14 イーサンの婚約破棄
王太子ブライアンの側近の一人、アルフレッド。
ランティス公爵家の縁戚の青年という触れ込みではあったが、実際はアデラが魔法で変身した、この世に存在しない人物だ。
アルフレッドを始めとする王太子の側近たちは、ブライアンが一連の騒動の後に軟禁処分になると全員役目を解かれた。ほとんどが王宮を辞し実家に戻る中、アルフレッドの消息はいつのまにか途絶えてしまった。
だがジェマがファース家の令嬢に危害を加え婚約破棄されると、アルフレッドは再び王都のとある屋敷に姿を現したのだ。
「―――お初にお目にかかります、ペレット子爵。アルフレッド・ラングと申します」
「ようこそ、アルフレッド君」
アルフレッドはペレット子爵の執務室に通されていた。
ペレット子爵は多くの商会を運営する敏腕な男だった。そして彼の娘はイーサン・クラークの婚約者でもある。……そう、アデラは今度はイーサンに狙いを定め、彼の岳父になる予定の男に接触を図ったのだ。
(見てなさい、イーサン。あなたに絶望と屈辱を味わわせてやる)
「お約束もしていないのに、お屋敷に通していただき感謝いたします」
アルフレッドはペレット子爵に感謝を述べた。
一時間ほど前、アルフレッドは突然ペレット家の屋敷の前に現れて、門番に当主に会わせてほしいと直談判したのだ。体面を重んじる貴族は、基本的に身分が下の者の突然の訪問は受け入れない。受け入れれば軽んじられていることを認めてしまうということだ。それでもペレット子爵はアルフレッドに会ってくれた。
「仕方あるまい。『ご令嬢の婚約者であるクラーク侯爵令息について重大な情報がある。ご令嬢の命にかかわるかもしれません』と言われてしまえば……」
「驚かせてしまったことは謝罪いたします。ですがお話を聞いていただければきっと私の懸念をご理解下さるはずです」
「わかった。当事者である娘のクローディアを同席させていいだろうか」
「それは……おそらくショックを受けると思うので、できればご家族から後で伝えていただきたいのです。その代わり、ご子息のカイル様に同席していただきたいと思いますが、いかがでしょうか」
ペレット子爵の表情が険しさを増した。
この数週間、ペレット家はずっとぴりぴりした空気が漂っていた。言わずもがな、当主の娘であるクローディアの婚約者の妹が起こした事件が原因だ。ジェマ・クラークが、ファース伯爵家の令嬢に暴力をふるっていた現場を騎士団に押さえられたのだ。しかもその後、使用人たちにも理不尽な暴力をふるっていたことが判明し、しかもクラーク家はその使用人たちを不当解雇していた。このままクラーク家にクローディアを嫁がせていいものかとペレット子爵は頭を悩ませていたのだ。
婚約者であるイーサン・クラークには、今までこれと言って問題はなかった。クローディアを大切にしていたし、女遊びもない。
諸悪の根源はあくまで妹のジェマであるなら、彼女はすでに修道院に送られてしまっているのだから心配する必要はないのかもしれない。
こうも頭を悩ませるのは結婚式が一ヶ月後に迫っているからだ。嫁いでしまえば貴族は簡単に離縁はできない。かといって婚約を解消するにも理由が弱いので、クローディアに問題があったと見る者もいるかもしれないと思えば簡単に決断はできなかった。
そんな中『イーサン・クラーク』について情報がある、という青年が登場したのだった。
「わかりました、息子のカイルを呼びましょう……」
アルフレッドがペレット家を訪れた数日後、イーサン・クラークは危機に直面していた。
婚約者である子爵令嬢に婚約の解消を申し渡されてしまったのだ……もう挙式は一ヶ月後に迫っていたというのに。
「私としては娘との婚約は破棄にしてもいいんだ。解消にしたのはこちらの温情だと思ってほしい」
有無を言わさぬ声音にイーサンは唇を噛んだ。相手は婚約者の父、ペレット子爵だ。昨日急に婚約解消を叩きつけられ、イーサンはペレット子爵の屋敷に取る物も取りあえずやって来ていた。
次期侯爵イーサン・クラークは、ペレット子爵の長女クローディアと婚約していた。クローディアとは八歳離れていて学園でも接触はなかったのだが、三年前のある日、参加していた夜会でペレット子爵が連れていた十三歳の彼女の可憐な美しさにイーサンが一目惚れしてしまったのだ。
クローディアは漆黒の髪に赤みの強い褐色の瞳をした、凛とした美少女だった。イーサンはすぐに父を説得してペレット子爵家へ婚約を打診し、婚約はすぐに整った。子爵ではやや家格が劣るものの、ペレット子爵は裕福で高位貴族との繋がりも強いのでそのうち伯爵位に昇格するだろう。今のうちに取り込んだほうがいいと父侯爵も判断したのだ。そしてクローディアが成人の十六歳になるのを待ってすぐに結婚式を挙げるつもりだった。
クローディアもイーサンを慕ってくれ、贈り物を交換し合い、デートも重ねていた。すべて順調だったというのに、妹のジェマが起こした事件がすべて台無しにしてしまった。ジェマはあろうことか自分の婚約者の妹に暴力をふるい、私物まで奪っていた。現場を騎士団に押さえられ拘束され、先日北の島の修道院へ送られたばかりだ。ペレット子爵は身内に犯罪者を出してしまった家に大事な娘を嫁がせたくないのだろう。イーサンとて、逆の立場だったら結婚を躊躇する。とはいえここは下手に出てでもペレット家との縁を繋がなくてはならなかった。
「ペレット子爵。妹の起こした事件で当家に不信を抱くのは仕方のないことだと思います。ですが全ては妹が一人で仕出かしたことであって、クラーク家はファース家とは和解をしています。ジェマも修道院に行き、三十年は戻ってきません。どうか私を信用してくださいませんか?必ずクローディア嬢を幸せにすると誓います」
イーサンはなるべく悲壮な表情を作って懸命に訴えた。クローディアを愛しているのは本当だ。だが何よりここでペレット家との縁が切れては、ただでさえ評判を落としているクラーク家がさらにまずい状況に追い込まれてしまう。とにかくここはやり過ごし、クローディアと無事に結婚してしまいたかった。やり手のペレット子爵と縁ができれば、名誉を回復する機会もあるだろう。
そんなイーサンの様子をペレット子爵は黙って眺めていたが、やがて大きなため息を付いた。
イーサンはびくりと肩を揺らす。ペレット子爵はこれまで家格が下であることもあり、侯爵子息のイーサンに尊大な態度を取ったことはない。ジェマのことがあるとはいえ、態度が変わり過ぎではないだろうか。
……と、よく見れば、彼の瞳には呆れでも嫌悪でもない、怒りが宿っていた。
「クラーク侯爵子息、我々のことを随分侮っているようですな」
ペレット子爵はソファの上で足を組み直した。……やはり怒っている。だがどうしてそんなに怒っているのかイーサンには見当もつかなかった。
「婚約は契約です。私が一時の評判だけで一度は結ばれた契約を解消するはずがないでしょう」
「ならば何故……」
「確かに、『何故』ですな。何故、アデラ嬢が消息不明になった時にクラーク家のことをきちんと調べなかったのか」
「……っ」
イーサンの心臓が嫌な音を立てた。
アデラ。イーサンのもう一人の妹。
だがクラーク家の一員とは最後まで見なされなかった。父やジェマはもちろん、イーサンも認めなかった。だってアデラは……大好きだった母ライラを殺した悪魔だからだ。
五歳だったイーサンは、母が息を引き取った瞬間を今でも覚えている。あんなに美しくて優しくて女神のようだった母は、生まれ落ちたアデラに生命を吸われ、別人のように衰弱していた。それでも細い手を伸ばし、イーサンに「妹を守ってあげてね」と言い残して亡くなったのだ。
可哀そうな母。可哀そうな父。そして……可哀そうな妹。
だからイーサンは家族のためにアデラを憎んだ。彼女が不幸になるために努力を惜しまなかった。
父が「顔も見たくない」と言えば、離れに追放することを提案した。唯一アデラを世話していた乳母を解雇するように進言したのもイーサンだ。
そしてジェマがアデラの部屋で暴れたときは妹をかばい、使用人たちをある者は脅しある者は懐柔して口止めをした。……妹のジェマを守ることは母との最後の約束だったから。
そして父に社交場に連れていかれ、妹について聞かれると、ジェマは心優しく努力家だが、アデラは癇癪持ちで手に負えない、といかにも悩んでいるように話して回った。それについて父侯爵も否定しなかったため、アデラは不出来な令嬢らしい、という話が広がった。いくら侯爵家の令嬢とはいえ、家族を悩ませるほど性格に難のあると思われるアデラと縁を結ぼうという家は現れない。あっても何か事情のある家だろう。アデラが年頃になれば条件の悪い結婚相手を見繕ってやり、不幸になる彼女を嗤いながら家から追い出すつもりだった。
それがまさか王太子の婚約者になるとは予想外だった。評判をさらに落とすためにわざと厳しいと噂の家庭教師を付けさせたのだが、アデラは勉学の才があったようで、教師経由でその優秀さが国王の耳に入ってしまった。だがブライアン王太子は婚約者になったアデラを大事にしなかった。イーサンやジェマがばらまいた悪評もあってか、アデラを明らかに敬遠し、粗略に扱っていた。そして次第に王太子としての自分の仕事をまだ学生のアデラに押し付けるようになり、見せつけるように恋人まで連れまわし始めた。国王と王妃は何を考えているのか見て見ぬふりだ。最初は王太子との婚約をなしにしたいと思っていたが、学業と王妃教育、さらに王宮の執務をこなすアデラは見る間に衰弱していき、これはこのまま放置でいいだろうと家族の意見は一致した。
そして王太子からの婚約破棄。父がアデラを身一つで追い出し、そのうえ下男たちをけしかけたのをイーサンは笑いながら見ていた。もちろんその後使用人たちを口止めするのはイーサンの役目だ。アデラは王太子に婚約破棄された出来損ないで、彼女自身が至らないから侯爵家から追い出されたのだ。そういうことにしなければならない。
これで母の無念を晴らせる……そう思っていたのに。
「―――妹君のジェマ嬢が、アデラ嬢を虐げていたという話を聞きました」
「そ、それは」
とっさに否定できなかった。
否定できないほど、ジェマが酷過ぎた。使用人への暴力は把握していたが、金を握らせ何とか噂になるのを抑えていたつもりだった。まさかあの馬鹿妹が、婚約者の妹に手を出していたとは思わなかったのだ……わかっているだけで半年にも渡って暴力をふるい、私物を取り上げていたらしい。ジェマが騎士団に拘束されると、金で黙らせたはずの元使用人たちも次々にジェマから受けた暴力を訴え始めた。そうなってしまえば、ジェマほどの凶暴な女がアデラに反抗できなかったのか?という疑問が出てくるのは当たり前だった。
「調べさせていただきましたよ。王宮のあなたの同僚、学生時代の友人、そして元使用人たちにね。あなたが家族ぐるみでアデラ嬢を虐げ、悪評をばらまき孤立させていたという結論に達しました」
「そ、……、それはっ」
「元使用人たちは実名で証言してもいいと言っていますよ……アデラ嬢が侯爵邸を追い出された日のことを」
イーサンの体からどっと冷や汗が噴き出した。
「信じられない。冤罪をかけられて婚約破棄された実の妹を追い出し、あまつさえ下男たちの慰み者にしようなどと」
「ち、違います!それは……、ジェマが!ジェマが言い出したのです!」
「証言すると言った元使用人とは、命令されたその下男のうちの一人です。命令を下したのは侯爵で、あなたとジェマ嬢は嗤いながらそれを眺めていたとはっきり証言しています」
「そんなのは嘘だ!」
「……ならば裁判をしましょう」
「……っ」
ペレット子爵の態度は頑なだった。
イーサンはもう、何を言ってもクローディアと結婚する道は絶たれたのだと知る。ここで引き下がらなければ婚約の解消を国に認めさせるために裁判を起こされ、元使用人たちがクラーク家で起こっていたことを証言するのだろう。派手にアデラを虐げていたのはジェマだが、イーサンもクラーク侯爵もアデラを追い詰め、不遇な彼女を嗤っていた。金で使用人たちを黙らせられると思っていたのはイーサンだけで、彼らはずっとアデラを気の毒がっていたのだ。
この日、イーサンはペレット子爵令嬢との婚約解消に同意した。
挙式一ヶ月前の一方的な解消であるため、式の費用は全てペレット家が負担することが名目上の慰謝料とされたのだった。本来ならばさらに解消された方から慰謝料の上乗せが請求できただろうが、元使用人の身柄を押さえられてしまったイーサンはそれ以上の要求を断念せざるをえなかった。




