精神病とちっぽけな人生
「私たちは空の広さを知らない。普通、こうやって見上げただけで分かりそうなものだろ。そう、パッと上を見ればさ、分かるはずなんだ。でも、沢山の人が空の見上げ方を忘れてる。子供の頃は皆、誰も彼も空と友達だっただろうに」
その日の姉は憑き物が落ちたような穏やかな表情をしていた。
「少し、屋上で話さないか」
はにかんだ瞳。赤みのさした頬。彼女の額と頬には深い皴が刻まれている。それは病院に行けない精神病者の苦悩の証だった。
小声で「わかった」と答える。聞こえたのかどうなのか、黒髪を翻して姉は玄関へ歩いていく。上機嫌にハミングしているのは、母が好きだった歌だ。
肺の底から息が漏れ出る。
この生活がついに終わるのだと分かった。
姉が精神を病んで3年。
僕が仕事を辞めて2年。
姉は27、僕は25になっていた。
結婚生活の破綻、会社でのいじめが重なって、姉を壊した。
家で奇声を発して暴れる姉に、母は10か月耐えた。
そのうち限界が来た。母は母親としての責任と、娘の元夫への恨みに押しつぶされて死んだ。
僕は新卒で入った会社を退職した。
親の貯金と親戚からの援助、わずかなバイト代で食いつなぐ生活。それが2年続いた。姉の症状は良くならなかったし、病院に通うには金が足りない。今までドラマや漫画で目にしたものに輪をかけた絶望が目の前にあった。
度重なる姉の自殺未遂。やむことのない絶叫と嗚咽。涙と血で汚れた姉の部屋。睡眠のためのアルコール。底をつく貯金。
登ることを許さない壁が眼前にそびえていた。壁は四方にあって、僕らがいる空間の真ん中には穴がある。深い穴。飛び込めば終わり。魅惑の獄穴。それに抗う日々が続いた。
死ぬな。死ぬな。死んだら終わりだ。
そうしていつの間にか、今日を迎える。
「……今日は風が強いな。でも、雨は降らないらしい。嬉しい。カナタといろんなことを話したいんだ。今日も夜は私の味方だ」
姉のパジャマ姿が風になびいている。マンションの屋上は夕刻を終え、夜闇に片足を突っ込んでいた。
姉の声は微笑んでいた。それが妙に胸に染みて、痛くなる。
「夕方と夜の境目には空が虹になるんだよ」
僕に背中を向けたまま、さも当たり前のように彼女は言う。
「赤い太陽が沈む東の空から、オレンジ、黄色、黄緑、緑、水色、青、紫の順に西の端まで。分かるかな。七色どころの話じゃない。全てが色だ。私たちが知っている色と色の間に、まだ名付けられていない色がある。何もかもが色づいている。虹というのは空にかかる橋のイメージがあるだろう。あれは違う。虹というのは、空そのものなんだ」
僕は黙って空を見ていた。深い秋の中空に穏やかな声が吸い込まれていく。
確かに目の前の景色は七色のグラデーションに染まっていた。が、それよりも僕は驚いていた。姉がこんなにも長く話すのを、この3年間、聞いたことがなかった。
「話は変わるが」と姉がつぶやく。
「このマンションの高さはざっと5メートルくらい。その上に立っただけで、こんなにも遠くまで見渡すことができる。数キロ先の山の裾まで見えるくらいだ。これがどういうことか分かるか。つまりさ、人間の営みってほぼ5メートル以下なんだよ。街路樹1本分。その程度なんだ」
「バオバブって木を知ってるか。1本1本がこのマンションくらいの太さになるんだ。びっくりだろ。しかも、このスカスカの鉄筋コンクリートと違って、中身が全部詰まってる。途方もないと思わないか。人間ってのは、随分としょうもないレベルでうろちょろしてるんだ。そういう私自身も。……滑稽だよな」
「私たちは空の広さを知らない。普通、こうやって見上げただけで分かりそうなものだろ。そう、パッと上を見ればさ、分かるはずなんだ。でも、沢山の人が空の見上げ方を忘れてる。子供の頃は皆、誰も彼も空と友達だっただろうに。いつのまにか大人になって、いつのまにか自分のちっぽけさを忘れてる。二階から道を見下ろしてみろよ。何年も空を見上げてないような奴がごろごろいる」
屋上の手すりを握り締めた彼女が時折こちらを振り返るのを、ただ見守っている。話すことができるレベルにまで回復したのだ。話の内容は奇妙ではあるけれど、これはきっと良い兆候に違いない。
しかし、急すぎる。つい数日前まで自室で泣いて叫んでいた彼女だとは思えない。
この状況が何を意味するか。
単なる予感だ。こんなのは予感に過ぎない。だがその予感が胸を締め付けて離さない。
大丈夫、大丈夫。悲観するな。
姉が自殺などするわけがないのだから。
「『あの空のあの青に手を浸したい』」
姉が星空に片手を掲げる。
「谷川俊太郎の詩の一節だ。学生の頃にこれを読んだ時、ひどく感動したのを覚えてる。空の青に手を浸す。そして私は青色に混ざって、薄まって、消えてなくなる。それって一番綺麗な死に方じゃないか。そう、私はずっとそう願ってた。青い場所で静かに死ねたなら本望だ、って」
「あまりに苦しかった時に一度、その言葉を思い出したんだ。それで気づいた。あの詩は生きる喜びを歌ったものだ。『あの空のあの青に手を浸したい』というのは、空に溶けて消えてなくなりたいんじゃなく、空に触れられたらどんなに気持ちがいいだろう、とそういう話だったんだ。だからあれは、私に寄り添ったものじゃない。それなら、」
それなら私はどうすればいいんだろう。つぶやいた声が風に擦れた。
視界が歪む。そらみろ! 心のどこかでもう一人の僕が絶叫する。
やっぱりそうだ。姉さんも限界だった。精神病で一番つらいのは発症した本人だという。10ヶ月で限界を迎えた母。2年経って弱り果てている僕。3年目の姉。誰が一番傷ついているだろう?
だけど、駄目だ。それ以上はいけない。終わらせるなんて。許されない。
姉が手すりを乗り越えようとしている。二本の足が柵の外側に着地する。やめろ。言葉が出ない。彼女と目が合う。泣き顔のような微笑。
「──それなら、死んでしまえばいい」
体が動かない。今すぐに彼女を手すりの内側から羽交い絞めにして、死ぬなんてやめろ僕がついてると心の底から叫ぶべきだった。だが、動けない。
「それは彼女の選択なのだ」と悪魔が囁く。疲れ果てた天使が心の隅にうずくまっていて、僕は言葉を紡ぐことすらできない。
もしや僕は安心しているのか? 自分が分からなくなる。姉がいなくなることで僕は楽になる。それは間違いない。だがそれでいいのか? それがいいのか? 僕はそれを望んでいるか?
うるさい何も考えるな。僕は僕、姉は僕の姉。事実はそれだけ。
そこから導き出される結論。そんなの、分かり切ったことのはずだ。
僕の本当の気持ちはなんだ。
決まってる。
やめろ、姉さん早まるな、やめろやめろやめろ死ぬな!!!
彼女の長い黒髪が浮き上がるように揺らいだ。
「──そう、考えたこともあった」
マンションのへりに姉は座っていた。両足を街路の中空に遊ばせている。
数秒の間をおいて僕は放心状態から回復する。空も風も、数秒前の景色がそのままここにある。何も変わっていない。僕の心臓は動いていて、姉もそこにいる。間違いない。
僕はよろよろとその場にへたり込んだ。ほんの一瞬の間に大汗をかいている。
「今は、全部、自然に任せようと思っているよ」
彼女は僕に目を向けて、微笑を作って見せる。魅惑的だった。幼い頃、姉がいないと怖くて何もできなかった頃。頼もしかったあの頃の姉が確かそんな表情をしていた。
「例えば、私は今こうして危険な場所にいる。でもその事実は、私が次の瞬間にバランスを崩し、地面にたたきつけられて死ぬかどうかとは関係がない。ここに風が吹くか、手すりに雷が落ちるか。それとも何も起きないか。どれも私に決められることではないし、強いて決めたいとも思わない。すべては偶然のめぐりあわせ、平たく言えば運だ。だから私たちはそれに身を任せるべきなんだ。ありのまま。レットイットビーだよ。それが一番楽で、楽しいあり方なんだ。人生ってのはさ、楽で、楽しいものであるべきだろう」
則天去私ともいう、と付け加える。どこからか虫の声が聞こえてきた。
町は夜陰に飲まれ、藍色が立ちこめている。誰にも平等に優しい夜の空気が肺を満たしていく。長く吸った息をそれよりも長く長く、吐いた。
「そう、そんな簡単なことに気づくまでに3年もかけてしまった。いや、27年かな。人生100年時代には、むしろ早すぎるくらいか」
振り返った姉が手すりに肘をつく。僕と真正面に対峙する形だ。
「そこで相談があるんだ」
僕の顔はこわばっていたと思う。なのに、それにもまして姉の顔は神妙に引き締まっていた。
何を言い出すのか想像もつかない。僕の頭は考えることをやめている。
「……何? 相談って」
「私は、カナタがいないと生きられない。今日まで、母さんが死んでから今日までずっと私の面倒を見てくれただろう。そう、本当に、何から何まで」
うつむく彼女の視線の先を追った。最も荒れていた頃の姉は、僕が食事から排便の世話までせざるを得ないほどだった。そのことを言っているのだろう。
「これからは少しずつ、その恩返しをしたいと思ってる。本当に感謝している。……とはいっても、私はまだ働ける状態じゃないし、もしかしたらまだ迷惑をかけるかもしれないけど、至らない部分は直すから。約束するよ。ちゃんと努力する。だから、その」
焦ったように言葉を紡ぐ姉の声は震えていた。意を決したように息を吸う音。
「だからもう少しだけ、私のそばにいてくれないか」
それは告白のような響きをしていた。赤い頬に涙が垂れる。
「カナタにまで見捨てられたら、私は」
びゅう、と強い風が吹いた。彼女がバランスを崩す。意識するより前に体が動いている。
手すりにしがみつく彼女を抱き寄せた。しがみつく姉を内側に引っ張り込んで、座らせる。
痩せた体は弱弱しくて、少し力を込めただけで折れてしまいそうだ。
こんなに衰弱しているのに。
僕はどこにも行きやしないのに。
握りしめた拳が震えている。顔全体が熱い。
「見捨てるわけがないだろ!家族だぞ!」
霞んだ視界を乱暴にぬぐう。姉は驚いたような顔をしている。
ずっと絶望していた。未来はないと思っていた。それは、見捨てられなかったからだ。見捨てる選択肢がなかったからだ。
当たり前だろう。
家族じゃないか。いまやたった二人の。
分かり切ったことを聞くな。
姉の手を取る。強く強く握りしめる。
僕を見上げたままの彼女。呆けたように瞬いたその目からぽろぽろと涙がこぼれた。
そんな簡単なことも分からなくなっていたのか。
「信じてくれ。僕を信じてほしい」
含み聞かせるように言う。
「僕は確かに、この生活が苦しかった。未来に希望もないような気がしてた。だけどそれは、姉さんが大切だったからだ。絶対に見捨てることなんてできなかったからだよ。家族だから。いいか、僕らは、家族なんだ。家族の絆ってやつはあるんだよ。確かに。姉さんは僕がいないとだめかもしれない。でもそれは僕もそうだ。姉さんと共に、生きていきたいんだよ。恩返しがしたいならいつでもしてくれ。ずっと一緒にいるんだから。迷惑をかけたっていい。その時は僕が全力で姉さんを助ける。これまでも、これからもだ」
気づけば、こうした思いを一度も言葉にしてこなかった。なんてことだ、それじゃ伝わるはずがないだろう。特に現在の彼女には。
月明かりが僕らを照らしている。夜の冷気の中で手を取り合っている。
風は既に止んでいて、鈴虫の鳴き声が聞こえた。
冷え切った両手がお互いの体温を感じるようになる頃には、姉は穏やかに笑っていた。もう怖いものなどないというような、強く優しい表情。幼い頃、僕の英雄だった、大好きな姉の表情だった。
家族の暮らしは支え合いだと母が言っていた。本当にその通りだ。僕らは支え合って補い合って、二人で歩んでいく。二人でなければだめなのだ。
「ありがとう。私はもう一度生きてみることにする。新しい人生を始めるんだ。今日という日は生まれ変わった私の、私たちの記念日だよ。……そうだ、そうだったのか」
「──私は今日、生まれたんだな」
東の空が明るみ始めていた。