幽霊と殺し屋
世の中には表の職業と、裏の仕事が、ある。俺はそれを選んだだけ。ガキの頃からの運命って、やつさ。
この世の悲しさも恨みも、俺が、殺してやるよ。
さび付いたドアのカギがようやく開いた。
部屋の中から、湿ってこもった空気が解放された。
「まあ、こんなもんか」
俺は大きなスーツケースを玄関から部屋の中央へと運んだ。
「さて、今日からここが、俺の家、か」
曇りガラスの向こうに、けばけばしい滲んだネオンがうつっている。
最低だな。
俺はそうつぶやき、部屋の隅に座った。
繁華街のはずれ。駅は近い。密集した建物のあいだに、ポツンと小さな公園。その裏手に面した、陽当たりの悪い古いマンション。築五十年以上経っていると思われる外観は、ほとんど修繕した形跡もなく半ば朽ちている。
これでも都心から近く、住むだけなら申し分ない。普通なら家賃は十五万というところか。
俺はここを敷金礼金なしの、家賃三万円で借りた。もちろん保証人もなし。それにはわけがある。
俺は殺し屋なのだ。
ガキのころ、俺は目覚めた。天職だと思った。俺がそういう人間だったと。情け容赦なく、殺す。それが俺の使命であり、人生のすべてだと。それはあらゆる感情をも凌駕した。愛、さえも。
片膝を抱え、うとうとするうちに、冷たい空気が頬に当たるのを感じた。
心配ない。先週の殺しは完璧だったはずだ。まして追手などあるはずもない。俺はすべてにおいて、完璧な殺し屋、なのだ。
「あの」
声がクローゼットから聞こえた?
聞こえた、というよりそういう音がした、というレベルだ。
「あの」
こんどはちゃんと聞こえた。声だ。
声にはそいつの情報が詰まっている。そいつの声で、何を考え、次にどんな行動をとるか、わからなくてはならない。無言のヤツにも心の言葉がある。そういうのを読み切らなければ、殺し屋としてはやっていけない。
これは、人の発した言葉ではない。いや、生体的な発声器官を伴った音声信号、ではないという意味で。
これは人の声ではない。幽霊の声だ。
「あの」
まだ声をかけてくるのは、よほど現世に、いや、人に、執着があるのだろう。
クローゼットに目をやると、戸口によわよわしい白く細い手指がかかっているのが見える。何かがいる。
部屋の真ん中に置いたスーツケースをちょっと見た俺は、まだそれを出すのが早いと、経験から判断した。経験からの判断。俺たちのような殺し屋家業の者たちにとって、この経験ほど、貴重な、そして得難いものはないのだ。
俺は胸の内ポケットをまさぐって、安物の紙巻きタバコを取り出し、火をつけた。
ふうっ。
吐いた煙が、曇りガラスのネオンに反応して、真珠のような色めきに見えた。
「出てきても、かまわない。俺はべつに怖くないからな」
クローゼットの中の何かは、少し揺れて、やがて消えた。あの細い指も手も、消えていた。
次の晩も、同じように現れて、消えた。
ずっとこれが続くのだったらかんべんしてほしいな、と俺は思った。
変化があったのは次の日だった。菓子パンで夕食をすませた俺が、寝ようと粗末な毛布にくるまったときだった。
「あの」
「なんだよ、何か用か?」
俺はそのか細い声に返事をした。
「あの、わたしが、見えるんですか」
俺は確信できた。こいつは、幽霊、だと。
「ああ、だから、なんだ」
幽霊に、怖がってはおしまいだ。思うつぼ、だからだ。恐怖こそがあいつらのエネルギーなのだ。だから幽霊は、相手をいかに恐怖に陥れるか、常に知恵を絞っていると言っても過言ではない。
「えと、少し、いいですか?」
妙に下手に出てくる。こういうのは曲者なのだ。急に豹変したりするからだ。
「まあ、時間はある。だが、俺も眠らなければならないから、俺が判断したらそこでやめる。それで、いいか」
これは契約の一種。霊とは必ず約束事、契約をしなければならない。そうしないとあとで祟られたりするのだ。
「はい」
白い手がスッと伸びて、あとから白い着物姿の若そうな女が現れた。
「夜分に、すいません」
この業界、長くやってるが、幽霊にそう言われたのは初めてだった。
「え、まあ、ヒマだしね」
「仕事、忙しそうですが」
「まあ、なかなかね。なんで?」
どこまで俺のことを知っているのかが、まず問題なのだ。
「なにもないから」
「え?」
「テレビも本もマンガも、何もない」
「ああ、興味、ないし」
「誰からも、電話もこない」
外部との連絡は別の手段だからな。
「ひとりなんだ」
「あたしも、でした」
それからポツリ、ポツリと幽霊は自分のことを話し出した。
子供のころから片足が少し悪くてびっこをひくので、それでずっといじめられてきたこと。両親は火事で突然死んだこと。社会に出ても、いじめられてきたこと。彼氏ができて、それがひどい男だったこと。
「そうか。まあ、残念だったな」
「はい」
幽霊に、絶対同情はしてはいけない。引きずり込まれるからだ。
「あの」
「うん?」
「あなた、いい人なんですね」
「そうでもないさ」
「でも、ちゃんと話を聞いてくれる。ほかの人は怖がるだけ」
「仕事だからな」
「え?」
「まあ、幽霊のお前だからぶっちゃけ、話すが、俺は殺し屋だからさ」
「そんなこと、話していいの?」
「おまえがサツにたれこむとは思えないし」
「まあ、相手にしてくれないでしょうしね」
「そうさ」
「そうね」
「ははは」「うふふふ」
幽霊と殺し屋の俺の距離は縮まった。
木枯らしが薄っぺらい壁を通り抜けていく。ガタガタと建付けの悪い窓枠が鳴っているのを、俺はコタツに入りながら聞いていた。コタツなんて、小学生のとき、以来だ。ここら辺までは、まだ楽しい記憶があった。それ以降は思い出したくないことばかりだった。
コタツは俺の趣味じゃない。この幽霊の希望だ。
幽霊は、「翔子」といった。とぶ、こ、と書いて翔子だ。今は本当に飛んでいる。
「幽霊のくせにコタツで温まってていいのかよ」
「とくに決まりはないみたいなの」
「中、寒いんですが」
「しかたないです。ごめんなさい」
まあ、幽霊と暖をとろうという方が間違っている。
彼女には二歳下の弟がいたそうだ。とても仲が良かったそうだ。両親が火事で死んで、後に物凄い借金があったと知らされ、しかもほとんどが他人に騙されたものだということを、かれは受け入れ、絶望し、ある寒い朝、首をつって死んだ。
「コタツがね、あの子の足場になったんだ」
暗く悲しいエピソードも、おぞまし過ぎるとかえって喜劇になる。俺たちは、祥子の弟の恐らく靴下のあったあたりにミカンの皿を置いた。
「あなたの名前は?」
「殺し屋に、名前なんてない」
「生きてるときに会っていたら」
「よせよ。むだだ」
「そうね」
いまも顔色さえそうでなければとても美しい顔が、悲しそうだった。だが、時折見せる笑顔は、俺には眩しいと感じられた。
俺たちは、しばらく奇妙な同棲生活を送った。
翔子は、俺が帰ってくるとクローゼットからあらわれ、コタツで俺がコンビニの弁当を食うのをただ黙ってみている。
「卵焼きとか得意だったんだけどな」
とか言い出したが、自分ですぐ諦めたみたいだ。
夜中にふと目が覚めると、ネオンの滲む窓に、物憂げに寄りかかっている。
「ホタルみたいなのよ、この窓に映るの」
「蛍みたことあんのか?」
「うん、学校の図書室の図鑑で。いっつも図書室に、いたんだよ」
いじめられて、ずっと図書室にいたんだろ。
俺はそろそろ殺し屋として、仕事をしなくてはならない。
べつに嫌だとか、辛いと思ったことはない。それが俺の仕事だからだ。
「おまえはずっと幽霊のままなのか?」
「ううん。だれかがあたしのこと、好きって言ってくれたら、きっと成仏できるんだろうと思う。でも、こんなあたしを、好きって言ってくれる物好きなんていないから」
「そうか」
「だからずっと、幽霊でいるわ」
「じゃあ」
「え?」
スーツケースから鏡を出した。銅でできた神鏡だ。
「おまえは、きれいだったよ。すごく」
幽霊は消えていった。
かすかに、ありがとう、と聞こえた気がしたが、すぐに俺は心の中で打ち消した。
俺は殺し屋。
事故物件専門の、幽霊を祓ういわば殺し屋。ガキの頃からの、天職なのだ。同情も優しさも、まして愛も、ない、殺し屋だ。
絶対に、幽霊を好きになってはいけない。
幽霊さんが、浮かばれない気がして、なんか、すいません。