01 悪女は舞台から去る
―――どうして?
―――どうして何をしても駄目だったの?
―――私は何のために生まれてきたの?
その少女は目的もなくよろよろと歩いていた。
亜麻色の髪は乱れ、水色の瞳は焦点が合わず虚空を見ている。どこかの町娘のようにも見える格好だったが、その顔立ちは整っていて上品だった。
「……おい、あれ……」
「まあ、何かしら?」
王都とは言え夜の町は物騒だ。裸足ですり切れたワンピースを着た少女を見て眉を顰める者もいれば、路地に引きずり込もうと後を付ける不埒者もいる。
だが。
しばらくすると、王都に深い深い霧が立ち込め始めた。夏が近いこの時期には珍しい。やがて少女の姿は霧に紛れていく。数分もすれば誰も彼女の消息を掴むことはできなくなっていた。
「―――可愛らしいお嬢さん、ちょっとこちらにおいでなさい」
その声音は澄んでいて、すっとアデラの耳の中に入ってきた。
急に現実に戻されたアデラは立ち止まって辺りを見回す。どこをどう歩いたのか、閑散とした広場に立っていた。
「こちらよ、……さあ、この椅子に座りなさい」
広場の奥にあるリストランテのテラス席……そこにフードを真深く被った妙齢の女性が一人で座っていた。アデラは女性の声に引き寄せられるようにして歩み寄る。
周囲に人の気配はなく、リストランテも灯りこそ点いているが営業しているようには見えない。女性の周辺だけにぼんやりと光が当たっていた。
「お腹が空いているのではない?これを食べていいわよ」
そう言って差し出してきたのは、湯気の立つシチューだった。
アデラはすとんと椅子に腰を下ろすと、迷うことなくスプーンを手に取ってシチューを口に入れた。
「……おいしい」
温かい料理を食べたのは何年ぶりだろう。いつも用意されていた料理は毒見が終わった後で冷めていて、とても味気なかった。
アデラはシチューを夢中で食べた。途中で涙が流れ、顔がぐちゃぐちゃになっていたが構わなかった。目の前の女性も何も言わず、ただアデラがシチューを食べるのを見守ってくれた。
やがてシチューを全て平らげ、アデラはスプーンを置く。図ったようにハンカチが差し出され、受け取って顔を拭った。
「ありがとうございます。とても美味しかった……あんなにおいしいシチューは生まれて初めて食べました」
「よかったわ」
「食べておいて言いにくいのですがお金を持っていないんです。どうやってお返しすればいいのか」
「あら、私が勝手に用意したのだから気にしないで頂戴」
「ですが……」
「気にしているのなら、私の頼みを聞いてほしいのよ。ああ、別に無茶な話じゃないわ」
「私にできることでしたら」
「いいの?話も聞かずに」
「もう帰る家はありません。野垂れ死ぬまで歩くつもりでしたから、奥様のお話を聞くくらい大したことではありません」
「穏やかじゃないわね」
「私がいけないんです。私が……全部悪いんです」
「そうかしら?」
「……え?」
「あなたはどう見ても十六、七でしょう?成人もしていないお嬢さんが着の身着のまま家を追い出されてこんな物騒なところを彷徨うなんて、親の神経を疑うわ」
「お、お父様は悪くありません!!全部私がいけないんです!私が……殿下の御心を繋ぎ留められなかったから。私が、悪い子だから。私が、わたし……」
「……」
「私が、お母さまを殺してしまったから」
「―――それがあなたの罪?」
「え?」
ずっと柔らかかった女性の雰囲気が急に変わったことに気づき、アデラは顔を上げた。フードの奥から女性の瞳が覗き、ひたとアデラを見据えている。赤み掛かった、美しい紫色の瞳だった。
「あなたは自分が死ぬべきだと思っているのね」
「……」
「自分がいなくなれば、家族や周りの人が幸福になると思っているのね」
「……」
「だからこんな物騒な所に一人で……。そこまで絶望しているのなら、私が道を与えましょう」
女性はすっと何かをアデラに差し出した。飲み物が入ったグラスだ。
先ほどまでアデラが食事をしていたシチューの皿はいつの間にか消えており、なかったはずの飲み物が現れているテーブルの状況に、アデラは一瞬混乱して目を瞬く。
「これを飲んでちょうだい」
「これは?」
「あなたを殺す毒よ」
「毒……」
アデラはもう不思議な現象は忘れ、グラスの飲み物を凝視する。
しゅわしゅわと細かい泡が躍る、一見何の変哲もなさそうな炭酸飲料に見えた。薄いピンク色で、中心には赤いゼリー状の玉のようなものが浮かんでいる。
「この赤い部分が毒よ。これを全部飲み干しなさい。……そうしたら今までのあなたは死ぬわ」
「……」
アデラはグラスを掴んだ。シチューの時と同様、なんの戸惑いもなくグラスに口を付ける。
そして……。
夕食の時間になり、広場はだんだんと賑わいを増している。その一角にあるリストランテにも客が増え、従業員が慌ただしく行き交いし始めていた。
「おや、ご婦人。何かご注文ですか?」
リストランテの主人は、いつの間にかテーブルに座っていたローブ姿の女に声をかける。
ローブは上等だし髪は手入れをされていて艶やかだし、一目で金持ちのお忍びだと知れた。貴族の奥方様が、若い愛人と逢引の約束でもしているのだろう。しかし女は艶やかな赤い唇を吊り上げると、金を置いて立ち上がった。
「ご婦人?」
「ありがとう。もうそこのウェイターさんにシチューを頼んで頂いたわ。お代は置いておくわね」
「は、はあ……そうでしたか」
「とても美味しいシチューだったわ。コックさんにどうかお礼を伝えてね」
「はい。またのお越しをお待ちしております」
ローブの女はくるりと背を向けて立ち去っていく。
テーブルの上にはシチューの料金としてはかなり多めのお金……そこで主人は首を傾げた。彼女はいつの間にあのテラス席に座って食事をしていたのだろう。注文はウェイターに頼んだとしても、まったく気が付かなったというのはおかしくないだろうか。主人は基本的にオーダーなどは若い従業員に任せ、自分はリストランテ全体を見渡すことを心掛けている。
「おいあんた!俺が頼んだシチューはまだ来ないのか!!?」
「え?」
突然怒鳴りつけられ、主人は目を剥いた。
「もう三十分は待ってるんだぞ!早くシチューを持ってきてくれ」
「も、申し訳ございません!すぐに厨房を確認してまいります!!」
主人は怒り心頭の客に怒鳴りつけられ、すぐにローブの女のことは忘れてしまった。
ケンブリッジ王国には、二人の悪女の話がある。
一人は異世界からやってきた、聖女を名乗る娘。
彼女は魔法を操り、当時の王太子の心を掴んで公爵家の娘との婚約を破棄させた。そして王太子の新しい婚約者に納まると、贅沢の限りを尽くして国を混乱させた。
やがて隣国からやってきた一人の魔女に正体を暴かれ、異世界の娘は捕えられて処刑された。王太子は廃嫡され、第二王子が公爵家から王妃を迎えて国王に据えられたという。
もう一人は、侯爵家の令嬢でやはり王太子の婚約者だった。
彼女はわがままで怠け者で意地が悪かった。王太子の周囲の人間を虐げ、彼らの功績を奪った。家では父や兄を罵り、大人しい姉に暴力をふるった。
やがて王太子は侯爵令嬢の罪を告発し、彼女に婚約破棄を言い渡した。これまでの行いゆえに家族にすら見捨てられた令嬢は平民に落とされ、国外追放となった。王太子は侯爵令嬢のいじめに耐えていた一人の可憐な伯爵令嬢と婚約を結び直し、周囲に祝福された……。
―――それは本当?