2
はて、今何時だっけ。
はて、なんで俺はここにいるんだっけ。
「……もう少し常識をわきまえてくれよ…」
思わずつぶやく。
目の前の家は赤土色の煉瓦で壁を覆った二階建の一軒家。何回も来たことはあるけど、この歳になると機会が減るもんだから久しぶりではある。
現在午前6時37分。村谷家前。
「そっちがよくったって、気が引けるもんなんだぞ…?」
昨晩のこと。明からメールが「明日休みだし、家来ない?」というメールがあった。「じゃあ行くわ。何時に行く?」と返信したところ「朝七時前」と返された。異議を唱えたものの返信がこなかったので、「これで昼に行ったら約束破ったとか言われてなんかされるな」という考えに至った。
と、いうわけで来てはいるが。あいつの人望、というより人気は侮りがたいもので、一度あいつの親衛隊みたいな奴らの気に触れて川に落とされたことがある。それで明が怒って親衛隊は解散になった……と思ったらファンクラブとして存在してたから、本当に恐ろしいものだ。
そういえばその時携帯も死んだんだっけか。明の命令で親衛隊の奴らから金を集めて買い変えられたからいいんだけど。
玄関のボタンを押し、チャイムを鳴らす。ドタドタ、と足音がして、ドアが開いて、顔を出したのは――――結さん。
思わず硬直する。あれ?ここ明の家だよな?…いや、結さんは明の従妹だからいてもおかしくは――でもこんな朝早くからいるのか?もしかして一緒に住んで――
「……あの」
「え、あぁ、ごめん」
考えに没頭していた。いかんいかん。
「入って。明くんが呼んだんでしょう?」
「あぁ、うん。お邪魔します」
結さんに家にあげてもらう。
「…と、おはよう」
靴を脱ぎながら遅れた挨拶をする。驚いて忘れてた。
「おはよう」
結さんは素っ気なく返してくれる。でも嫌がってるわけじゃなさそうだ。なんとなくだけど。
私服姿の結さんを見る。薄手の紺色の長袖Tシャツにショートジーンズ。ジーンズから伸びる白くて細い太ももが眩しいです、すごく。
俺の視線に気が付いたのか、結さんが訝しげな表情(でもやっぱり変化が乏しい)で俺を見る。
「なにか…?」
「ぇ?いや、かわいいなって思って」
服がかわいいとかじゃなくて、結さんが。…っていう続きはさすがに恥ずかしいから言葉にしない。
結さんは頬を赤らめて、ふいと後ろを向いてしまう。やっぱりかわいい。
「明くんは二階」
後ろを向いたまま短く言ってさっさと階段を上っていってしまう。少しだけ見えた頬がやっぱり赤かったから、思わず微笑んでしまった。
見慣れた部屋に入る。この家に来たときは大体この部屋で過ごす。
「や、いらっしゃい」
明が振り向いて挨拶する。当然私服だけど、なんで男のお前がフリルのスカートなんだ。
「なんでこんな時間から呼ぶんだよ」
俺は挨拶も返さずに昨日からの疑問をぶつける。
明はベッドからぴょんと飛び降りて、そばまで来ると。
「朝から……だったら、一日中一緒にいられるでしょ?」
言いながら細い腕を絡ませて俺に抱きつく。…あぁ、結さんが変な目で見てる。誤解だよー…?
「はいはい、俺は暇だが野郎といちゃいちゃする趣味はねぇよ」
暑苦しいので引っぺがしてベッドの方に突き飛ばす。
「やははー、まぁ冗談はさておき」
ベッドに座りなおして、明は言う。すると、結さんは無言で部屋を出て行ってしまった。
「まぁ座って座って。どうせ暇だったんだから一日中みんなで遊ぼうじゃない」
無邪気な笑顔に腹が立ちます。こいつ絶対無意味に呼び出しやがった。
ため息をついて座る。この部屋にあるのはガラスのテーブルと、窓の下にベッドだけで――
「…ん?」
一瞬見間違いかと思った。白い大きな、見慣れないものが目に映ったから。
目をこすってもう一度見てみる。…やっぱり、ある。
「…伊澄、やっぱりキミ、鈍いでしょ?」
自覚してるよ。
入ったときはドアで見えなかったけど、そこには確かにあった。
「…これ、買ったのか?」
俺はそう言いながら、それを指差す。
それは、白いピアノだった。グランドピアノじゃなくて、直方体みたいな形のタイプ。
「ううん、母さんの実家から持ってきた」
ピアノの蓋を上げると純白、あるいは漆黒の綺麗な鍵盤が顔を覗かせた。
「弾けるのか?」
「ううん、ぼくは弾けない」
なんで持ってきたんだ。
「結ちゃんが弾ける」
それは聞いてみたいな。
不意にドアが開き、盆を持った結さんが入ってきた。盆の上にはオレンジジュースと、洋菓子が3つずつ。えーっと、この洋菓子の名前が思い出せない。
「ありがと、結ちゃん」
明が微笑んで結さんに言うと、結さんは「うん」とだけ小さく言ってテーブルに持ってきたものを置く。
「ありがと」
俺の前に置いたときに俺も礼を言う。結さんは声を出さずに頷くだけ。
かわいくていい子だとは思うけど、口数が少ないから少し関りにくい。少しでも喋れるようになればいいんだけど。
「鍵」
結さんがスプーンを置きながら言う。
「持ってる?」
昨日のウォード錠のことだろう。そういえば制服のポケットに入れっぱなしだった。
「あー…、今は持ってない」
「そう…」
少し悲しそうな顔になる結さん。
「できるだけ、持ち歩いて」
「…うん、わかった」
俺は頷くが、面倒だと思う部分もあるし、なにより意味がわからないから実行する気が湧かない。けれど結さんがそうしろって言うんだからそうするとしよう。
ともあれ。
「これなんだっけ?」
俺はテーブルに置かれた洋菓子を指して尋ねる。
茶色のスポンジの上にクリーム色のムースを、その上にまたスポンジ、上にまたクリームを重ね、一番上のムースにはココアパウダーがまぶしてある。
「ティラミス」
結さんが俺の右側に座りながら答える。あぁ、そうだ、ティラミスだ。
「結ちゃんの得意なお菓子」
明がベッドから飛び降りながらつけ加えた。じゃあもしかして。
「これも結ちゃんが作った」
やっぱりか。
「お菓子作るの得意なの?」
「得意…じゃない」
俺が尋ねると、結さんは少しだけ俯いた。
「でも、作るのは…大好き」
俯いた顔を上げて言った結さんの表情は、どこか懐かしい、暖かで柔らかな笑み。
どうしてだろう。どうして俺は、こんなにもこの子に興味が湧くのだろう。一緒に居たいと思うのだろう。今まで誰かと一緒に居たときは、こんなことはなかったのに。
「どうぞ?」
結さんに促されて、ティラミスを手に取る。
いただきます、と言いながら微笑んで、ティラミスを口に運ぶ。
ほんのり苦いココアパウダーとコーヒースポンジ。柔らかな舌触りのチーズムース。
「…おいしい」
俺は結さんに微笑みながら、素直な感想を言った。結さんは頬を少しだけ赤らめ、嬉しそうに笑った。
「じゃあぼくもたーべよっ」
いつのまにか正面に座っていた明もティラミスを手に取り、口に運ぶ。
「ん〜っ」
幸せそうな表情でぷるぷると震える。今更だが、お前は本当に男か?
結さんはくすりと笑うと、ジュースを一口飲んだ。その仕草すらかわいく思えたのは、なんでだろう。
「でさ」
ティラミス(多分朝食代わり)も食べ終わり、一息ついたところで話を切り出す。
「今から何すんの?」
「んー?」
ベットに座って(一応スカートなのに)足を投げ出していた明がこっちを見。
「んんー」
唸り。
「んんんー…」
首を傾げ。
「……何しよう?」
笑った。
先生、殴り飛ばしていいですか? いや、むしろ殴り飛ばさせろ。
「暴力はんたーい」
俺の殺気を感じたのか、明は両手をひらひらさせながら笑って言った。結さんが居なければ殴ってるかもしれない。命拾いしたな、明。
「なんかないのか?」
俺が尋ねると、明は指を顎に当てて思考するポーズをとる。
「……困ったことになにもない」
「ほんとになにも?」
「さっぱりやっぱりめっきりない」
意味がわかりません。
「ぼくが持ってるのなんてトランプとチェスと将棋と麻雀くらいだし」
待て、なんだそのゲームの数。色んな国のが揃ってるけど意味が解らん。なぜ揃えた。
「将棋やチェスだと二人でしかできないしねぇ。麻雀わかる?」
「俺はわかるけど、結さんはわかるの?」
「少しだけど、わかる」
意外だなぁ。
「とりあえずトランプやろーよ」
待て、今の流れでどうやってトランプをやることになるんだ。
「ぼくが文脈なんてものを無視するのはいつものことでしょ?」
「…そう?」「そう?」
俺と結さんは同時に同じ返事をする。
「そこ、シンクロしない!」
明はビシ、と俺たちを指して叫ぶ。無茶苦茶なのはいつものことだと思うけどな。
「というわけでまずは大富豪ね」
結局最初にやるのはトランプか…。
「一番勝った回数が多い人が麻雀の最初の親ね!」
結果、俺は4回、明は1回、結さんは7回大富豪になった。
「言い出しっぺがバカを見るってのはこのことかい…」
明はほとんど負けたのですでに意気消沈。結さんは無表情で麻雀牌をベットの下から引っ張り出した。
「結さん、麻雀できるんだね。意外だった」
「あまりうまくはないけど」
結さんは視線をこっちに向けないまま、少しだけ悲しそうな、それでいて優しげな表情をしていた。その理由は、後に続いた言葉が物語っていた。
「昔から明くんはルール覚えてたから、明くんとやりたくて覚えた。明くんぐらいだったから。私と遊んでくれたの」
――今まで、明だけが結さんの支えだったんだろう。
さっきの表情は、明との思い出を思い出すと同時に、孤独だった頃を思い出してたからだろう。
明は黙って結さんを見つめている。
「…そっか」
俺は、なんて言うべきか迷っていた。けれど、素直な気持ちを言いたい。
「じゃあさ」
言ってしまおう。
結さんが俺を見つめる。目には何の感情も映っていない。あるいは、もう明という支えがあるだけの孤独に慣れてしまったのかもしれない。けど、きっとそれは寂しすぎるから。
「これからは俺とも遊んでくれない?」
その言葉に、結さんは。
「…………」
硬直してた。「信じられない」って表情で。
「……ぷっ」
やがて、結さんは吹き出して。
「〜〜ッ…」
震えて、笑いだした。
その笑顔は、混じりけのない純粋なもので。
「ありがとう」
そう言ったときの笑顔は、やっぱり太陽みたいに輝いて見えた。
「よろしくね」
だから俺も、思わずほほ笑みながら頷いた。
「初々しいのぅ」
「おぉ明、いたのか」
明がどこぞの親父みたいな発言をする。半ば忘れていたのでそう返してみた。
「最初からいました今日はまだ部屋から出てません」
ニートかお前は。
「いいもんだ、麻雀でトばしてやる」
「嫉妬か?俺に対する嫉妬か?結さんに対する嫉妬か?」
「どっちも違います」
いつかやったやりとりを、逆の立場でやってみる。結さんは笑いだし、俺も明の答えが俺のそれと全く違わなかったから笑いだした。
今この時間が、楽しかった。
「うあー…」
結局、トばされたのは明だった。
「結ちゃんまでぼくから搾り取るんだしなんなのもう…」
20局くらいやったと思うが、明が和了ったのは1回だけ、しかも平和のみの手。トビ終了は無しだったけど、半荘トビありでやってたら明はトんでるくらい早かった。
「あれは驚いたね、結さんの地獄単騎の海底ツモ」
「あぁ、自分でも驚きました」
「今日ぼく全然ついてない…」
役満は俺が大三元を明に直撃させたくらいだったけど(明がトんだ最大の原因がこれ)、確か結さんが三倍満を和了ってたし、他にもちょいちょい高い役が出た。
そんな感じで明がさらに意気消沈しつつ麻雀も終了。
「で、だ」
また。
「なにをしようか」
する事がない。
「なにしようかー」
「なんでもいい」
この二人は考案する気がなさそうだ。
時計を見る。昼前か。
「昼も近いしどっかに食べに行かない?」
さすがに朝がティラミスだけだと腹減るし。
「いいねー。じゃあ伊澄のおごりで」
ふざけんな。
「結さんのはおごってもいいがお前は自腹な」
「ケチー」
ブーブーほざいてる明を放置して結さんに尋ねる。
「それでいい?」
結さんはこくりと頷いて、
「でも、おごらなくていい。悪いから」
そう言った。なんだろう、明とのこの差。結さんはいい子だな、うん。明とは比べ物にならない。
「じゃあ……と、そうだ」
立ち上がって、ふと思い出した。
「結さん、お願いがあるんだけど」
「?」
結さんは頭上に疑問符を浮かべて俺の顔を見つめる。俺が立っているから上目遣いになるんだけど、破壊力がありすぎて直視できない。明とは比べ物にならんな、うん。
「なんでもいいんだけど、一曲弾いてくれない?」
俺は白いピアノを指して言う。機会があれば、って思ってたけど、今暇だし弾いてくれないかな、って思ったから言ってみた。
結さんはしばらく考える。
「…でも、上手くない」
「俺は、上手くなくても結さんの演奏が聞きたい。……ダメ?」
強引な気がしないでもないけど、聞きたいものはしょうがない。
結さんはまた少し考えて、こう言った。
「……じゃあ、一曲だけ」
「…ありがとう」
俺は嬉しくて、笑顔で礼を言った。
「では、僭越ながら」
結さんは椅子に座って鍵盤に両手の指を軽く置き、弾きはじめる。
最初の音は低く、だがそこから徐々に音は高くなる――かと思いきや、一瞬の間の後に再び低くなり、また高くなる。それが数回繰り返され、現われた旋律は激しいわけではなく、けれど明るいもの。
俺も明も黙って耳を澄ましていた。目を瞑り、一音も逃さず聞く。
聞いたことがある音楽だった。ショパンだったような気がするが、俺は音楽なんてバンプぐらいしかわからないから曲名は思い出せない。
やがて演奏が終わり、俺と明の拍手が結さんに送られた。結さんは少し恥ずかしそうに振り向く。
「ありがとう、上手だったよ」
俺が言うと少しだけ頬を赤らめた。そういうところがまたかわいい。
時計を確認してみると、11時45分になろうかというところだった。
「腹減った…」
やっぱりティラミスだけじゃ腹は減る。美味しかったけど。
出かけるために結さんは着替えてる。一応まともなのを着ないと、とのこと。俺たちは先に外にいた。
「……よかった」
花壇の煉瓦に腰掛けた明が小さく言った。
「俺の腹が減ってることが?」
「違うよ、結ちゃんのこと」
いつもとは違う、優しそうな笑みで明は言った。
「あんなに笑ってた結ちゃんを見たの、久しぶりだからさ」
優しい笑みのまま、明は続ける。
「結ちゃん、ひとりぼっちだった。ぼくがいなかったら、本当に。でも――」
そこまで言った瞬間、玄関のドアが開く。
――うん、わかってる。
結さんを独りになんて、絶対にさせない。
明は微笑んで立ち上がった。
「ごめん、お待たせ」
結さんは小走りで俺たちのところに来る。
今度は紺色のカーディガンの下に丈の短いチェックのキャミスカート、七分丈のジーンズ。あんまり「かわいらしい服」は持ってないのかな。似合うし十分かわいいけど。
「じゃあ行こうか」
俺が言うと、二人は同時に頷いた。
「で、だ」
またこのやりとり。
「どこへ行こうか」
今回は場所バージョン、in繁華街。
「なにか食べたいものある?」
俺が尋ねると、先に反応したのは明。
「フカヒレ!」
「そこに中華料理店あるぞ。一人で行ってこい」
「おごり?」
「自腹」
こいつの相手はたまに疲れる。
「結さんは?」
また明を放置して結さんに尋ねてみる。っていうかもう明はアテにしないでおこう。
「ん…私はどこでもいい」
リクエストなしか…うーん。
「…あ、伊澄、キャビアは!?」
「黙ってろ」
うーん、どうしよう。
「マックでもいい?」
ふと目にマックのある建物がとまったので聞いてみると、結さんは頷いた。
「じゃあマックで」
「フカヒレは!?キャビアは!?」
「お前マンホールに落ちろ」
「酷い!」
そんな俺たちのやりとりを、結さんは笑って見ていた。
「そういえばさ」
ポテトを一つつまむ。全員ハンバーガーは食べおわっているので喋りながらフライドポテト消費の時間。
「屋上にいたのはなんで?」
食べおわって尚フカヒレだのキャビアだの呟いている馬鹿は置いといて、結さんに尋ねてみる。
「ん?んー…」
結さんはポテトをつまんでいた手を止めて、少し迷ってから答える。
「なんとなく」
なんとなく、か。
「寝てたのはなんで? 結構びっくりしたんだけど」
「……寝てたのは…病気」
病気?
「ナルコレプシー。真性」
結さんが言う。聞いたことがないものだったからよくわからなかったけど、明が補足をしてくれた。
「ナルコレプシーは発作的に短い睡眠に陥る病態。真性の原因はわかってないんだって」
結さんはこくりと頷く。屋上に来てみたら突然眠気に襲われて寝ちゃったわけか。
「ごめんね、驚かせて」
「いいよ、それがきっかけで友達になれたんだし」
「友達…」
「…ごめん、嫌だった?」
結さんは首を横に振ってから頬を赤らめて、声を出さずに「ありがとう」と唇を動かした。
「初々しいのぅ」
黙れオッサン。
「伊澄、結ちゃんと喋るとぼくの存在忘れない?」
忘れちゃダメなのか?
「酷い!今までずっと心も身体も捧げてきたのにっ!」
「お前がいつ俺にそんなもん捧げたよ」
「んー、2秒前に一瞬だけ」
ずっと、はどこ行った。
「海に流れたんじゃない?」
「星になったのかも…」
ぇ、なんか結さんまでボケに加わった?
「近くに海はないしまだ星も出てないぞ?」
「昼間でも星はある。見えないだけ」
そう言った結さんは、しばらく俺と見つめあって。
「…ぷっ」
俺が先に吹き出して、結さんも静かに笑った。
「あーもう、またぼくそっちのけで…」
明が抗議するも、俺たちの笑いはしばらく止まなかった。
笑いすぎて危うく店から追い出されそうになったけど、ひとまず食事を終えたので。
「さて」
またしても、この流れ。
「なにをしようか」
「フカヒ」「却下」
馬鹿がまだ馬鹿なことをほざこうとしたな。ガムテープでも口に貼りつけようか。
時計を見るとまだ13時過ぎ。これといってすることもない。
さぁどうしよう。
「持ち合わせも多くはないからなぁ…」
財布の中にあるのは漱石が三人と小銭だけ。
「あ、じゃあさ」
明がぱん、と手を叩き提案。
「あそこ行こうよ、結ちゃん」
「…んー、でも伊澄くんは暇しそう」
あそこってどこですか。
「結ちゃんがいれば伊澄も暇しない」
「…じゃあ、そうしよっか」
だからあそこってどこですか。
「よーし伊澄、ついてきなさい!」
だからどこに行くんだよ。
明は意気揚々と歩いていく。俺はしばらくつっ立っていたが、どうせ暇だし仕方ないから俺もその背中を追った。
「とーちゃく!」
と言って明が振り向く。
「ここ?」
「そ、ここ」
目的地についたらしい。そうか、ここか。
繁華街の外れにあるこの店は、これといって特徴がなき。窓も小さいし普通の一軒家に見えるくらいだ。玄関のドアに「OPEN」と書かれた板がぶらさがってるから、かろうじで店だと判断はできる。
そうか、ここか。
「で、なんの店なんだ?」
外からそれを判断できる材料を見つけることはできなかったので尋ねたが、「入ってからのお楽しみ」と答えてはくれなかった。
「まぁとりあえず入ろうか」
明はドアノブに手を掛けてそう言う。まぁ俺はなんでもいいんだけどね。さっき俺は暇しそうって結さんが言ってたから危険なこととかじゃないだろうし。
「店長いるー?」
「お邪魔します」
明がドアを開けて、言いながら入り、結さんも続く。俺もそれに続いて店のなかに入ると。
目に飛び込んできたのは、大量のゴスロリ服。
どこを見てもフリル。
どこを見てもレース。
………なんの店?
「おーお嬢ちゃん達、久しぶり」
店の奥から女性の声がする、と思ったら。
「捕獲ッ」
「うわぁ!?」
背後から誰かに捕まった。
「見ない顔ねぇ、連れ?それとも彼氏?」
「店長、伊澄を捕まえちゃダメ」
明が振り向いてそう言うと、俺はパッと解放された。よかった、助かった。
後ろを向いて「店長」の姿を確認すると。
「坊や、なかなかかわいい顔してるわね。どう、今夜。暇?」
背の高い、女性だった。艶かしいオーラを放っているが、着ているのはいたって普通の服。
ていうか、喰われそう。
「店長」
結さんが言いながら店長を睨み、店長は「わかってるわよ」と手振を振って笑う。ありがとう結さん、俺は一瞬本気で喰われるかと思って本気でビビってたよ。
店長は俺を店の中に押し込み、ドアを閉める。
「さて、紹介してくれるかしら?」
そのまま置くまで歩いて行って、カウンターの椅子に座って足を組みながらそう言った。逐一色っぽい人だ。
「これが伊澄。前に話してたぼくの幼馴染ね」
「あぁ、これがあの伊澄君ねぇ…」
店長は明の紹介が終わると俺をまじまじと見つめる。
「ふぅん。聞いてた通りね」
聞いてたって何を。
「で、伊澄。この人はー…」
「待て明。店長に何――」
店長の紹介をしようとした明に問おうとすると。
「…知らないほうがいい」
結さんに止められた!?マジで何話したんだよオイ、明!
明はにこっと微笑んで続ける。
「この人はこの店の店長」
さっきからお前と結さんが店長って言ってるんだからそりゃわかるよ。
店長は立ち上がって俺の前まで来る。
「この店の店長、古河よ。よろしくね、坊や」
微笑みながら手を差し出してくる。微笑むとこの人はかわいらしく見えるんだな。
「よろしく、店長」
俺も手を差し出して握手をする。
「…で、この店はなんなの?」
改めて店内を見渡すが、あるのはやっぱりゴスロリ服。
「見ての通り洋服屋よ」
洋服屋っていうか?これ。
「明ちゃんと結ちゃんはよく来るのよ。二人ともかわいいし似合うから、着せ替えがいがあるわよ?」
まぁ似合いそうではあるけど。明はともかく結さんにこういう趣味があったってのは意外だったなぁ。
「客がいないけど収入は?」
ひっそり存在する店だから少ないのはわかるけど、気になったので聞いてみる。
「ないも同然。副業みたいなものだし99パーセントが趣味だし」
大丈夫かこの店。
「本業は?」
「株で」
「それは職業じゃない」
大丈夫かこの人。
店長は笑ってカウンターの向こう側に行く。
「まぁゆっくり見ていきなさいな。結ちゃんのを選ぶの手伝ってあげて。どうせあなたは着ないでしょ?」
そりゃ着ませんが。
明はとっとと服を見に行ってしまったので、近くで服を見てる結さんの所へ行く。
「伊澄くんはどんなのが好き?」
「どんなのがあるかよくわからない」
色々見てみながらそう答える。襟や袖にもフリルがついてるもの、背中が開いているもの、白の比率が高いもの、低いもの。色々あるなぁ。ピンクのフリルとかもあるし。
「これとか…どう?」
結さんは手に取った服を当てて聞いた。
「うん、似合うと思う。試着してみる?」
「もう何着か一緒に試着するから…」
「じゃぁ持ってるよ」
「…ありがとう」
そんなやりとりをしつつ、服を選んでいる結さんの横顔を見つめる。
こうしてると、すごく女の子らしく見える。口数は少ないけど、結さんは普通の女の子なんだから当然ではあるけど。
世の中には不思議なものがあるもので、俺はつい先ほど「ゴスロリ浴衣」なるものを見つけた。
結さんが着たら、すごく似合ってた。
「いつもありがとね。また新しいの作るわ」
会計のあと、店長が微笑みながらそう言った。
結さんは三着、明は四着の服を購入。
「これ店長が作ったの?」
「そうよ。本業は服のデザインだから、仕事の合間に趣味で縫ったやつを売ってるの」
そうだったのか。株の売買が本業じゃなかったんだな。仕事じゃないけど。
「…随分暇なんだなぁ…」
こんだけ作ったって結構暇なんじゃないか?
「…そういえばこの店の名前って何?」
思えば、明が提案したときも店長が自己紹介したときも店名を言ってなかった。
「店名はねぇ、ないのよ」
…本当に大丈夫かこの店。
「店名がないのがこの店の常なのよ」
いいのかそんなで。まぁ店長がそう言うならいいんだけど。
時計を見ると16時を過ぎていた。結構経ってた。
「…帰る?」
結さんが服の入った袋を抱えながら尋ねた。
「帰ろうか。持つよ」
「…ありがとう」
「ぼくのもー」
「お前は自分で持て」
結さんから袋を受け取り、店長の方を向く。
「ありがとう。また来てね」
「ありがと、店長」
「またねー」
店長は微笑みながらひらひらと手を振ってそう言い、明と結さんがそう返しながら店を出る。俺も手を挙げて店を出た。
帰ってからはミニファッションショーになった。二人の身長は大して違わないので、明の服を結さんが着たりもし、全部が全部似合ってるもんだから、俺もかなり楽しかった。
「そろそろ帰らなきゃ」
終わってから明はピンクのフリルが胸についた服を、結さんはゴスロリ浴衣を着たまま喋っていて、気づいたら18時になっていた。
結さんは時計を見るとそう言って立ち上がる。
「じゃぁ俺も帰るとするかな」
「あぁ伊澄、結ちゃん送ってあげてよ」
俺も立ち上がろうとすると明にそう言われる。別に構いはしないけど、まだ大して暗くも――って、そうか。
「わかった。結さん、着替える?」
「さすがにこれで出歩きはしない。待ってて」
「うん」
結さんが部屋を出て行く。
明が俺に送らせようとした理由は、結さんの病気だろう。真性のナルコレプシー。
「…大変だな」
俺がそう言うと、明は「そうでもない」と手を振った。
「これからは俺もいるんだし、あまり気を張りすぎるなよ」
「頼りにしてるよ。多分結ちゃんには伊澄の方が近くに居られると思うし」
俺は一度頷いて、もう喋らなかった。
明は今まで、どれだけ気を使っていただろう。思えば俺がいないとき以外は常に結さんの隣にいた。いつ眠ってしまっても、倒れて怪我をしたりしないようにするためだろう。
自分を、自分だけを支えにしてくれてた従妹の為に、ずっと気を遣ってきたんだろう。
守ってきた対象を奪うことになるかもしれない。それは明にとって、気持ちのいいものではないだろう。あるいは明が楽になって喜ぶかもしれないけど、それは考えにくい。
「結ちゃんの支えになってあげて」
俺が考えていたことがわかったのか、明は力強くそう言った。
「ぼくは、結ちゃんが幸せになってくれるなら、それでいい」
俺は明の目を、真っ直ぐなその目を見て、頷いた。
お前がそう望むなら、躊躇はしないさ。
4月といえど夜は少し冷える。
「寒くない?」
「大丈夫」
俺は今まで明がそうしてきたように、結さんの隣を、常に気を配って歩いている。
いつ倒れるかわからない。倒れた拍子に怪我をするかもしれないし、最悪死ぬことになりかねない。
明が一人で守ってきた存在――結さんは、少し嬉しそうな表情で口を開く。
「…ありがとう、今日」
冷たい風が俺と結さんの間を駆け抜ける。
なのに、不思議と俺の身体は火照っていた。
「すごく楽しかった。こんなに笑ったの、久しぶり」
「俺も楽しかったよ。ありがとう」
これからはもっと結さんが笑えるといいな、と思う。
結さんは嬉しそうに笑って、前を向いて喋らなくなった。その横顔はまだ少し嬉しそうで、その横顔を俺はずっと見ていたくなった。
「…そうだ、携帯」
ふと思い出したように結さんが立ち止まり、鞄から携帯を取り出す。
「よかったら、教えてくれる?アドレス」
「もちろん」
オレンジ色の結さんの携帯。俺も自分の携帯を取り出す。赤外線で交換し、電話帳に保存する。結さんは携帯の液晶画面を見つめて、嬉しそうな表情をしている。
「ありがと」
携帯をしまって再び歩き出――そうとして。
結さんが、倒れた。
「結さん!」
思わず叫んで抱きかかえる。
いつかそうだったように、結さんはすー、すーと規則的なリズムで呼吸をしている。苦しそうにしているわけでもないし、多分ナルコレプシーだろう。
とりあえず明に電話。
『伊澄?どうしたの?』
電話に出た明は眠そうな声をしていた。結さんも寝てるしなぁ。俺も眠くなりそう。
じゃなくて。
「結さんが倒れた。怪我もしてないし多分ナルコレプシー」
『苦しそうにしてたりとかはしない?』
「してない」
『ならそうなんじゃないかな』
それが一番安心する答え。変な病気で倒れた、っていうよりも、症状が眠ってしまうだけのナルコレプシーだってわかった方が安心はする。
『で、なんでぼくに電話?』
結さんの方はナルコレプシーだろうからとりあえず心配はないとして。
「結さんの家がわからない」
そっちの方が問題だった。このままだと風邪でも引きかねないし。
『現在地は?』
「住宅地入ってすぐ」
『そのまま真っ直ぐ進んで。住宅地の中に公園があるから、公園の2つ隣の三角屋根の家が結ちゃんの家』
「サンキュ」
前を見ると、確かに公園が見える。遠くなくてよかった。
『変なことしちゃダメだよ?』
「しねぇよ」
『あと運ぶときはお姫様だっこで』
「とりあえず死ね」
ピッ。
電話を切ってポケットにしまう。あいつはどこまで馬鹿なんだ?
さて。
「失礼するよ…っと」
眠っている結さんを背負う。お姫様だっこなんて道端でやるもんじゃないし、第一疲れるからやらない。
そのまま結さんの家を目指して歩き出した。
「…ん」
公園もすぐそこ、というところまで来ていた時、結さんが起きた。
「やぁ、おはよ」
「…ん……ん?」
結さんは俺におぶられていることに気づいたのか。
「…ん」
腕を首に回してぎゅっと――って、え?なんか違うよね?
「…結さん?」
「…もうちょっと…」
寝ぼけてるのか、そんなことを言う。思わず吹き出してしまった。
「…結さん?」
「…家まで、このまま…」
自分で歩くのが面倒なんだろうか。
家に着いた。結さんは俺から降り、荷物を受け取る。
「ごめんね。また」
「いいよ、不可抗力なんだから」
「病気のことだけじゃなくて…」
結さんは頬を赤らめて、少し恥ずかしそうにする。
「それもいいって。身体のほうは大丈夫?辛いとかない?」
俺がそう言うと結さんはこくりと頷く。
「よかった。…それじゃ」
「気をつけてね」
「うん」
別れを告げ、俺は自分の家の方に歩いていく。結さんはしばらく見送ってたけど、しばらくして家の中に入ったようだ。
今になって心臓が高鳴ってきた。なんだろう、これは。
人を好きになるって、こういうことなんだろうか。