05 王太子ブライアン
「―――それでは王太子殿下。失礼いたします」
「役目ご苦労だった」
二人の調査官がブライアンに丁寧に礼をし、部屋を辞す。扉が閉まって廊下を歩く足音が遠ざかったのを確認したブライアンは、ソファにどかりと腰をおろした。
「レックスめ!!あいつのせいでとんだ目にあった!」
苛々と足を組み直していると、侍女が来客を告げる。ブライアンの元を先触れなしで訪れることができるのは一人だけだった。
「ブライアン様!」
「おお、ヘザー」
愛しい婚約者のヘザーが部屋に入るなりブライアンに抱きつく。その柔らかな感触にブライアンは一瞬で機嫌を直した。
「調査官が来ていたと聞きましたが大丈夫でしたか?ヘザーはブライアン様が恐ろしい事件に巻き込まれてしまったのではないかと心配で」
「問題ないよ、ヘザー。顔見知りについて聞かれていただけだ」
「……もしかして、レックス・ラムゼイ様ですか?」
「ああ、そうだ。同僚を監禁して本来自分がする仕事をやらせ、しかもその成果を奪っていたとは……まったく、あんなのを一時期でも側近にしていたとは恥ずかしい話だ」
「そんな!ブライアン様は悪くありませんわ。それにもう随分と交流がなかったではないですか」
本当はアデラを利用できなくなったレックスを、ブライアンが利用できなくなって切り捨てたのだ。そしてここ最近、今度はアビーを利用して評価が上向いたレックスを、またブライアンは利用しようとして自分から近づいた。調査官にはそこを突かれたが、レックスの方から側近に戻してほしいとしつこくされたと白を切り通した。
「仕方がないよ。あいつにはその女性文官を監禁しただけでなく殺した疑いまでかかっているんだ。殺人ともなれば、警邏や調査官もレックスの関係者を隅々まで調べざるをえないだろう」
「ブライアン様……。さすがですわ。お心が広い」
ヘザーに煽てられてブライアンは気分が良くなる。やはり無表情で自分を立てることをしないアデラよりも、ヘザーを選んで正解だった。
ヘザーを膝の上に座らせると、ブライアンはこれからのことを思案し始めた。
レックスはもう駄目だ。見捨てるのは当然として、放っておくのもよろしくない気がする。というのも、彼はブライアンが前の婚約者のアデラを使い、王太子である自分の書類仕事をやらせたり、式典の準備を丸投げされていたことを知っているからだ。アデラの家族が彼女の境遇を容認していたからとはいえ、それが酷い所業だということはブライアンも自覚している。ヘザーを最愛と決めてからも便利なアデラを手放すつもりはなく、婚約破棄した後しばらくして呼び戻し、側妃か妾として置いておくつもりでいた。
レックスはブライアンがアデラを側妃にしようとしたことまで知っている……というのも、それを提案したのはレックスの方なのだ。王兄である大公やその息子のウィリアルドを国王に据えたい派閥はすでにレックスに目を付け、ブライアンを引きずり降ろすための材料を探ろうとするだろう。レックスからあの婚約破棄騒動のことを調べられるのは不味い。
「レックスには永遠に口をつぐんでもらわなくてはな……」
ぽつりとぼやいたブライアンの言葉は耳に届いただろうに、ヘザーは気にかけた様子もなく平然としていた。
ブライアンはベルを鳴らして従者を呼ぶと、部屋に護衛騎士のミーノスを招き入れた。伯爵令息のミーノスは王立学園でブライアンやレックスと共に勉学に励み、今は専属の護衛騎士として仕えてくれている。
「ミーノス、頼みがあるんだが……」
そして二日後。ミーノスがブライアンの元に報告を持ってきた。
てっきり牢の中のレックスが変死を遂げたというものだと思っていたブライアンは聞かされた内容に驚く。
「レックスが牢の中から姿を消しただと?」
「はい。牢番も警備の兵も眠らされ、縛られていました。何も見ていないそうです」
ミーノスは顔色が悪い。
現場を発見したのは彼だったという。ブライアンに命じられてレックスに毒入りの食事を渡すつもりが、脱獄後の現場を発見することになるとは思わなかっただろう。毒入りの食事は排水溝に捨てて難を逃れたようだが、調査官には人目を避けてレックスに会いに行った理由をしつこく聞かれたらしい。
「何者かが逃亡を手助けしたのか?」
「わかりません。警邏が全力で探しているようですが」
「うら若い女性を無惨に殺した男だ。市井を不安にさせてはならん。王太子も懸念していると捜索隊に伝えろ。場合によっては金銭援助もすると」
「かしこまりました!」
こうして逃亡したレックスの捜索は秘密裏に、しかし大々的に行われた。捜索の七日後に用水路で若い男の死体が上がり、背格好からおそらくそれがレックスだろうという結論に至ると、やがて捜索は打ち切られた。しかし遺体の顔は判別できないほど潰れていたと知らされたブライアンの胸には、漠然とした不安がシミのように残ったのだった。
レックスのものと思われる遺体が発見されて数日も経たないうちに、ブライアンは新たな問題に頭を悩ませることになった。
ある日愛しいヘザーが泣きながらブライアンのもとを訪ねてきたのだ。
「ブライアン様ぁ!大変です。私とブライアン様が悪者にされる劇が流行っているそうなんです」
「劇だと?」
「そうなんです。ヒロインのモデルはアデラ様で、私とブライアン様はアデラ様をいじめて追い落とす悪者にされて……それから、それから……っ」
「落ち着くんだ、ヘザー。平民たちが特権階級である我々を批判することはよくあることだ。ある程度ガス抜きをしないと不満が溜まってしまうと妃教育で習っただろう?」
「そうじゃないんです!王都ではまだみたいですけど地方の大きな街ではほとんど公演されていて、貴族たちも見に行っているらしいんです。お茶会でもその噂でもちきりです。きっと紳士サロンでも……」
「何だと?」
さすがのブライアンも顔色を変えた。王家や貴族に不満を持つ平民たちが王太子のブライアンを悪としたところで大した問題ではないが、貴族たちがその考えを支持しているとなれば話は全く違ってくる。
最近結婚式の準備が忙しくて、ブライアンはどのサロンにも訪れていなかった。ヘザーも同じようなものでお茶会はご無沙汰だったはずだ。昨日は準備が一段落したので、息抜きに友人が主催するお茶会に行くと言っていた。そこで劇の話を聞いたらしい……ブライアンもアデラがいれば準備を丸投げして紳士サロンに参加できたのだろうが。
聞けば聞くほど、それはブライアンたちをモデルにした劇だった。
主人公の貴族令嬢アリシアは、その美しさと優秀さから国王に見出され、王太子の婚約者として様々な教育を施されてきた。ところが王太子のブッシュは自分より優秀なアリシアに嫉妬し、彼女をぞんざいに扱う。自分の仕事を丸投げしてアリシアを酷使し、そして彼女の功績をさも自分がやったかのように振る舞った。
やがて周囲もアリシアを軽く扱うようになり、アリシアは孤立していく。そんな中、ブッシュ王子はヘレネという下位貴族の令嬢と知り合い、彼女を寵愛するようになる。ヘレネは王太子妃の立場を奪うため、取り巻きを使ってアリシアをいじめ、彼女の評判を落とすような噂をばらまく。そのうえ自分の方がアリシアにいじめられて辛い思いをしているとブッシュ王子に訴え、ブッシュはアリシアとの婚約破棄を決意する。
そしてとうとうある夜会でブッシュ王子はアリシアに婚約破棄を言い渡した。アリシアがヘレネをいじめていると一方的に攻め、反論も許さずに拘束して罪人用の馬車に乗せ、国境の街に放りだしたのだ。
前半部はここで終わり、後半部はアリシアが偶然出会った隣国の王子に見初められ、隣国で幸せになるというストーリーが展開される。
「……なんということだ」
後半はともかく、前半はほとんど自分たちの出来事に一致していることにブライアンは戦慄した。
違うことといえば、劇の王子はヘレネの言い分に騙され、ヒロインを国境に放り出したというくだりくらいだろうか。ブライアンはヘザーのいじめが自作自演であることを知っており、アデラを家に送り返しただけだ。とはいえ結局は身一つで放逐されたのだから処刑と同じだと言われればそれまでだが……。
「ブライアン様、どうしましょう?」
「さすがにこれは見過ごせない。運営元に圧力をかける。ヘザー、君は知らないフリをするだけでいい。この話を否定しても肯定してもいけないよ。いいね?」
「わ、わかりました」
実家に見放されていたとはいえ、侯爵令嬢で王太子の婚約者だったアデラを追い落とした女だ。大々的に潰そうとしないブライアンを納得いかなそうな顔で見てはいたが、表立って不平を言うことはない。……そう、ブライアンはこういう空気が読める女が好きなのだ。
「心配するな、ヘザー。君との結婚式は予定通り華々しいものにする。二人で幸せになろう」
「はい、ブライアン様」
ヘザーが去ると、ブライアンはすぐにミーノスを始めとする側近を呼びつけた。
「私達とアデラをモデルにした演劇が流行っているそうだな……なぜ報告に来ない?」
側近の何人かは焦った顔をした。知っていて黙っていたのだろう。
「すぐに劇団のバックを探れ。私とヘザーの結婚に不満を持つ貴族が糸を引いているのは間違いない。……まだ手は出すなよ?」
「何故ですか?すぐに圧力をかけた方が良いのでは?」
「そんなことをしたら連中の思う壺だ。私が本当にアデラを粗略に扱っていてヘザーと結婚するために陥れた、だから劇団を攻撃するのだと声高に触れ回るだろう。まずは大本を断つ。敵の正体がわかればいくらでもやりようはある」
「その黒幕ですが、アデラ嬢の実家の侯爵家なのでは?婚約破棄されたことを恨みに思って……」
「……」
それはない、とブライアンは知っていた。
アデラを陥れた自分が言うのも何だが、あの侯爵家……クラーク家の連中は異常だ。婚約破棄した理由の一つに、あの家と縁付きたくなかったというのもある。クラーク侯爵家でひたすら蔑まれ、虐げる存在として生まれてきたアデラを不憫と思ったほどに。
「あの侯爵家はこんな回りくどいことはしない。いいから早く調べにいけ!」
無能な側近たちを追い出し、深くため息をつく。
アデラが婚約者だった頃はこうではなかった。アデラはブライアンが知りたい情報をすぐに調べてくれたし、報告に来てくれた。
……そう、アデラがいれば。
「アデラ……お前なのか?」
劇団を調べろ、と命じたのは過剰に反応して敵に隙を見せたくなかったのはもちろんだが、ある疑念があったからだった。
気は弱かったがアデラは優秀だった。自分を貶めたブライアンに復讐するために、彼女がこの事態を引き起こしているのではないだろうか。
ブライアンは決して愚鈍な男ではない。裏に元婚約者の気配を感じていた。
《劇団の周囲を、鼠がうろついているみたいよ》
「王太子でしょう。意外と冷静ね」
《アデラ、あんたが黒幕だって気づかれているんじゃない?》
「……そうかもしれないわね。ブライアンはただのお花畑王子じゃないから」
ブライアンならば、裏にアデラがいることに気づくかもしれないとは思っていた。アデラの優秀さを一番わかっているのはあの男なのだ。
「きっと私を見つけたら適当な罪を繕って拘束し、慈悲と称して手元に置くつもりでしょうね……無償で使い潰すために」
《どうするの?》
「もちろん潰される前に潰すわ。私を裏切ったことを後悔させてからね」
アデラは鏡の前で悠然と微笑む。
目の覚めるような美女が一人、佇んでいた。
「アンヌマリーさん、出番ですよ」
「わかりましたわ、座長」
返事をすると、小太りの男がひょっこりと顔を出す。
「もしかしてどなたかいらっしゃいました?話し声が聞こえたような」
「いいえ、セリフの練習をしていたの。だってこれからクライマックスですもの。何回やっても緊張して」
「さすがアンヌマリーさん!観客たちは美しく変身したヒロインのアリシアが、愚かなブッシュ王子たちを断罪する瞬間を今か今かと待ってますよ。……さあ」
差し出された座長の手を取り、女優アンヌマリーは足を踏み出す。
―――待っていなさい、ブライアン。そしてヘザー。あなた達の人生を、必ず黒く塗りつぶしてあげるから。