11 私が囮になりますわ
次の日。
オーロラに化けたマリアはゆっくりと起きた。昨日は色々あったし夜遅かったので、すっかり陽が高くなっている。
「おはよー。アデラ」
《……おはよう》
無視するかもと思ったが、呼びかけるとちゃんとアデラは挨拶を返してきた。オーロラに化けたマリアがどうふるまうのか確認しておくつもりのようだ。
マリアがまだぼんやりする頭で窓の外を眺めていると、ドアをノックする音がする。許可する間もなく扉が開き、部屋の中に入ってきたのはオーロラの兄スチュアートだった。
「オーロラ、少しは反省したのか?」
「……」
《入ってくるなりこれ?あの悪魔をここまで信じられるのはむしろ天晴よね》
(同感)
スチュアートは今も変わらずジェマに心酔しているようだ。こいつが継いだら伯爵家は終わりだな、とマリアは思った。
「私は反省するようなことを何もしておりませんわ」
しれっと言い放つと、スチュアートはぽかんとした顔をした。まさかオーロラが謝るとでも思ったのだろうか。
(いいえ、今まではきっとそうだった)
彼らは幼く自己主張が難しいオーロラの意見を尊重せず、自分たちの考えを押し付けていたのだ。オーロラは何を言っても真剣に受け取ってもらえず、気持ちを押さえつけられ、不都合なことがあったら謝罪を要求されてきたのだ。
《家族に精神的に虐待されているようなものだったのね。しかも加害者たちは無意識なのだから質が悪いわ》
他人ごとではないアデラがマリアの中で憤っているのが伝わってくる。
一方のスチュアートは思考を回復させたらしく、目尻を吊り上げた。
「いい加減にしろ、オーロラ!ジェマに謝罪しない限りは食事を出さないぞ」
「どうぞお好きになさって。私が餓死したらお兄様が責任を取ってくださるのでしょう?」
「……なっ」
スチュアートはまたしても固まった。よく思考停止する男である。
マリアはもう相手にするのも馬鹿らしいと「用が済んだら出て行ってください」と言って顔を洗いに行った。スチュアートはまだごちゃごちゃ言っていたようだが、放っておいたらいつの間にかいなくなっていた。
「兵糧攻めなんてね。いよいよ虐待じゃない」
《手をあげないだけクラーク家の連中よりましだと思ってしまった私は虐げられ慣れしてるのかしら》
マリアは仕方なく朝食と昼食は諦めることにした。だがおそらく夕食は食べることができるだろう。
(打ち合わせ通りなら、今日のうちにウィリアルドがやってくるはずだものね)
そして日が高く上り、やや傾きかけた頃。
ファース家の屋敷の使用人が廊下をばたばたと行きかい始めた。使用人たちの会話に耳を済ませれば、「かなり高貴な身分の方が訪ねてきたらしい」と囁き合っている。
「やっと来たわね。遅いのよ」
もうマリアはお腹ぺこぺこだ。早く兵糧攻めを解除してほしい。
その願いが通じたのか、ほどなくオーロラの部屋に執事がやってきた。
「オーロラお嬢様、すぐにお仕度して下さい。お客様がお嬢様とお話をしたいと」
「でも私は謹慎を命じられているのよ」
「旦那様からのご命令です。さあ、急いでください」
執事が連れていた侍女にすぐにドレスに着替えさせられる。夜会に行くわけではないので装飾は少ないが、上等な生地を使った余所行きのものだ。
そしてオーロラに化けたままのマリアは客間へと連れていかれた。
「今お客様は私以外の家族全員で接待されているの?」
向かう途中で執事に確認する。
「旦那様お一人が対応されています。奥様と坊ちゃまはご挨拶こそされましたが、お客様の希望で席を外されました」
(さすがウィリアルド!できる男だわ)
客間に誰がいるかはかなり重要だ。ウィリアルドはこちらの正体を知っているので何の問題もないが、家族と長く過ごせば過ごすほどオーロラが本物ではないことに気づかれる可能性がある。もちろんこちらの変身術は完璧だし、ケンブリッジ王国で魔法を扱える人間などなかなかお目にかかれないが、家族の勘は侮ってはいけない。実母の伯爵夫人は要注意だ。
そのうえ家族に違和感に気づかれないように、けれども会話を上手く運べるように細心の注意を払わなくてはならない。
やがて扉が開き、オーロラは執事のエスコートで客間に足を踏み入れた。
マリアは部屋に一歩入ると、ゆっくりとカーテシーをした。
「ローデン公子。これがお話にあった長女です。……オーロラ、こちらは大公閣下のご子息だ。ご挨拶しなさい」
「お初にお目にかかります。ファース家の長女オーロラでございます」
執事の言葉通り、中にはファース伯爵とウィリアルドがいた。お互い従者を連れており、執事は部屋から出ずに部屋の隅に控える。
カーテシーをしたままのオーロラ(中身はマリア)に、ウィリアルドはソファから腰を上げて声をかけた。
「ウィリアルド・ローデンです。お呼び立てして申し訳ない、レディ。こちらへどうぞ」
「こ、公子。娘はこちらに立たせておきますので」
自分のために用意された席にオーロラを座らせようとするウィリアルドにファース伯爵が慌てる。
「何をおっしゃいます。御覧なさい、ご令嬢は酷い顔色だ。立たせるなど以ての外です。……さあ」
マリアはファース伯爵の顔色を窺うようにするなど逡巡する演技をするが、伯爵がそれ以上何も言わないのでウィリアルドに勧められた席に座った。
ウィリアルドはその隣に腰かける。
「オーロラ嬢、顔色が優れませんが、ご気分はいかがですか?食事は?紅茶は飲まれますか?」
ウィリアルドはテーブルに出された軽食の皿をマリアの前に差し出す。マリアはよだれが出そうになり、慌ててハンカチで口元を押さえた。
(ウィリアルド、ナイス!!)
「ごめんなさい、食事は許されていないのです」
「なんと?」
「家族から食事を摂ることを禁止されているのです」
「オーロラ!」
「……、あっ」
ファース伯爵が声を上げ、マリアはびくりと肩を揺らす。父の怒声に怯えるオーロラ嬢が仕上がった。出していたハンカチも目元を隠していい仕事をしている。
「伯爵、オーロラ嬢との会話を邪魔しないでいただきたい」
「ですが……」
「オーロラ嬢、何も心配はいりません。躾だとしても未成年の食事を抜くなど立派な虐待です」
「ぎゃく、たい……。私は父たちに虐待されていましたの?」
「違う!オーロラ、やめなさいっ」
ファース伯爵が詰め寄ろうとしたが、ウィリアルドが連れていた従者が庇うように間に入ってくれた。
どうやらウィリアルドはこちらが兵糧攻めされていたことに感づいていたようだ。もしかしたら保護した本物のオーロラから聞いたのかもしれない。ということは、彼女はこれまでも躾と称して食事を抜かれたことがあるのだろう。
「オーロラ嬢、食事を禁止されていたのですか?いつから?」
「昨日の夕食からです。兄の婚約者の方が私に暴力をふるったうえ、発覚を恐れて私を庇った侍女に窃盗の罪を着せてしまったのです。私は家族に抗議したのですが、家族は私の言い分を全く信じてくれず……。しかも私に兄の婚約者に謝罪するよう要求し、それを拒否したところ部屋に謹慎を命じられたのです。謝罪をしない限りは食事を出さないと」
「なんて酷い」
少しウィリアルドの顔が引きつった。
(あ、ヤバイ。滑らかに整然と説明しすぎたかしら)
《……ちょっと違和感があったわね》
「オーロラ、公子様に向かって嘘をつくんじゃないっ」
ファース伯爵が悲鳴のような声を上げる。騎士団の副長に虐待を告発されているという状況に焦りまくっており、淀みない説明に対する違和感に気づかなかったようだ。
「ファース伯爵、このまま屋敷の使用人たちを呼んでオーロラ嬢がどういう状況に置かれていたのか聴取することもできるのですよ?今ここで食事を抜くという理不尽な行為を認めてオーロラ嬢に謝罪してください。それができないのであれば、ご令嬢を保護し今から使用人たちを聴取します」
ファース伯爵は絶句した。今から使用人たちに箝口令を敷くことはできないし、仮にできたとして騎士団の聴取を受けては怖気づいて正直に話す者もいるだろう。しばらく逡巡していたファース伯爵だが、やがて「食事を抜いていたのは事実です。オーロラ、すまなかった」という声が聞こえてきた。
(軽っ!)
《軽いわね》
なんて軽い謝罪だ。やはりファース伯爵も幼いオーロラを舐めているのだろう。だが今はジェマを嵌めに来たのであってこんな小物にかまっている暇はない。それでもマリアはオーロラのためにファース伯爵を「許す」とは言わなかった。すがるような視線を感じるが、無視だ、無視。
ウィリアルドは部屋の隅に控えていた執事にオーロラのために食事を用意するよう言いつける。こんな修羅場になるとは思わなかった老執事が、飛ぶ勢いで出て行った。
やがて十分ほどして、温かいスープがマリアの目の前に置かれる。ちょうど厨房で夕食の仕込みをしていたのだろう。マリアは十数時間ぶりの食事にかぶりつきたいのをこらえ、スプーンですくって上品に口に運ぶ。
(いま私はオーロラ。いま私はオーロラ)
アデラと選手交代した時は兵糧攻めにあうとはつゆ知らず、今やトホホな心境のマリアである。
「オーロラ嬢、食事をしながら聞いてください。先ほどあなたのお話の中にも出てきた兄君の婚約者……クラーク侯爵家のジェマ嬢のことです。暴力を振るわれたとおっしゃいましたね?」
「……」
マリアは相槌は打たなかったが、わざとスプーンで食器を軽くたたいた。ジェマの名前に動揺したように見えただろうか。
「一ヶ月前、クラーク家の元使用人から告発がありました。ジェマ・クラークが告発者も含めた複数の人間に暴力をふるっているというものです」
ファース伯爵は青い顔をしている。騒がないということは、一度すでに話を聞かされたのだ。
「もちろん元使用人一人の告発を騎士団は鵜呑みにはしない。だからここ一年でクラーク家から解雇された使用人から接触し、さらに今も屋敷で働いている者、そして茶会などに同席したことのある貴族からの話も聞くことができました……結果、ジェマ・クラークは複数人の使用人に、躾というには苛烈すぎる暴力をふるっていると判断しました」
マリアが昨日渡したリストは役に立ったようだ。彼らは憎きジェマを裁くためならば、騎士団の聴取が一日から一ヶ月になったという不文律はなかったことにしてくれるだろう。ウィリアルドも大公家の権力を駆使して報告書に細工をするはずだ。証言そのものを改ざんしたわけではないのだから大した問題ではない。
「しかもだ。貴族のとあるご令嬢がジェマ嬢の被害を受けている可能性があると複数人が訴えました……あなたです、オーロラ嬢」
「……」
「ジェマはファース家を訪問する際、いつもスカートの中に鞭を隠していたらしい。そして先ほどファース伯爵にも確認したが、ジェマは君と何度も二人きりになっていたそうですね、表向きは親交を深めるためと言って」
「お、オーロラ……。嘘だよな?ジェマ嬢がお前に暴力などと……嘘だと言ってくれ!」
ファース伯爵が机から身を乗り出す。
「ファース伯爵、オーロラ嬢を威圧しないでいただきたい」
「威圧など!」
「では黙っていてください。あなたが実の娘よりもジェマ嬢を信じるのは勝手ですが、我々は捜査に来ているのです」
面と向かってオーロラを蔑ろにしていると言われたファース伯爵の顔が怒りで真っ赤になる。だが大公子息相手に怒鳴りつけるわけにもいかず、喉の奥で呻くだけだった。
沈黙が部屋を支配する。マリアはたっぷりと時間をかけ、ようやく口を開いた。
「―――ローデン公子のおっしゃる通りです」
マリアはそんなファース伯爵の顔を見ながら、はっきりと声を出した。
「先ほども言った通り、私は昨日ジェマ様から暴力を受けました。鞭で打たれそうになって、侍女のアビゲイルが庇ってくれました」
「そんな……」
「暴力は昨日の一度だけですか?」
「いいえ。一年ほど前からこの屋敷を訪れるたびに鞭で打たれました。……目に見える場所ではなく、殿方には訴えられないような所を。私は恐ろしくて悲しくて、気が動転して……」
「無理もありません。一年前ならあなたは十五歳だ。一人で耐えてこられたのですね」
「ローデン公子、ありがとうございます。私の話を否定せず、最後まで聞いてくださって」
「他の誰もオーロラ嬢の話を聞いてくれなかったのですか?お母上や兄君も?」
「侍女長のステラだけは私の様子がおかしいことに気づいてジェマ嬢を引き離そうとしてくれました。でもジェマ嬢が何か言ったのでしょう、ステラはジェマ嬢に接触を禁じられてしまいました」
「そんなことがあっては余計誰にも相談できなくなったでしょう」
もうマリアとウィリアルドしか話していない。独壇場である。
ファース伯爵は次から次へと発覚する事実に魂が抜けた顔をしているし、同席している執事と互いの従者二人は気配を消していた。
マリアはとどめとばかりによよっとハンカチで目元を押さえた。もちろん涙は一滴も流していない。
「あとは……アビゲイルですわ!彼女も私の話を信じてくれました。可哀そうなアビゲイル!私を庇ったばかりに鞭で背中を打たれ、しかも私の私物を盗んだと濡れ衣を着せられて紹介状なしで解雇されてしまったのです!彼女が路頭に迷っていたら私のせいですわ!」
「アビゲイルのことについては何も心配いりませんよ」
「ほ、本当に?」
「アビゲイルは私の部下なのです」
「ええ!!?」
驚きの声を上げたのはファース伯爵だった。
「最初の告発があった後、ありとあらゆる可能性を考えて部下を潜り込ませておきました。ファース家に許可を取らなかったのは申し訳なく思っています」
「……っ」
ふわっふわの謝罪にファース伯爵は言葉もない。マリアはブーメランざまあとしか思わなかったが。
「アビゲイルの報告を待ってからどこかで現場を押さえようと思っていました。ですが彼女が解雇されてしまい、このままではオーロラ嬢の身が危ないと私が出向いたわけです」
「わ、私にはまだ信じられません。……いや、騎士団の捜査を軽んじるわけではないのです。ですがジェマ嬢は傍目には完璧な淑女で、周囲の人間に慈愛の心を持って接していました。それに息子はジェマ嬢のことを本当に愛しています。結婚式も迫っているのに……証言だけで彼女を疑うことはできません!」
(ゲス父のくせに、きりっとした顔で何言ってんのよ。むかつくわ)
《……ジェマの証言だけでオーロラ様を詰り、アビゲイルを不当解雇した奴が言ってもなんの説得力もないわね》
(でもおかげでうまく目的の科白に繋げられるわ)
マリアは内心でほくそ笑んだ。
一瞬ウィリアルドと目が合う。やっちまえ!と彼の目が言っていた。
「―――わかりました、公子様。現場を押さえられればよろしいのですね?」
「その通りですが……まさか!オーロラ嬢!」
「はい。私が囮になりますわ。ジェマ嬢に『明日屋敷を訪問してほしい』という内容の手紙を書きます。彼女は喜び勇んでくるでしょう。そして私と仲直りしたいから二人きりにしてくれと言うでしょう」
「よろしいのですか?また辛い目に遭われるのですよ?」
「これで最後だと思えば何ともありません」
「なんと立派な……。このウィリアルド・ローデン、オーロラ嬢の期待に必ず応えて見せます!!」
こうしてファース伯爵が唖然としている間にマリアとウィリアルドはジェマを嵌めるための舞台を整え、勝手に決行してしまうのであった。




