あまりにも穏やかな違和感
朝になって、ジャンゴは自然と目が覚めた。
時刻は7時。いつもなら、口うるさいトニーに叩き起され、もう少し早い時間に起きるので、今日の起床はやや遅めだった。
尾を引くような眠気はなく、スッキリとした覚醒で、幾分か気分もいい。
毎日、こんな風に起きられればいいのだが。
ジャンゴは、年々やかましくなっていくトニーに若干の鬱陶しさを感じながらも、あれはあれでいなくなると寂しくなるものだから、となんとなく感傷じみたことを思ってしまった。
やれやれ。腐れ縁とは厄介なものだ。
ジャンゴは薄く笑いながら、ゆっくりと体を起こした。
「おはよ」
「……」
なぜか、にこにこと無邪気な笑顔を浮かべたベルが、ジャンゴのベッドにだらりと突っ伏していた。
「まさか、ずっと見てたのか」
「ずっとじゃないよ。私もさっき起きたところだから。二十分、三十分ぐらいかな」
「じゅうぶん長いじゃないか……おれの寝顔なんか見て、楽しいか?」
「うん。たのしい」
「えへへ」と、イタズラっぽく笑うベルの頭をくしゃくしゃ撫でて、ジャンゴはベッドから離れた。
猫みたいなやつだ。
昔から気まぐれで、気分屋で、突拍子もない行動をよくするのがこの少女だ。
ベルナデット・スターウッド。ジャンゴとトニーはベルと呼んで可愛がっている。
十年前、ひょんなことから彼女の面倒を見るようになり、すっかり家族同然の暮らしを続けている。
当初はとある境遇からあまり感情が豊かでなく、塞ぎ込んでいたが、今ではすっかり見違えるほど明るくなり、よく笑い、よくイタズラをしたりして、元々男ふたりだったこの事務所の今やマスコット的存在になっている。
「ねー、牛乳どれぐらいかける?」
「たくさんだ」
「ざばー?」
「そう、ざばー」
「ざばー!」と掛け声をだしながら、言われた通りにベルは皿に盛ったコーンフレークに牛乳を投下する。
なにをしても楽しそうにするベルの様子に思わず笑みを零しながら、ジャンゴは窓に置いた観葉植物にシュッシュと霧吹きで水をかける。
「マメだね」
「おれの数少ない友達だからな。毎日やらないと、へそを曲げる」
「へー。こんど私も水あげてもいい?」
「ああもちろん。大切にしてやってくれ」
「うん。その子、名前とかある?」
「リーちゃん」
「今適当に考えたでしょ」
「鋭いな、ミス・マープル」
「えへん。でも私そんな歳じゃないよ」
ジャンゴはテーブルにつき、「いただきます」「いただきまーす」ベルと共に質素な朝食を食べ始める。
ふたりとも料理が出来ないので、トニーがいなければ自然とこういった食事になってしまう。
ジャンゴはジャンクフードが好きで食にはさしてこだわりがないからいいものの、ベルは成長期であるし、もっといい物を食べてもいいのだろうが、彼女はなにを食べても不満は言わないし、美味しそうに食べる。
「そういや、今日学校はいいのか?」
「え、今日土曜日だから休みの日だよ」
「あぁ、そうだったか。……部活とか、サークル活動とかはしないのか」
「めんどくさいし」
「言うと思った」
「あはは」
食事を終えれば、食器を洗い、片付けて(さすがのジャンゴもそれぐらいはする)だらりとソファに深く腰掛ける。
それからマールボロを一本取って、食後の一服をする。
そんなジャンゴの隣に、小説本を持ったベルがくっついてきた。
彼女はジャンゴの真似をするように、棒付きキャンディを口にくわえて、にひひと悪戯っぽく笑いタバコを吸うフリをしてみせた。
「タバコ吸ってるんだから近づかない方がいいぞ」
「やーだ」
「体に悪い」
「ならやめればいいじゃん」
「それがなかなかどうして難しいもんだ」
「私も難しいから。ジャンゴと離れるの」
「ふぅん、そんなもんかね」
「そんなもんそんなもん」
「なら仕方ないか」
ジャンゴはそれ以上言うのをやめ、ベルはうりうりとさらに距離を詰めてきた。密着し、リラックスした態勢で本を読み始める。
この歳になっても、ベルはどうにも甘え癖が抜けないらしい。
甘やかしすぎたか……そうは思っても、今更厳しくも言えなし、そんな柄でもないので、ベルの好きなようにさせる。
トニーの方はそんなベルの様子を見咎めて、いい加減自立するようにとよく注意してるが、あまり効果はない。
別に、トニーのことが嫌いだとか、言うことを聞かないわけでもないのだが……どうもなつき具合の違いのようだ。
まぁ、不憫だな、とジャンゴは他人事にしか思っていないが。
「それ、なに読んでるんだ。またラノベか? 前貸してくれたやつはなかなか面白かったな」
「ホント? でも今ラノベはちょっと飽きちゃったんだよねー。昔は面白かったんだけど。あ、つまらないって言ってるわけじゃないよ。好きな作品もいっぱいあるし」
「ふーん? 昔は本に影響されて異世界によく行きたいとか言ってたじゃないか」
「うーん、そうなんだけど。異世界に行ったら問題があるって気づいたんだよね」
「ほう、どんな?」
「好きな映画が見られなくなっちゃうじゃん。映画のないファンタジー世界なんてやだなーって。それに、異世界にはビートルズもディランもローリング・ストーンズもクイーンもいないんだよ。私なら耐えられない」
「なるほど。一理ある。おれもメタリカのない世界はイヤだね」
「でしょー」
ジャンゴはタバコを灰皿にぐりぐりおしつけてもみ消す。そこで、なにか閃いたようにジャンゴは膝をぽんと叩いた。
「だが、こう考えてみようベル」
「なに?」
「おまえはデヴィッド・ボウイが死んだと思うか?」
「んーと、ボウイってトニーが好きなロックミュージシャンだよね」
「あぁそうだ。彼はおまえが生まれた頃にはもうこの世にいなかった……いやそもそも彼が活躍してたのは本当にずっと前で、トニーの生まれた頃にもボウイは……まぁとにかく。おまえにはあんまりピンと来ないかもしれないんだが、話を続けても大丈夫か?」
「大丈夫。私もそれなりにボウイの曲は聞いたことあるから。続けていいよ」
「よし。ボウイは火星から来た偉大な男だ。宇宙人だ。トニーもおれもそう信じてやまない。だから、彼は死んだとは思えない。絶対に」
「うん」
「そんなボウイなら、死んだと見せかけて、実は異世界に行ってるかもしれない。彼はその昔ベルリンにロックで希望をもたらしたこともあるヒーローだった。それと同じように、異世界に行って……ロックの時代と伝説を作り上げているかもしれないだろ」
「異世界には、ロックがある?」
ジャンゴはうんうん頷いて肯定する。
その話を聞くベルは、非常に目を輝かせていた。
「夢のある話だね。でも確かにありそう。それなら、異世界もいいかも」
「ボウイに会ったら、サインを頼む。ジギー・スターダストの名義で」
「アラジンセインじゃだめ?」
「うーん、それは任せる。……で、話は逸れたが、なに読んでるんだ?」
ベルは本の表紙をジャンゴに見せつけた。
表紙には、西部劇に出てきそうなウエスタンスタイルの男が描かれており、その男の手に持つリボルバー拳銃に、ジャンゴはどことなく惹き付けられた。
「スティーブン・キングの「ダークタワー」。ちなみに二巻だよ」
「あー……キングってシャイニングの?」
「そう、ITの」
「どんな内容なんだ?」
「異世界もの」
「……やっぱり好きなんじゃないか異世界」
「ラノベに飽きたって言っただけで異世界ものに飽きたなんて言ってないよ」
「む」
「ふふっ」
くすくす笑われて、ジャンゴは思わず難しい顔をした。
ベルは、まるで教師のように得意げに本の内容を説明し始める。
「主人公はアーサー王の子孫のローランド。彼は世界のバランスを保ってる〈暗黒の塔〉を壊そうとするヴィラン……〈黒衣の男〉を追ってるの。そのローランドはすごく強いガンスリンガーで……そう、ジャンゴみたいな人だよ」
「……おれみたいな、ガンスリンガー、ね」
「ジャンゴとどっちが強いかな。私としては、ジャンゴに勝って欲しいな。ローランドもミステリアスで魅力的だけど……やっぱり、ジャンゴの方がかっこいいもん。あのとき、私を助けてくれたジャンゴには、今でも憧れてるんだ。だから──」
「やめろ」
ぴしゃりと、ジャンゴは突き放すように冷たく言った。
突然のことに驚いて、ベルはぱちくりと目を瞬かせた。
それから、失言だったと感じて、彼女は顔を俯かせた。
ジャンゴの方も、しまったと思い、眉間を押えた。
「……ごめん」
「いや……おれの方こそ、悪かった。つい、強い口調で言っちまった」
「うん」
「……おれは、もうやめたんだ。わかってくれ」
ジャンゴはどこか遠くを見つめるような虚ろな目付きになった。「……おれはもう、やめたんだよ」彼は自分自身に言い聞かせるように繰り返した。
「……えっとね、その、ジャンゴ」
「すまん。もう、大丈夫だ。気を悪くさせたな。よかったら、そのダークタワーの一巻貸してくれるか?」
「あ、うん、良いけど。でも今一巻はトニーが読んでるから」
「なんだ、そうなのか」
「うん、ごめんね」
「いいさ、時間だけは無駄にあるし、待つのには慣れてる。ちなみに、ベルは今どこまで読んだんだ?」
先程までのジャンゴの虚ろな表情はとうに消え失せ、もういつも通りのジャンゴに戻っていた。
ベルも気を取り直して、普段の明るい少女に戻る。
「今はね、うん、ローランドの右手と左足の指が化け物ロブスターにちぎられちゃったところ」
「……」
「で、今は熱病ですっごい苦しんでる」
「強いんじゃなかったのか、ガンスリンガー」
「そういうときもあるよ」
「まぁ、そうか。おれもそういうときもあるからな。で、ちぎられた指は生えるのか?」
ベルはジャンゴの問いに肩を竦めた。「わかんない」そう言って、再び小説に目を落とした。
「生えるかなぁ……でも、生えたら教えるね」
「うむ」
ジャンゴは新しいタバコを手に取って、火をつけた。
紫煙を燻らせながら、横目でちらりとベルのことを盗み見る。彼女の、本当に穏やかな表情を。
……そうだ。おれはもう、やめたんだ。
もうかつての自分には戻らない。今の自分には、他にすることがある。
銃を持つ理由はない。意味もない。今となっては、そんなことをする必要はなくなったのだから。
そう。だから、これでいい。
ずっとこのまま、静かに……平穏に。
おれは、ひとりの人間として、生き続けることを選んだのだ。
そう、思っているのに。そう、決めているのに。
時折感じずにはいられない、この心にぽっかりと穴の空いたような感覚は、なんなのだろう。どうして、いつまで経っても心は晴れないのだろう。
なにが不満なんだ?
教えてくれ。答えてくれ。
いったい、なにが──。
「ジョン……」
堂々巡りの思考を巡らせていたそのとき、トニーがようやく事務所に帰ってきた。
「おう、おかえり。遅かったな」
「トニー、ご飯食べちゃったよー?」
ジャンゴとベルが顔を上げてもトニーの方を見ると、彼はひどく憔悴しきった顔をしていた。
そしてそれだけでなく、彼の後ろには……ひとりの女性がいた。なにがあったのか、血塗れの女性が。
「……おまえは」
ジャンゴは彼女の姿、その顔を見て、雷が直撃したかと錯覚するほどの衝撃に見舞われた。体に電流が駆け巡り、彼の体を金縛りにあったように硬直させた。
当の困惑したような表情をしている謎の女性は、ひどく落ち着かない様子で辺りにきょろきょろと視線を送っている。その様子は、田舎から都会にやってきたお上りさんのようだった。
ふと、女性の視線がジャンゴの方に向いた。しかし、彼女はジャンゴと違い、目が合っても特に驚いた様子や動揺した様子も見られない。こちらを見る目も、見ず知らずの他人を見るようなものだ。
(……いや、やはり違う。そもそも、そんなはずはない。有り得ないんだ……)
そうだ。他人の空似だ。確かに、びっくりするほどよく似ているが……よく見れば違う。彼女ではない。
ジャンゴは動揺を悟られまいとしつつ、とりあえず思ったことを口にした。
「……朝帰りでしかもお持ち帰りか? 年甲斐もなく元気だな」
「なわけあるか! ……ったく、ひどい目に遭った。結局散々逃げ回ってどっと疲れたよ、ホント。死ぬかと思った……あぁ、くそ、ホントに、もう……」
「……大丈夫か? 顔が青いぞ」
「お、おう……いや、大丈夫だ。大丈夫……ぅあ」
「あ?」
──限界が来た。
酔いも覚めぬまま、ひと騒動に巻き込まれ、生きた心地のしない銃撃戦を繰り広げ、なんとか振り切り、ようやく事務所へ辿り着き……。
緊張感が一気に解かれ、弛緩したのがいけなかった。
「おげええええええええ!」
第三のノアの洪水が、事務所を襲った。