16 崩壊するクラーク侯爵家
ペレット子爵家との婚約を解消し、イーサンは茫然自失状態でクラーク家のタウンハウスに帰ってきた。
馬車が門に入ろうとしたところで記者たちに取り囲まれるが、それを煩わしいと思う気力もないほど打ちのめされていた。馬車から降りてエントランスホールに入るが、出迎えは新人のフットマン一人だ。ジェマの事件があってから、使用人も随分辞めた。当月の給金どころか紹介状すらいらないと、若い者から我先にと逃げ出していった。今残っている使用人は、給金を倍にするからと何とか頼み込んで残ってもらった者や、このフットマンのように親戚から紹介してもらった者だけだ。
「父は部屋にいるか?」
ペレット家との結婚式が取りやめになったことを話さなければならない。費用は全てペレット家が被るとはいえ、クラーク侯爵家としても親族や招待客にある程度の根回しをしなければならないだろう。
「本日は朝からお部屋にこもっていらして……あの、たまに物が落ちたり壊れるような音が」
「何だと?中で倒れているのではないだろうな」
「いえ、それは大丈夫です。先程頼まれてコーヒーをお持ちしましたがお怪我もされておりませんでした。……部屋の中はめちゃくちゃでしたが」
フットマンがためらいがちに言う。ここ数日、父侯爵は体調が思わしくないようだった。ジェマの事件やそれに伴うファース家とのやり取りがあったから致し方ないとも言える。どうやら睡眠を碌に取っていないようで、目の下にははっきりと隈が浮き、肌の張りがなくなっていた。
朝にペレット家に向かう際も父に状況を報告したイーサンだが、父は明らかに集中力を欠いているのが分かり、報告の途中で部屋で少し休んではと提案したほどだ。どうやらイーサンが出かけた後、父は何かが気に入らなかったのか部屋のものに八つ当たりをしていたらしい。
フットマンの青年はこれから父の部屋に行こうとしているイーサンを気遣ってくれたのだろう。
「そうだったか。お前はもう下がっていい」
「ですが……」
「大丈夫だ、父が私に危害を加えるはずがない。仕事に戻ってくれ」
「かしこまりました」
フットマンが下がると、イーサンは父がいる執務室へと向かった。
侯爵邸の執務室は屋敷の南東側に面していて一番日当たりがいい場所にある。まだ母が健在だったとき、イーサンはねだってよくこの部屋に入れてもらった。きびきびと仕事をさばく父を眺めながら、いつか自分も父のような立派な侯爵になると誓った。母と妹を守り、いずれは貞淑な妻を迎えて子供を得て……。
だというのに。
(アデラ、お前はどうして生まれてきたんだ。どうして母上を死なせてしまったんだ)
アデラのせいではない。生まれてきてしまったのはアデラの責任ではない。それは今日ようやく理解した。それでも思わずにはいられないのだ。アデラさえいなければ、ずっと家族四人、幸せなままでいられたのに。
「―――父上、イーサンです。中に入ってもよろしいでしょうか」
ノックをして声を掛けるが返答がない。
「父上?ペレット子爵と話をしてまいりました。ご報告をしたいのですが」
やはり返答がない。イーサンはだんだんと心配になってくる。家を出る前の、げっそりとした顔の父を思い出した。
(今度こそ中で倒れているのではないだろうな)
「父上、大丈夫ですか?開けますよ?」
イーサンはドアノブを回し、ドアを少し乱暴に開けた。
「……っ」
執務室は想像以上の惨状だった。
いつもきちんと整えられていた本棚は乱れていて、床には本や辞書が散らばっている。来客用のティーテーブルは割れた花瓶の欠片だらけで、花と中の水はソファの上でぐちゃぐちゃになっていた。当主が執務をするための机は特にひどく、丸められた書類や破られた本が机の上や周囲に散乱し、極めつけにインクがぶちまけられている。かつてイーサンが憧れた空間は無惨な有様になっていた。
「……父上?」
しばし部屋の状態に言葉を失っていたイーサンだったが、ようやくいるべき人物がいないことに気づく。父侯爵がどこにもいない。
「父上、どこに?!ちち……、っっ!」
突然の衝撃にイーサンの言葉が途切れた。
イーサンは額のあたりに熱を感じ、視界が狭まった。
「?」
思わず違和感のある額に手をやると、ぬるりとしたものが触れた。
「なっ……」
彼の額から流れていたのは真っ赤な血だった。
(切られた?)
イーサンが顔を上げると、いつの間にか父侯爵のダニエル・クラークが目の前に立っていた。
手にはイーサンの血がついたナイフが握られている。
「ち、父上……?どうして」
イーサンは怪我よりも、父が自分を傷つけたという事実に愕然とした。イーサンはアデラやジェマとは違う。母を殺してもいないし、家名を傷つけていもいない。常にクラーク家のために立ち回り、父のご機嫌を取ってきた。先だっての婚約解消とてジェマのせいであってイーサンには何の責もないというのに。
「う、うわあああーーーっっ!あっちへいけぇーーー!」
「ひいっ」
ダニエルがナイフを振り回し、イーサンは腰を抜かして座り込む。それが良かったのか二撃目は当たらなかったが、同時に逃げ場がなくなってしまった。次の攻撃はよけられないだろう。
「ち、ちちうえ」
「私は悪くない……悪くないんだ。ライラ、ライラ、私は悪くない。違うんだ……どうして責めるんだ」
「……」
ダニエルの目は完全に正気ではなかった。焦点は合わず、息子を見ているようで見ていない。いつも整えられていた髪はぼさぼさで、顔には脂汗が浮いている。
父に何を語りかけても無駄だと悟ったイーサンは、刺激しないようにじりじりと後ずさった。額の怪我は深くはないが、かなり出血しているので貧血を起こしかけている。とにかく一刻も早く父から距離を取らねばならなかった。
「私は悪くない……、私のせいじゃ、ないんだぁーー!!」
「!!」
イーサンとダニエルの目が合ってしまった。
一瞬でダニエルの黒い瞳に殺意が浮かび上がる。
「消えろぉ!ライラ以外はすべて消えてしまえーーーー!」
「ひぃーーーっ、誰か、助け……っ」
イーサンが死を覚悟したその時、ダニエルの体が真横に吹っ飛んだ。
ダニエルはそのまま本棚に激突し、「うっ」とうめくとそのまま倒れこむ。頭でも打ったのだろう。
「イーサン様。大丈夫ですか?」
「き、君は……」
イーサンをここまで案内してきたフットマンの青年だった。
「ようございました。やはり心配で様子を覗きに戻ったのです。旦那様の叫び声とイーサン様の悲鳴が聞こえたので中に飛び込んだら」
ダニエルがまさにイーサンにナイフを振り上げていたということか。
「あ、ありがとう。助かったよ」
「ひとまずここを離れましょう。ご当主様はあきらかに正気ではありません」
「ああ。君の言う通りだった。僕が甘かったよ」
イーサンはフットマンに手を引かれて何とか立ち上がり、廊下に出た。
「これからどうすればいいんだ。父が乱心するなんて」
「ひとまずラファイエット子爵家に避難されてはいかがでしょう」
「ラファイエット家に?」
ラファイエット子爵家とは、母ライラの実家だ。ライラが亡くなっているので親密とは言い難いが、親戚との交流は続けてきている。そういえばこのフットマンの青年はラファイエット家からの紹介だった。
「そうです。ラファイエット子爵家を通して王家に今回の事情を説明してもらっては?」
「だがそんなことをしては……いいや、やはり君の言う通りにした方がいいかもしれない」
イーサンは一瞬迷った。侯爵家の当主が気がふれてしまったなんてとんだ醜聞だ。だが思えば、ジェマの件でクラーク侯爵家の評判はすでに地の底だ。イーサンもすでに婚約破棄されてしまった。そして父の乱心……ここまで来たら、王家に父が侯爵としての責務を全うできない状態にあると正直に訴える方が傷が少ないかもしれないと思い直したのだ。
そうと決まれば、善は急げである。
「今すぐにでもラファイエット家に行く。馬車を用意してくれ。……ええと、君は」
「……」
従僕の青年は少しだけ顔を上げ、歳に合わない艶やかな笑みを浮かべた。
「アルフレッド、です。……すぐに馬車を手配いたしますね」
イーサンはアデラが婚約破棄されてから、王太子ブライアンとはほとんど会う機会がなかった。
ほんの一ヶ月だけ王太子の側近をしていたアルフレッドがフットマンのふりをしていても、違和感に気づくはずはなかったのである。




