第一話
数学はさっぱりなので、間違っているところがあったらすみません。
高校時代、数学を料理に喩えた教師がいた。授業が定刻よりも五分ほど早く終わったので、間を持たせるためにそんな話をしたのだと思う。あるいは、数学を親の仇とばかりに嫌っていた私のような学生に、数学の深遠な魅力を伝えようと図らったのかもしれない。
真意のほどは定かでないが、数学という言葉を耳にするたびにあの昼下がりのひと時を思い出すようになったのだ。教師の目論見は成功したと言わざるを得ないだろう。
レシピが公式で、調味料が感性だったか経験だったか、細かなことは覚えていない。具材がないのが気がかりではある。
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肝心なことを書き忘れるところだった。件の数学教師はこの日、もう一つ大切なことを教えてくれた。
極限値という数学用語だ。彼との関係を言い表すのに、これほど適当な言葉があろうとは想像だにしていなかった。シンプルにしてスマート、きょくげんちと口に出した時の音の響きすらも愛おしい。
極限値の美しさを友人に紹介する時、私はいつも文庫本を引き合いに出す。
辞書を手にとってみたまえ、鈍重の極みではないか。一方、我らが文庫本の削ぎ落された肉体美、この美しさが極限値そのものなんだ、と。
おかげで幾人かの友人とは連絡が取れなくなった。小学校以来の幼馴染は、文庫本の対抗馬は単行本であって辞書ではあるまい。比較対象が間違っていると冷静な指摘をくれた。
辞書に恨みがあるわけではない。むしろ、感謝をしている。極限値の意味を探ろうと紐解いたとき、極限の意味がものごとのいきつく、ぎりぎりのところだと教示してくれたのが辞書だったからだ。
繰り返しになるが、極限値は美しいと思う。音の響きはもちろんのこと、言葉そのものすらも。
もっとも概念としての美しさはあずかり知らぬところだ。
敵対する名家の令嬢に恋をした青年に喩えれば、関係が分かりやすくなるかもしれない。彼女の美貌は熟知しているが、家の策謀のせいで人柄や人間性を理解するには至っていないというところだ。
何が言いたいかというと、とどのつまり生来の数学嫌いのせいである。
彼との関係は極限値という言葉で言い表せる。二という数があったとして、その数に限りなく近づくが決して二にはなれない数、私の知識が正しければ、そのような数のことを極限値というそうだ。
極限値が私たちとどのように符合したかを言い表すには、まず彼について語らねばなるまい。彼と初めて出会ったのは遡ること六年も前、ニキビ面の学生だった頃のことである。