02 王太子の元側近・レックス
「アデラ様、この書類もブライアン殿下の下に持っていけばいいのですか?」
「ええ、そうよ。いつも悪いわね、レックス様」
「そんなことは」
レックスはちらりとアデラを見た。
ブライアン王太子の婚約者であるアデラは、数日前から宰相府に派遣されて仕事の一部を任されている。そのほとんどは王太子が処理すべきものだ。
アデラは十四歳になるとすぐに、ブライアン王太子の仕事を代行していた。碌に睡眠をとっていないだろう彼女の顔には隈が浮いており、亜麻色の髪は無造作にまとめられただけだ。ドレスは王宮であつらえられただけあって質がいいものだが、十四歳の娘が着るにはシンプル過ぎた。彼女が侯爵家の令嬢で王太子の婚約者だと言っても、おそらく誰も信じないだろう。
「アデラ様。少しお休みになっては?顔色が悪いです」
レックスが声をかけると、アデラは少し驚いたようだった。後から知ったが、それまでアデラの体調を気遣うような人間はほとんどいなかったという。
「ありがとう、でも大丈夫です。……レックス様はお優しいのね」
アデラは儚く微笑んだ。
後にも先にも、レックスがアデラを気遣ったのはこの時だけだった。レックスはやがてアデラの優秀さに嫉妬し、その能力を利用して自分の仕事までやらせ、疲弊した彼女を嗤うようになった。
それは彼女が消息を絶つまで続き、やがて怠慢を覚えたレックスだけが宰相府に取り残された。
レックス・ラムゼイはラムゼイ伯爵家の嫡男として生まれ、これまで順風満帆の人生を歩んできた。
王立学園は常に上位に食い込み、卒業してからは一つ下の王太子の側近として傍に控えてきた。顔立ちも整っていたので令嬢たちからは常に秋波を送られ、ちやほやされていた。少しずつ任されてきた仕事も順調で、いずれは宰相候補とまで言われてきたのだ。
だというのに。
そのレックスの機嫌は、最近すこぶる悪かった。ここ一年、何をしても上手くいかないのだ。学園を卒業し、王太子の側近に選ばれたのが二年前。同時に現在宰相を務めるプリチャード伯爵の下に配属され、文官として下積みをしている。
最初は良かった。レックスは難しい書類を問題なくさばき、間違いや不備が発生すれば指摘して解決に動き、時にはプリチャード宰相に有意義な助言をし、皆に一目置かれていた。そして一年前、王太子の婚約者が問題を起こした際は彼女の悪事の証拠を集めるなどしてその排斥に一役買い、王太子のさらなる信頼を得ることができた。
だがそれからのレックスはぱっとしない。
書類の処理は遅く、できても不備ばかりでプリチャード宰相に小言を貰ったことは一度や二度ではない。後輩には辛く当たったり仕事を押し付けたりして、周囲からも白い目を向けられ始めている。王太子の側近も半年前に外されてしまった。
「これはただ、調子が悪いだけだ」
レックスは自分に言い聞かせるように独り言ちる。決して、決してあの女がいなくなったせいではない。自分はできる男なのだ。そうでなければ……。
「レックス卿、この書類なのだが」
「は、はい。ウィリアルド卿。なにか不備がありましたでしょうか?」
突然話しかけられたレックスは不機嫌な顔を向けるが、相手が格上であることに気づいて愛想笑いを浮かべる。書類を持って前に立っていたのはウィリアルド・ローデン大公子息だった。
ウィリアルドは王兄のローデン大公の次男で現国王の甥に当たる。若くして騎士団の副団長に就任するほどの実力者だ。レックスも美男子だと言われているが、王家特有の金髪と琥珀色の瞳をした彼の美貌には足元にも及ばない。
そこにいるだけで周囲を惹きつける魅力と堂々とした迫力にレックスは息を呑んだ。
「郊外で行われる演習の予算の承認がいつまでも降りないので、書類を作り直して直接持ってきた。担当はあなただと聞いているが?」
「あ、はい。はい!承ります」
「……演習は一週間後だ。今日中に通してもらいたい」
「ええ。ですから」
ウィリアルドから書類を受け取ろうとするレックスだが、ウィリアルドは不審げな顔をして書類を手に持ったままだ。
「本当にあなたに任せて大丈夫なのか?前回の予算も期限内に出したのに直前に書類が来ていないと言われた。その前もだ……。他の部署からも同じような話を聞く。あなたは本当に仕事をしているのか?」
「なっ!いくら騎士団の副団長とはいえ無礼なのでは?」
「ではその紙の束の中にある、その書類はなんだ?私が十日前に提出した書類だ」
「こ、これはっ」
「先ほどから観察していたが、君はただ座ってぼんやりしているだけだった。三十分以上もだ。他の者たちは忙しく立ち回っていたのだから休憩時間ということはないだろう」
「そんな、そんなことは……。ウィリアルド卿の勘違いです。この書類も、先ほど別の者がここに置いたのです。ずっとその者が持って滞らせていたのでしょう。厳しく言っておきますので」
「君は責任転嫁することだけは得意のようだな。もう結構だ。宰相に直接交渉しに行く」
「それは!宰相はお忙しいのです!!そのようなことで煩わせないでいただきたい!」
「くどい!!」
びりびりと空気が震え、レックスは腰が抜けそうになった。
これまでレックスに怒声を浴びせた人間などいなかった。両親も上司の宰相も、小言こそ言うものの怒鳴りつけたことはない。
「あ、あの……」
「宰相閣下はどちらに?」
ウィリアルドはもうレックスから興味を失ったように視線を外すと、傍にいた別の文官に話しかける。そのまま文官に案内されて宰相の執務室に向かうウィリアルドを、レックスは呆然と眺めることしかできなかった。
その日を境にレックスには書類が全く回ってこなくなった。
担当していた重要な予算の承認は別の文官が受け持つことになり、紙であふれていたレックスの机の上はすっきりした。お茶を頼んでも、それも運んでくれる女性文官の眼差しは冷たい。仕事がないので同僚にも全く話しかけられなくなり、レックスは職場で孤立してしまった。
「どうして!どうして俺がこんな目に!!」
全部ウィリアルドのせいだ。
これまでは王太子の側近だからと一目置かれていたのに、大公子息の登場であっさり身の置き場がなくなってしまった。あんな書類、期限内にさえ回せば文句を言われる筋合いはないのに。なのに紙切れ一枚でがたがたと……。あの女がいるときはそんなことはなかったのに。……そうだ、悪いのはいなくなったあの女なんだ。
「アデラ・クラーク……。お前が失踪なんてしなければ」
大人しく断罪されて泣き暮れていればよかったのに。そうすれば、折りを見てレックスが救いの手を差し伸べ、王太子の側妃にと進言してやったのに。そうしてまた自分の補佐をさせ、その能力を一生使ってやったのだ。
あいつが……あの女が元凶なんだ。俺は悪くないんだ!
「あ、アビー・アッシャーです。どうぞよろしくお願いします」
ウィリアルドの襲来から五日後。
針のむしろに立たされていたレックスの前に一人の新人文官が現れた。
赤い髪にそばかすの浮いた平凡な顔立ち。水色の瞳はおどおどと揺れていて、レックスはかつてのアデラを思い出した。
「アッシャー君の父君は先日功績を挙げて騎士爵を得た。彼女は王立学園には通っていないが、文官試験を優秀な成績でクリアしている。教育係は……そうだな、ラムゼイ君に任せよう」
レックスは一瞬口を開きかけ、しかし賢明にも閉じた。レックスはこれまで新人の教育係になったことはない。しかも相手は騎士爵を受けたばかりの男の娘ということだから、元平民なのだろう。
だが今ここで不満を口にすれば、自分に後がないことを彼は悟っていた。それに……。
「アビー……。あの女、使えるかもしれない」
アビーの自信のなさそうな顔。
うまく行けばこの状況を打破できるかもしれない。
レックスは知らずほくそ笑んでいた。