魅人
「夏のホラー2024」 参加作品です。
彼女の名前は誰も知らないが、魅人。そう呼ばれている。その名前は、彼女の持つ不思議な魅力を象徴するかのようだった。
私が彼女に初めて出会ったのは、とある夜のことだった。彼女はバーの片隅に透明感のある橙色のドリンクを片手にひとりで座っていた。不思議な魅力が彼女を取り囲んでいるようで、私も彼女にひかれてしまった。彼女の髪は黒く、目は深い色をしていて、どこか異国の美しさを湛えていた。ただし、何とも言えない重苦しい、また何度でも匂っていたいような匂いが微かに漂っていた。まるで、そう、ガソリンのような。
「…うっっ、なんだこの匂いは…」
バーの中で、私は彼女の近くに座り、彼女と会話を始めた。彼女は見た目以上に魅惑的な話術で私を引き込んでいった。しかし、話が進むにつれて、その匂いがますます私の感覚を支配していく。彼女の鼻をつき、息苦しさを感じさせる匂いもいつしか鼻が慣れていった。今思えばそんな匂いも気にならないほどに私は彼女の虜になっていたのだろう。
気づけば、来る日も来る日も私はこのバーに通いつめていた。そう、彼女のためだけに。
彼女とバーで会ってから何回目だろうか。彼女は私に、特別な誘いをした。
「私のアパートへ来ない?」
私は何故か拒めなかった。彼女の魅力が、私の理性を支配しているようだった。
彼女のアパートは、古びた一軒家だった。ドアを開けると、あのガソリンの匂いが一気に強くなった。
「…うっ…(この匂いはどこから来ているんだ)」
しかし、その時の私には引き返すという選択肢が無いほどに彼女の魅力が引き続き私を支配していた。
彼女はキッチンで何かを作り始めているようで、私は手料理を振舞ってくれるのかと期待に胸を膨らませソファに腰掛けた。
会社帰りで疲労もあってか意識が朦朧とし始め、しばらくして、私は眠ってしまった。しかし、目が覚めると彼女の姿はない。そして、部屋中に広がる濃いガソリンの匂い。私は我に返り、焦って彼女を探し始めた。
「…おや?目が覚めました?」
彼女は死角で見えなかっただけであって、まだキッチンで作業をしていた。しかし、彼女の姿を見つけた時、私の脳裏に恐ろしい光景が焼き付いた。彼女はキッチンで、何かを混ぜていた。その液体が、ガソリンのような匂いを放っていて、さらに別の個体のナニカが混ざっていたようにも思える。私は恐怖に震えながら、その場から逃げ出した。
後日、彼女のアパートが警察によって捜索されたというニュースが伝えられた。キッチンの土鍋からはガソリンと黒く変色した男の死体が発見された。彼女は男を複数回、自宅に誘い込み、眠らせた後、その男をガソリンで沖漬けにしていたことがわかった。私は間一髪で助かったが、彼女の魅力とガソリンの匂いは、私の記憶に今も残っている。
彼女は、魅人。その名前が意味するものは、私には未だに理解できない。もし、次彼女に出会えたら聞いてみたいものだ。
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