐怖を感じた。このままずっと、ジェマの嘘に支配され続けるのだろうか。彼女の暴力に怯え続けなければならないのか。
スチュアートの隣にいるジェマが、オーロラだけにわかるようににやりと笑った。……いやだ!!
「違うわ。違う、違う、違う!」
「オーロラ?」
「私を脅していたのもブローチを取ったのもジェマ様よ!あの人は噓つきだわ!私をずっといじめていたのよ」
オーロラの告白に、家族は唖然とした。
やっとだ。やっと言えた。
……だが、家族の反応はオーロラの心を打ち砕いた。
「なんてことを言うの。ジェマ様はお前のために心を砕いてくださっているのに!」
「見損なったよ、オーロラ。義姉を陥れようとするなんて」
「どうしてジェマ様と仲良くできないんだ。我儘も大概にしなさい」
「そんな……」
ジェマの外面の良さは、オーロラの想像以上だった。しかも彼女は家族や友人たちに、オーロラが兄と婚約している自分をよく思っていないようだ、と、触れ回っていた。
普段自分からあまり発言しないうえ、人の多い集まりを避けているオーロラは、知らぬうちに兄の婚約者に嫌がらせをする我儘妹に仕立て上げられていたのだ。
「お義父様、お義母様、スチュアート様……。全て私が至らないからですわ。どうかオーロラ様を責めないでくださいませ」
「ジェマ……。君はなんて優しいんだ」
「オーロラ様は侍女に酷い仕打ちを受けて混乱されているのです。今日は休ませてあげましょう」
「……そうだな。オーロラ、お前はしばらく部屋で謹慎だ」
「お父様、そんな!」
「ジェマ様に謝罪するまでは部屋から出さん。連れていけ」
悲壮な顔で使用人たちに連れていかれるオーロラを見ながら、ジェマは内心高笑いをするのだった。