15 初めての後悔
ペレット子爵と婚約解消による書類を交わし、肩を落として帰ろうとしたイーサンだったが、子爵の執務室を出たところで「クローディアお嬢様が最後にお会いになりたいそうです」と執事に声をかけられた。
侍女ではなく執事が伝えてきたということは、ペレット子爵も知っていることなのだろう。
イーサンは迷ったが元婚約者となったクローディアに会うことにした。さすがに復縁できるとは思っていないが、これからのためにもクローディアとは円満に別れておきたい。
案内されたのは何度も訪れたクローディアの私室ではなく客間だった。中にはクローディアと子爵家の護衛が一人、そして次期子爵であるクローディアの兄カイルも同席していた。クローディアの表情は硬く、わかってはいたものの和やかな話にはなりそうもない。
「来てくださってありがとうございます、イーサン様……いいえ、もうお名前は呼べませんね。クラーク侯爵令息とお呼びしなければ」
「クローディア嬢……その、お話があると伺いましたが」
イーサンはジェマやアデラの件で言い訳したいのをこらえ、ひとまず相手の話を聞くことにする。それが功を奏したのか、クローディアの険がややとれたような気がした。
「……どうしても聞かねばならないことができたのです」
「聞かねばならないこと?」
「ジェマ様の件はショックでしたが、私も父もそれだけであなたとの婚約を解消するつもりはありませんでした。あなたのことをお慕いしていました……。本気であなたとクラーク家のために嫁ぎ、子を産み、全てをもって尽くすつもりでいましたのよ」
イーサンは瞠目する。
クローディアは甘いだけの令嬢ではないことを知ってはいたものの、子爵家に生まれた彼女がそこまで自分のことを愛し、覚悟をもって侯爵家に嫁ごうとしてくれているとは思わなかった。
「ですが、ここにいる兄のカイルだけは激しく婚約続行を反対しました」
カイル・ペレットがずいっと前に出る。妹と同じ褐色の瞳に敵意を感じ、イーサンは苛立ちよりも戸惑いの方が強い。クローディアと婚約した後もほとんど関わらなかった。何だか一線を引かれているような感じはしていたが、やはり嫌われていたらしい。
イーサンの戸惑いを感じ取ったのだろう、カイルは静かに口を開いた。
「ご存じの通り、私は四年前からつい半年前までリロ王国に留学していました。まさか私が不在の間に、『よりにもよって』あなたが妹の婚約者になるなんて……正直愕然としましたよ」
「どういう意味だ?」
「すぐに一時帰国して父と妹を説得しようとしましたが、彼らはこの婚約を喜んでいてとても水を差せませんでした。あなたが妹に何もしないことを願うしかなかった」
「だからっ、どういう意味だと聞いているっ」
「私はあなたと同い年です。社交界にデビューしたのも同じ年。王立学園に入学したのも同じ年」
イーサンは胃がずくりと重くなった気がした。カイルが言わんとしていることが何となく分かったからだ。
「あなたはいつも実の妹のアデラ嬢を、同級生たちに悪しざまに言っていた。我儘、暴力的、癇癪もち、金遣いが荒い、選民志向が強い……でしたか。聞いていて気分が悪くなりましたよ。とはいえ、子爵家の私が次期侯爵様に物申すなんてことはできませんでしたが」
「いま世間でどう噂になっているのかしらないが、アデラは本当に……」
「ああ、それはいいのです」
「は?」
何とかあの時の自分の行いを正当化しようとしたのだが、カイルは手を振って遮った。
「アデラ嬢が本当はどんな令嬢だったのか、そこは私は興味がありません。ですが、あなたのある科白だけがどうしても許せなかった」
「ある科白?」
「王立学園の卒業式、成人した我々はアルコールを飲むことを許されていました。初めての酒で気が緩んだのでしょう、あなたはアデラ嬢のことを聞かれてこう言った『あれは人殺しだ。あれが生まれてこなければ、母は死ぬことはなかった』と」
静かに二人の会話を聞いていたクローディアが、一筋の涙を零した。
「他の卒業生たちも、一体何を言い出すのかと固まっていましたよ。なのに陽気になったあなたはべらべらと、アデラ嬢のお産の際にお母上が亡くなったこと、人殺しの妹は誰にも愛されない惨めな人生を歩むはずだ、絶対王太子とは結婚させない、母を殺したあの悪魔を必ず不幸にしてみせるとまくしたてていましたよ」
「う、」
嘘だ、と否定したかった。
だがそれはいつもイーサンが自分の頭に念じるかのごとく言い聞かせていた言葉で、もしかしたらと思ってしまった。確かに卒業パーティーの際の記憶がないのだ。カイルが言う通り、慣れないアルコールを口にしたイーサンは酔いつぶれてしまっていた。
「嘘ではないですよ。ただそこにいた者たちは私を含めあなたより下位の家の出身ばかりでしたからね。あなたの話を吹聴して侯爵家に目を付けられたくないと自主的に口を噤んだんです……。今は酷く後悔しています。せめて父には話すべきだった」
「だから、その話と婚約と何の関係が、……っ」
「まだとぼけるんですか?『母親を殺した子供』の存在が許せないから、クローディアと婚約したのでしょう」
「!?」
イーサンは驚きで目を見開いた。だがすぐに言われた内容を咀嚼し……そしてゆっくりと視線をクローディアにスライドさせた。
「……クラーク侯爵令息」
「く、クローディア……。違うんだ、違う、私は決して君のことを……」
「私を大切にすると言いながら……愛していると言いながら……本当は憎んでいらしたの?」
イーサンは初めて後悔というものをした。
自分が言ったことやってきたことが、とんでもない形で跳ね返ってきたことにようやく気付いたのだ。
……そうだ、クローディアには母親がいない。カイルとクローディアは、ペレット子爵が男手一つで育てたのだ。なぜならペレット子爵夫人は、クローディアのお産の際に命を落としてしまったから。
イーサンの理屈ならば、クローディアもまた母親殺しの子供だった。だから虐げてもいいのだと。不幸にしてもいいのだと。イーサンはそういう思考でいるのだと思われている。母親殺しの業を背負ったクローディアを、イーサンは不幸にするために、アデラのように虐げるためにクラーク家に迎え入れようとしたのだと思っているのだ。
先ほどのペレット子爵に感じた怒りは、娘を思うが故のものだったのか。
「アデラ嬢を苦しめて追い詰めて死なせた後、次の生贄は私だったのですか?母殺しの悪魔は苦しめるべきだと」
「違うんだ!君のことを愛していたんだ!嘘じゃないっ」
「愛している?愛ですって?実の妹の悪評をばらまいて、苦しめて、最後はゴミみたいに捨てたあなたが?」
「……っ」
「アデラ嬢の体を汚すために男たちをけしかけたのでしょう。女を何だと思ってるのよ!なのに私を愛している?頭がおかしいの?」
「だって、アデラは……。悪いのはアデラで……、だから」
アデラとクローディアは違う。
(違う、はずだ)
(アデラは母親を殺したから悪い悪魔で。クローディアも母親を……でも……)
イーサンはふとカイルの方を見た。自分と同じ立場の、妹のお産で母を失った兄。
カイルはイーサンの視線の意味に気づいたのだろう、小さくため息をついた後、まっすぐイーサンを見据えて言った。
「私は母を亡くしたことで妹を恨んだことは一度もありません。もちろん父も同じです。母が命に替えてまで生んだ妹を虐げるなんて、母の最期の願いを踏みにじる行為だ」
「あ……」
―――妹を守ってあげてね。
妹、とは。生まれたばかりのアデラのことだったのか。
イーサンは茫然としたまま、挨拶もそこそこに帰っていった。
暴れ出すかもしれないと護衛も置いていたが、その出番がなかったことにカイルは安堵する。クローディアを侍女に預けて部屋に戻ろうとすると、執事が青年を一人連れてきた。青年は優雅に礼をする。
「カイル卿、お暇のご挨拶をしに参りました」
「これはアルフレッド卿……色々とありがとうございました」
「いえいえ。みすみすクローディア嬢が不幸になるのを黙って見てはいられませんでしたからね。お役に立ててよかったです」
「アルフレッド卿が証言者を連れてきてくださらねば、そしてイーサンの本音を教えてくださらねば、妹との結婚を阻止することはできなかったでしょう。本当にありがとうございます」
アルフレッド……アデラはにっこりとほほ笑んだ。
《イーサンはあっさり騙されたわね。少し考えればカイルの話がおかしいと気づくでしょうに》
「頭は悪くないけど、予想外の事態に弱いのよ。最後は頭が容量オーバーしてたわね」
アデラは使い魔を使ってペレット子爵の執務室、そして客間での話を全て聞いていた。内心高笑いが止まらない。
先ほどのカイルの話は半分嘘だ。イーサンが学生時代にアデラの悪評をばらまいていたのを目撃したことは本当だが、卒業式の際の話は作り話である。あの日イーサンは確かに酒に酔って酩酊状態になったらしいが、アデラのことに対して失言はしなかったのだ。
イーサンの本音をカイルに話したのはもちろんアルフレッドである。アデラを嫌い合っている者同士、ブライアン王太子とこんな話をしていましたよ、アデラ嬢と同じ過去を持つクローディア嬢が結婚してクラーク家に入ってしまうと、危険な思考を持ったイーサンとクラーク侯爵に虐げられてしまうのでは?とカイルに忠告したのだ。
「カイルほど妹思いの男なら、イーサンの『母親を殺したアデラは悪魔』発言をすぐに父親に話したはず。そもそも兄はクローディア嬢と婚約なんてできなかったでしょうに」
イーサンとクローディアの婚約が結ばれた当時、カイルが留学していたことは間違いない。だが、イーサンの正体を事前に知っていたら何としてでも婚約を解消させただろう。少なくとも大騒ぎくらいはしたはずなのに、イーサンはそこに気づいていない。
《でもイーサンのことは元々嫌っていたみたいだったわね》
「だって実の妹を悪しざまに言うのよ。イーサンにとっては正義の行いでも、普通の神経を持つカイル様には理解できない行為だったはずよ」
《それはそっか》
カイルはイーサンをいけ好かない男だと思いつつも、侯爵家の縁そのものは悪くないと思っていたようだった。それもジェマの逮捕とイーサンの過去でひっくり返ったわけだが。
《今回はあっさり終わったわねー。アルフレッドに化けて、カイルさんにイーサンの性根をばらしただけでしょ?》
「何言ってるのよ、マリア。ここからが本番じゃない」
《おやおやぁ。アデラさんたら、あの程度の「ざまあ」じゃあ満足しなくなっておりますな?》
「王太子たちは結局血の繋がらない他人だから、あの程度で勘弁してあげたわ。でもクラーク家の人間は……本当はアデラを守るべきだったあの連中は、誰一人として許さないっ……逃がさないっ」
《……そうよ。いいのよ、アデラ。もっと怒りなさい。もっと憎みなさい。……そして、》
―――そして、生きなさい。




