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目が覚めた。どれくらい寝てたんだろう、もう日が高い。…いや、待て。寝始めたときも日は高くて眩しいから寝にくかったんだ。
4月の半ば。7月生まれの俺にとっては16回目の春。春とはいえまだ肌寒い校舎の屋上に、俺はいた。屋上は本来立ち入り禁止だが、鍵が壊れているからちょっといじれば入れたりする。
時計を確認する。落下防止のフェンスにもたれて寝ていたら、もう昼休憩も残り僅かになっていた。教室に戻ろうと思ったとき、ようやくある事に気づく。
左半身に感じる、温もりと重み。まるで誰かが俺にもたれているような――。
ゆっくり左に向いて、確認してみると。
女の子が、俺にもたれかかって寝ていた。
それはもう、すやすやと。まるで、どころじゃなく普通にもたれて寝てました。
すー、すー、と一定のリズムを刻む寝息が小さく聞こえる。
…なんだろう、この状況は。この子と会った記憶はないし、初対面だと思うんだけど。
とりあえずこの子を起こそう。じき授業も始まるし、放っておいたら風邪でもひきかねない。
女の子の身体を支えながら正面に座り、優しく揺する。もたれられてるときはよくわからなかったけど、この子、どこか人形っぽい。顔立ちが整っているからだろうか。
黒い髪は肩の辺りで左右に分けて黒いリボンで結んであった。肩幅は狭く、小柄でか細い印象を受ける。つけている校章の色が俺と一緒だったから、同い年みたいだ。
しばらく揺すってるとおさげの女の子はゆっくりと目をあけて、俺を音が聞こえそうなほど凝視する。
「…………」
ジロジロ。
「…………」
じー。
「…………」
目が合った。
「…………」
「…………」
見つめ合ったまましばらく時間が止まったかのようにお互いに静止する。…どうしよう、この状況。
俺がどうしようかと脳内であれこれ考えていると、女の子は小さい声で問うた。
「…どちら様…?」
「え…?あぁ、鈴木 伊澄。よろしくね」
いきなりの問いに戸惑いつつ俺が笑顔を作って答えると、その子は無表情のまま小さな声で、
「……ごめんなさい」
とだけ言って立ち去ってしまった。なんだったんだろう、あの子は。
呆気にとられてぼーっとしていると予鈴が鳴ってしまった。ヤバい、そろそろ行かないと。
立ち上がろうとすると、チャリン、と何かが落ちた音が聞こえた。足元に目をやると、不思議な形状をしたカギが落ちている。
「…なんだ、これ」
鍵は普通の鍵のように溝があるのではなく、鍵の先端についた薄い直方体に「*」のような形の隙間が2つ並んで作られていた。確かこれ、ウォード錠じゃなかったっけ。十八世紀ごろまでヨーロッパじゃ主流だった鍵だと思うんだけど。
あの子が落としたんだろうか。だとしたら、届けてあげないといけないよな。
俺はウォード錠をズボンの右のポケットにしまい、屋上を後にした。
「へー。で、その女の子捜してるんだ」
翌日の昼休み、また屋上にて。昨日の子がいないかと思って来てみたが、残念ながらいなかった。
友人がついてきたので昼食取りながら事情を話したら、友人はそう確認してきた。
隣に座ってパンをほおばる友人は長い綺麗な髪の、女の子――ではなく男の子。
村谷 明という名前のこの男子は、見た目は完全に女の子で、制服も女子用なもんだから、初対面の人間は間違いなく性別を誤認する。ちなみに私服も女物で、スカートとかブーツとか普通にはくので私服でも誤認する(ついでに言うと去年の水着はフリルたっぷりの女物だった)。小柄で細い上、声は地で高い、瞳は大きい、まつ毛は長い、と男女共に「かわいい」と人気のある生徒である。
なんでそんなのが俺の友人かというと、昔は同じ保育園に通っていて、当時から仲がよかったためだ。小、中学校では離れてしまったが、去年この高校で再会して以来、こうしてよく一緒に昼食をとったりしている。昔は明は俺より背が高く髪も短かったから再会したときは驚いたけど。いつからこうなってたかは解らない。
「で、伊澄が探してる女の子ってどんな子?」
明は座っていても俺に比べてかなり目線の高さが低いので自然と上目遣いになるのだが、たまにドキっとしてしまう。男だとわかっててもかわいいとは俺も思うし。でもできればやめて欲しい。俺にそういう趣味はないんだから。
「明と同じくらいの身長で黒髪でおさげ。顔はかなり綺麗だったけど声も小さくて暗そうな子だった」
「ふぅん?」
俺の挙げたおさげの女の子の特徴を聞くと、明は人差し指を顎に当て、思考するようなポーズを取る。
「…思い当たる?」
「うん、思い当たる。黒いリボンで髪結んでる子だよね?」
「知ってるのか?」
「うん、結ちゃんだと思うんだけど」
早速手がかりゲット。は、いいんだけど。
「なんかお前あの子と親しそうだな」
そう言うと明は俺のワッフルに伸ばした手を止めてにこっと微笑み、こう言った。
「ヤキモチ?」
違います。
「ぼくに対するヤキモチ?それとも結ちゃんに対するヤキモチ?」
どちらも違います。
「ふふ…結ちゃんなら多分保健室にいるよ。今日は来てたと思うし」
明はしばらくクスクスと笑っていたが、笑顔はそのままでそう言った。早く言いなさい。
「行くの?」
俺が立ち上がるとワッフルの袋を手に嬉しそうにしていた明が問うた。
「行くけど?」
「ぼくも行くからワッフル食べるまで待ってー」
それ俺のなんだけど。
明はワッフルをさっさと食べて立ち上がり、「さぁ行かん!保健室へ!」とか叫んでる。なんでお前のテンションが高いんだ。
というわけで明と一緒に保健室に到着。
「失礼しまーす」
明が言いながら保健室に入る。俺も続いて入ると、ソファに昨日のおさげの女の子――結さん?を見つけた。
「やっほー結ちゃん」
「こんにちは、明くん」
明がソファのところまで行って挨拶をすると、結さんも挨拶を返す。
「調子はどう?」
「今は普通。明くんは?」
「ぼくもふつー。お揃いお揃いー」
二人は俺そっちのけで会話をしてる。…おぃ〜い、明くんや〜い。
「そういえば明くん、私に何か用?」
「ぁ、そうだった」
結さんに言われてようやく用件を思い出した明がこっちに来る。
「探してたのは結ちゃんで合ってた?」
「合ってた。お前俺のこと完全に忘れてたろ」
「あはは、まっさかー」
笑顔が憎い。
結さんは今ようやく俺のことに気づいたらしく少し驚いたような表情をしている。
俺は軽く手を挙げ挨拶。結さんも会釈して返してくれた。
「……ふむふむ」
「…なんだよ気持ち悪ぃ」
明がにやにやしながら俺と結さんを交互に見る。その顔やめろ、なんか腹立つ。
「いや?なんでもないですヨ?」
明はうざったい言い方でそう言ったあと結さんの方へ戻って行く。
「用があるのはこの伊澄なんだ」
結さんの背後に回りぐいぐいと背中を押す。結さんは困惑した表情(だと思う。ほとんど表情に変化がないからわかりにくい)をしつつ俺の前まで押し出される。
「えっと……」
俺が言葉に迷っていると、結さんは催促するでもなく待ってくれていた。
どうして俺は今、迷って……というか緊張してるんだろう。女の子と話す機会はあんまりないけど今まで緊張したこととかなかった筈なのに、今は違う。
「昨日さ、屋上にいた…よね?」
たっぷり十数秒悩んだ挙げ句出た言葉は、確認だった。
結さんはこくりと頷く。どことなく恥ずかしそうな表情をしているように見えたのは錯覚だろうか。そりゃ初対面の男子に寄り掛かって寝ちゃってたら恥ずかしく思いもする……かもしれないけどさ。
「あの後さ、これが落ちてたんだけど」
そう言いつつポケットから昨日のウォード錠を取り出して見せた。
「これ、キミのだよね?」
屋上は立ち入り禁止だから、俺みたいに変な人しか入ってこない(って言ったら結さんに失礼だけど。けどあんなところに来る人なんて滅多にいない)。だから結さんのだと思うんだけど。
結さんはしばらく鍵を見つめていた。昨日、俺にそうしたように、穴が開くほど凝視。癖なんだろうか。
なんとなくかわいく思えた。
「…それ」
しばらく凝視して、鍵から目線を俺に向けた結さんが口を開く。
「私のじゃ、ない」
………へ?
結さんのじゃ、ない?
「…ほんとに?」
俺が確認を取ると、結さんはまたこくりと頷く。
……じゃあ誰のなんだ?
「他に屋上に行く人とかいないの?」
明が問う。俺も結さんも同時に横に振った。
「そっかー」
「他に心当たりなんて…って!」
ふとさっきから立ち入り禁止の屋上にいたとか思い切り言っていたことに気付く。辺りを見回すが、保健室の中には俺たちしかいなかい。よかった。
胸を撫で下ろすと、明にくすくすと笑われた。
「伊澄、遅い」
ごめんなさいね!気付くの遅くてね!
しかし、困った。この鍵をどうしようか。
持ち主に届けてあげられるならそれが一番いいんだけど…。
「結ちゃん?」
明が結さんにかけた声で思考に集中していた意識が現実に引き戻された。
結さんは黙って鍵を再び凝視している。
「どうしたの?」
俺が問うても結さんは黙ったまま。
「………………」
……なんだろう、俺はどうしたらいいんだろう。
「もしもーし」
明が結さんに呼び掛ける。けれど、結さんはまったく反応しない。
俺と明は目で会話。
(どうしたんだ?)
(さぁ、わかんない)
(どうする?)
(さぁ、わかんない)
無理でもわかれ、明。
「わかんないもんはわかんないよ、伊澄」
うお、伝わった。奇跡か。
「その鍵!」
「ぬぉゎっ」
俺が明と起こした奇跡に驚いていると、いきなりそれまで鍵を凝視していた結さんがガバっと俺の方を向いて声を出した。びっくりして変な声が出た…。
「その鍵、伊澄くんが持ってて」
結さんは真っ直ぐ俺の方を向きながらそう言った。
「え、なんで?」
俺が問うと、結さんは少し困惑したような表情になる。
「…わからない。けど」
言いながら、また真っ直ぐ俺の目を見て。
「これは、伊澄くんが持ってるべきだと思う」
そう、言った。
「ぇ、あ、うん、わかった。持ってるよ」
最初に会った時と同じ人とは思えないくらいの勢いに気圧された俺は、戸惑いながらもそう返事をした。せざるを得なかったといえばそうなんだけど。
「よかった…」
結さんは安心したように顔を綻ばす。
……かわいい。この子、笑ったら、きっと向日葵みたいに明るいんだろうな。
そう思ったら予鈴が鳴った。俺はウォード錠をなくさないように制服のチャック付きの内ポケットにしまった。
「やば、行かないと」
「次なんだっけ?」
「えーっと、現代文。早く――っと」
俺は急いで教室に戻ろうとドアの方を向いて――結さんの方に向きなおした。
「あのさ」
俺は結さんに呼び掛ける。もう背を向けていた結さんは、身体を半分ひねってこっちを向いた。
「よかったら名前、教えてくれない?」
結、という名前は明から聞いたけど直接、名前を聞きたかった。なんとなくではあったけど。
けれど、俺がそう言うと。
結さんは、一瞬だけ。
今にも崩れてしまいそうな、哀しそうな表情をした。
ふい、と背中を向けられてしまう。……なんか、まずいこと言った気がする。
「杵島、結」
結さんは素っ気なくそのまま答える。
「さっき俺のこと、名前で呼んでくれたよね。俺も、結さんって呼んでも、いい?」
なんでかわからないけど、「杵島さん」より「結さん」の方がしっくりくる。まるで、昔からそう呼んでたみたいに。
結さんは顔だけこっちを向いて、こくりと頷いた。その顔がどことなく嬉しそうに見えたから、安心した。
「じゃあね、結ちゃん」
明が結さんにそう言って保健室を出る。俺も後に続きながら。
「また、来てもいい?」
そう尋ねた。
「…待ってる」
結さんは振り向きもせずに答える。けれど、素直な気持ちなんだろうと思った。
「それじゃ」
俺は最後にそれだけ言って、保健室をあとにした。
「ところで明」
教室に戻る途中、急いで歩きながら明に問う。
「お前と結さんってどういう関係なんだ?」
「あぁ、イトコだよ。ちなみにぼくのほうが誕生日早い」
ああ、従兄妹か。
「…伊澄」
足を止めて明が言った。睨みつけるような表情で、静かに。
「…何さ」
俺も歩くのを止め、立ち止まって明と向き合う。
結さんと明が従兄妹、というのが納得できた。押しが強いというか、気迫が…。
「…なんでもない。行こ」
再び歩きながら明が言う。俺は明が何を言いたかったのかわからずに、その場に立ち止まって明の背中を眺めていた。
なんていうか、ほんとに従兄妹だな。
よくわからん。