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「……み」
誰かの声が聞こえる。
「……ずみ……い…み」
俺の名を呼んでいる。誰だろうか。結さんだったら、いいな。
「起きて、伊澄!」
大声で叫ばれて、目を開く。
「…なんだ明か」
結さんだったらよかったのに。
明は頬を膨らませて怒る。
「なんだとはなにさ! 人が折角心配してあげてたっていうのに!」
俺は身体を起こして辺りを見渡す。そこは結さんの部屋で、俺は制服のままだった。
「伊澄に電話しても出てくれなかったからここに戻ってきたの。そしたら伊澄が倒れてるんだからびっくりしたよ!」
明の目には涙が溜まっている。驚いたと同時に、本当に心配してくれたんだろう。
「…ごめん、明」
俺が謝ると、明は「ぅー」と小さく唸る。そっか、違ったな。
「…ありがと」
「…うん」
明は少しだけ嬉しそうに――結さんにそっくりな表情で頷いた。
「…そう。そんなことがあったんだ」
とりあえず、明にさっき起こった――かはわからないけど、結さんがいた不思議な、そして崩壊して消滅した世界のことを明に話した。結さんとキスしたことは恥ずかしいから伏せた。
「夢、じゃないの?」
俺も夢だった可能性は否定できないけど、まだ結さんの唇の感触が残っている。夢とは、思えない。
「…そっか。なら、ぼくも信じるよ」
こういうとき、明は味方してくれる。その優しさが、結さんを支えてきたんだと思う。
明が今まで結さんを支えてきた、その苦労を報うためにも。
結さんの願いを叶えるためにも。
「…結さんを、探そう」
「…うん」
俺の言葉に、明は頷いた。
直後に。
「……っ」
ふらりと、明の身体が傾く。
急いで抱きとめようとするが、明は机に背中を打ち付けてしまった。
「大丈夫か!?」
へたりと座り込んだ明の肩に手を回して支える。明は痛みに顔をしかめていたが、それ以上に疲れている様子だった。
ばらばらと机から小さなガラス球が落ちる。
「…ごめん、伊澄…。ちょっと…立てそうにない…」
本当に辛そうな表情で、明は言った。今まで、こんな明を見たことがない。
ずっと――俺がここじゃないどこかで、結さんと踊っている間さえも――走り回っていたんだろう。この華奢な身体では、耐えられないくらいの疲労が溜まっている筈だ。それだけじゃない、今までずっと支えてきた、大切な人がいなくなったんだ。精神的な疲労も半端ではなかっただろう。
「…しばらく寝ていたほうがいい。俺に任せてくれ」
「…ぼくも、行くよ」
明は俺の肩に手を――震える手を置いて、必死に立とうとする。その姿が、とても痛々しくて。
「明、頼むから寝ててくれ…」
明を――俺の、たった一人の親友を――抱きしめた。
こんなに辛そうな明を、俺は見ていたくない。
「無理しすぎだ。いつもいつも、一人でそうやって抱え込んで。俺を頼れよ、心から」
「伊澄…」
「明まで居なくなったら…俺は、どうすればいいんだよ…」
声が震える。怖いんだ、失ってしまうのが。
友達を。大切な、人を。
「…わかった。ありがと、伊澄」
明の手が背中に回され、少しだけ力が込められる。
「けど、伊澄も休んで。話したいこともある」
「…わかった」
「伊澄は、高校でぼくと再会したときなんでこんな姿をしてたか疑問に思ったでしょ?」
濡れタオルを明に手渡すと、質問をされた。
「そりゃ思ったさ。昔はあんなに男の子らしかったお前がいつの間にかそんなナリになってんだから」
「うん、まぁ当然だろうね。そのことについての話をしたいんだ」
明がこうなった理由。自然とこうなった、ってことではないのか。
「さっき結ちゃんのお父さん、つまりはぼくの叔父さんのことを話したよね」
結さんの父親は今、出張中らしい。今はもちろん、昼にここに来たときもこの家で人を見てないと思ったら、そういう理由だった。
「叔母さん…結ちゃんのお母さんは、死んじゃってるんだ」
「…そうなのか」
片親が他界している、というのは割とよく聞く話ではある。けれど、それが明の今の姿にどう関わってるんだろう。
明は服を脱いぐ。
「…焼死したんだ、6年前に。火事で」
服を脱いで、キャミソールを脱いだことで、うっすら見える。
右胸にある、皮膚のつなぎ目。
着れば隠れる位置にある。明は、去年は女物の水着を着ていた。これを隠すためたったのか。
「ぼくも、その火事に巻き込まれた。そのとき、遊びに行ってて。当時はそんなに仲が良かった訳じゃないんだけど……結ちゃんも、巻き込まれた」
汗で濡れた明の髪の毛が肌に張り付く。明はタオルで身体を拭きながら続ける。
「火事の原因は、叔父さんのタバコだった。叔父さんが出かけた直後に発火した」
発火場所は寝室だったらしい。灰皿がテーブルから落ちたかなにかの拍子に引火したんだろうか。
「叔母さんとぼくと結ちゃんは同じ部屋にいたんだけど、火事に気がついたのが火の手がかなり回ってからだった。逃げようとしたとき、天井が崩れてきて、叔母さんがぼくたちを庇って下敷きになった」
明は悲しげな表情になる。その光景を思い出しているんだろう。
「あの時の結ちゃんの表情が、声がずっと残ってる。肉親を目の前で失うなんて、10歳の女の子が耐えられることじゃない」
俺でも耐えられるとは思えない。
「ぼくは結ちゃんの手を引いて走った。必死になって走った。リビングに大きい窓があったんだけど、火の勢いが強くてそこまで行けなかった。行けたのは、玄関だけ。でも鍵がかかっていたし、開けた瞬間にまた天井が崩れる可能性もあった」
支える力が弱くなれば、崩れることもあるだろう。もし俺がその場に居合わせても、その事態を危惧しただろう。
「でも、それ以外に道はなかった。だからぼくは――炎に身を包まれて、ドアを開けた。すぐに結ちゃんの手を引っ張って外に出して――ぼくは、崩れてきた天井の下敷きになったらしい」
「…らしい、なのか」
「結ちゃんを外に放ったとこまでしか記憶にないよ。直後に意識を失ったんだと思う」
結さんの母親と明は、捨て身で結さんを助けた。結さんはどれくらい悲しんだんだろう。きっと――
「想像の通り、結ちゃんは自分を責め続けてたよ、ずっと」
自分のせいで。自分のせいで。結さんは、何回自分を責めたことだろう。
「ぼくは玄関で倒れていたから、比較的早く救助された。だから助かったんだけど、目を覚ましたのは火事の3日後だった。目がさめたとき、結ちゃんは病院のぼくのベッドの横で座って泣いてたよ。ごめんなさい、ごめんなさい、って言いながら」
明の表情がますます暗くなる。思い出すだけでも辛いのに、話してくれている。俺は明の隣に座ってその薄い肩に手を回し、自分にもたれさせた。
「ぼくは全身を焼かれたけど、命に別状はなかった。でも皮膚が焼けて、移植することになった」
明の手からタオルを取り、優しくその身体を拭いてやる。明は身体の力を抜いて、目を閉じた。
「そのとき、ぼくからお願いしたんだ。骨を、肉を削って欲しいって。女の子みたいにしてくれって」
明は、その時からずっと――そのために、生きてきたんだろう。
「友達のいない結ちゃんが、ぼくと一緒に居やすいようにするために。仲良くなるために」
それまでの自分を捨ててでも、守りたかったんだろう。これまでずっと、守ってきたんだろう。
明は――こんなにもがんばった。
「手術は成功して、包帯が外れてから結ちゃんと面会したとき、結ちゃんがなんて言ったと思う?」
明は俺の胸に頭をくっつけ、どこか優しげな口調で問うた。
「……わからん。なんて言ったんだ?」
「……ずるい、って言ったんだ。かわいい、ずるい、って。次に――ありがとう、ごめんね、って」
明の声は少しずつ小さくなっていく。
「お母さんと…明くんが助けてくれたから、その分誰かを……助けられるようになる…って」
その小さな身体から力が抜けていく。
「ほんとうは…ぼくが思ってたより、強くて…優しい…子だった」
「…うん」
明は疲労で意識が朦朧としているんだろう。よく――がんばってくれた。
「……結ちゃん…」
小さく、呟いて。
「帰ってきて……」
明の身体から、力が全て抜けた。
「明……お疲れ様。あとは……俺に任せて、寝ててくれ」
明をいったんベッドに寝かす。気は引けたけど、結さんのタンスを開けて、中から暖かそうな服を一つ取り出して明に着せてやる。明の寝息は、いつかの結さんの寝息とそっくりだった。
時計を見ると、23時を過ぎている。外は不気味なほど静かで、怖くさえあった。
キラリ、と視界の端で何かが光る。近寄って光ったものを拾い上げると、それは青いガラス玉だった。
「……これ、どこかで…」
見たことがあるような気がする。どこだろう、どこで――。
「…ッ」
思い出そうとした瞬間、急に眠気が襲ってきた。
結さんを助けるって誓ったのに、探せもせず終わるのか。そう思いつつも、意識が切れるのを感じた。