黄昏、錆び付いて
「おい、いい加減起きろジョン」
「……」
「酷い顔してるぞ。まるで生ゴミの山から生まれ落ちたみたいだ」
瞼を開くと、目の前には見慣れた老人の顔があった。
だがこの老人、もう齢60に片足を突っ込んでいるに関わらず、シャキッとした姿勢の良さと、しなやかな筋肉は、そこらの若者に劣らない。
彼の名はアントニー・ランダル。通称トニーだ。
「おはよう、ってのはないな、もう夜だ。あーっと……よし。──久しぶりだな。それとも夢ン中で会ってたならそうでもないか?」
「……だれがおまえの夢を見るってんだ」
トニーの老人にしては衰えのないハリのある声が、死んだように眠っていた男を覚醒させた。
彼は少しキリキリと痛む頭を振るようにして、重い身体を起こす。ギシギシと、ボロいソファが悲鳴をあげる。
何十年前から使っていたソファだったか。そろそろ、限界かもしれない。
「今、何日だ」
「何時だ? じゃなくて何日ときたか。こいつはいい。いいか寝坊助。今日はな、4月の7日、金曜日だ。まったく、わしより耄碌してるんじゃないか?」
「……おれは、おまえよりも歳だよ」
「都合が悪くなれば年寄りぶるなよ。あーあー、なんちゅう惨状だ。また酒を潰れるまでかっくらってたんだろ。ちったぁ健康に気を使え」
床に転がったベンチマークの酒瓶をひょいひょいと拾い上げて、トニーは男の情けなさと不摂生を咎める。
男は不貞腐れたようにムスッとして、苛立ちを隠さずに言い返す。
「……説教がうるさい。憂鬱な朝に見る出来損ないのニュースキャスター並にな」
「なんだ、そりゃあ。はぁ、ジョークにもキレがない。こりゃ重症だわな。いまおクスリを処方してやる」
ため息をついて、トニーは仕方なしに床に落ちていたタバコを男に差し出した。
くしゃくしゃのソフトパックから取り出した一本のマールボロを男の口へ突っ込んでやる。
「……火は?」
「そこまで甘えるなよ。この汚ったない部屋の中から探し出すこったな」
「……」
男はやや拗ねたような顔をしてソファから立ち上がると、寝ぼけているのかまだ酔いが残っているのか、ふらふらとアンデッドのようにおぼつかない足取りで部屋を歩き回り、ジッポライターを探す。
「そんな不健康な生活ばかりする暇があるなら、少しは働け。人として生きるなら最低限は」
「余計なお世話だ。それにこの体に健康も不健康もあるものか。そもそも、ここの家主は誰だと思ってる」
「よく言う。誰が稼いでると思ってんだ」
「……金に不自由はしていない」
ジッポライターを散乱したガラクタの山から拾い上げて、男はマールボロに火をつけた。
スーッと香ばしい味わいが口の中に広がり、モヤのかかった思考を一気にクリアーにさせる。
「そういう問題じゃない。教育に悪いんだよ、おまえさんのその有様は」
男の吐き出す煙をうるさそうに払い除けながら、トニーは口うるさく叱りつける。
「教育、ね。あいつはどうした。門限を過ぎているようだが」
男は壁にかかった傾いた時計に視線を寄越す。
時刻は21時30分。
ここのもうひとりの同居人は、もう帰ってきているはずの時間帯だった。
「おい、ジョン。忘れたのか? あの子はハイスクールに入学したんだぞ。それに合わせて門限は伸ばすって話したろ」
「……そうだったか?」
「そうだ。本当に仕方の無いやつだな、おまえさんは」
呆れ顔をされ、男はバツが悪そうに頭をかいた。
「いいかジョナサン。少しはな、あの子がもっとしっかりした大人になれるように努力してみせろ。このままじゃ不良娘になるぞ。いや……もうなってるかもしれんが……これ以上悪化させたかない。第一、彼女がどれだけおまえに懐いてると思ってる?気づけばおまえの後ろを追いかけてるような純粋な子だ。反抗期さえなかった。大人しくて……ちょっとふわふわして危なかっしいが……とにかく、おまえがそんなんじゃ、いつかろくな事にならなくなるぞ。あと、いい加減にタバコも……」
「あぁ、わかった、わかったから」
ウンザリしたような顔で、男は小言を軽くあしらう。
ふん、とトニーは鼻を鳴らしつつ、空になったソフトパックをゴミ箱へ放り投げた。
「門限が伸びたのはわかったが。それでも帰りが遅くないか?あいつはいつも学校が終われば帰ってきていたし、出かけるにしても門限のギリギリを攻めるようなことはしなかった。妙だな」
「そういうところでは過保護だな。あの子だって高校生になったんだ。友達と遊んで遅くなるぐらいはあるだろ」
「こんなこと言っちゃなんだが、あいつに友達ができるのか?」
「……」
男の言い返しに、トニーは黙った。
「友達、作れたことあったか、あいつが」
「……いや、いやいや、わからんだろう。高校に上がれば流石に……ううん」
「はぁ。仕方ない。おれが迎えに行ってくる。どこにいるかはわからんが、とりあえず探すさ」
「ま、まあ待てよ。いつまでも箱入り娘って訳じゃないんだから。ほら、もしかしたら彼氏ができたとか。あいつは美人だから、言い寄る男のひとりやふたりくらいいるかもだ」
「彼氏ね、彼氏。そりゃあ結構。そのカレシとか言う何処の馬の骨ともしれない悪い男に唆されて、まかり間違ってこんどは豚箱入りってわけか」
寝起きのタバコが効いたのか、ジョークのキレがよくなったようだった。
言い負かされて、トニーはすっかり萎縮する。
男は床に転がって吸殻と灰をぶちまけていた灰皿をひっくり返してタバコをもみ消す。
それから男は気だるげにしながらスーツに着替えると、白コートを羽織って出かける準備を整えた。
「行くのか?」
「ああおれが行くよ。少しでも動かないとおまえはどやすだろ。穀潰しとしてお払い箱にされたら溜まったもんじゃない」
「……自覚はあるんだな」
「ふん。おまえさんも来るか?」
「いや、これから仕事だ。今日は急な注文が入ったんだ。これから客のとこに行かにゃならん」
トニーは非常に優れた腕前のガンスミスであり、彼の手がける銃はどれも至高の傑作として評価が高く、人気がある。
看板は出していないものの、知る人ぞ知る名手として彼の噂は銃器の愛好家などの間で有名であり、彼の依頼制の店は常に繁盛している。
特にリボルバー……その中においても今の時代に取り扱う者などまずいないであろう古式銃に関しては別格であり、その分野において彼以上のガンスミスはいないだろう。
「ああそうかい。なら稼ぎは頼むぞ我が家のドル箱サマ」
「……口が達者だよ、ホント。で、迎えに行くのはいいがね、目処はあるか?」
「ない。適当に探せば見つかるだろ」
「心配してるのかしてないのか……そんなら、電話ぐらいかけたらいいだろ。本人にどこにいるのか聞くのが手っ取り早いし無駄がない」
「ほれ」、とトニーは机に雑然と置かれていた男の携帯端末を手渡した。それは少し前にプレゼントという体で彼へあてがわれた、最新機種の端末だった。
男は複雑な顔をしながらそれを受け取ると、難しい表情になりながらたぷたぷとタッチパネルを触る。
それからしばらく液晶画面と睨めっこした後、男はため息をついて携帯端末を老人に押し付けた。
「……携帯の使い方がわからん」
「あのなぁ。この機械オンチめが。いつになったらアナクロを卒業できるんだ」
「言ったろ、おれはおまえより年寄りなんだ」
「そういう問題じゃないだろこれは。イマドキはな、ヨボヨボの爺さん婆さんだってそれなりの携帯端末を持ち歩いて使いこなしてるんだぞ」
「おれはジジババ以下?」
「うんそう」
ぐぬぬ、と顔に書いてそうな悔しそうな表情になって、男はトニーから携帯端末をひったくるように再度携帯端末を手に取った。
すると、ちょうど着信音が携帯端末から鳴り響く。
着信の相手は、今話題にしていた箱入り娘からのものだった。
「で、どうやって出る?」
「ほら、通話の方をタップするだけだから」
「こうか?」
ぽん、と通話のボタンをやや重くタップする。
そしてトニーに促されて、携帯端末を耳元へ運ぶ。
「ハロー、ハロー」
男は電話に応じ、通話相手と会話を始める。
だが、どうにも様子が変だった。
しばらく会話をしていたが、話が弾むこともなく、男は表情を硬くするばかりで、むしろ不穏な空気が漂う。
やがて通話を終えると、男ははぁ、とため息を重く吐き出した。
「ジョン。どうかしたか?」
「いや、少しな」
「あの子になにかあったようだが」
「まあな。……おまえの言うように、彼氏からかかってきたよ。最悪の事態だな」
「ん? ……あぁ、なるほど。それは大変だな。で、どうする?」
「決まってるだろ」
男はコートを翻して、事務所の出入口へと向かい、ひとこと告げた。
「教育だ」
──窓から差し込んだ光が、男の顔を妖しく照らす。
空に浮かぶ月……歪な形をした欠けた月が、人を狂わせる月光という名の光線を地上に降り注いでいた。