7.恋の季節
◇
花畑の真ん中で、白珠は一人で寝そべっていた。
ここ数日というもの、服作りさえもする気になれない。寝ても覚めても倦怠感に支配され、日光や小さな精霊や虫たちに心身を癒してもらうことくらいしか出来なかった。
悩みの原因は、愛する瑠璃との関係だった。
小鳥の瑪瑙に強引に迫られたあの夜から、二人の関係には変化が訪れていた。
あの日からずっと瑠璃は苛立ち気味に過ごしている。朝は早くに出かけ、夜は遅くに帰ってくる。朝食も夕食も、白珠が夢うつつという状態で、ひとりで勝手に済ませている。愛情を感じることなく蜜は奪われ、触れられた記憶すらも曖昧なことが多々あった。
たとえ寝惚けていたとしても起きられればまだいい。しかし、瑠璃はむしろ白珠が起きないように気をつけながら食事をとっているらしい。その意図が白珠には分からず、余計に寂しかったのだ。
――どうしてなのかしら。
理由を訊ねる暇さえ与えられず、白珠はただただ落ち込んでいた。
服の素材はいつの間にか置かれているけれど、こんな気持ちで服作りなんて出来ない。いくら作っても、瑠璃が褒めてくれないのなら意味がない。
けれど、瑠璃の健康を支えることがせめてもの愛情表現だ。そう思って、白珠は傷ついた心身を慰めながら、今日も蜜を回復させていた。
――月の女神さま、太陽の女神さま、どうかわたしをお救い下さい。
白珠は祈りながら日光と大地の温もりに縋った。
精霊に生まれ、神々の宿る大地で暮らす限り、何処にいようと孤独ではない。
それが精霊の世界に伝わる教えである。
白珠も母より聞いたその教えを信じ、身近に感じてきた。けれど、一度でも大切な誰かと心を通わす悦びを知ってしまえば、孤独というものは厄介だ。精霊であったとしても、寂しさはなかなか消えないらしい。
大人になって初めて、白珠はその苦しみを知った。
自分が求めているのは名前も知らない小さな精霊たちではない。女神たちの温もりだけでは足りない。瑠璃と前のように話し、愛し合うことこそ心から求めているものなのだ。
それなのに、瑠璃は逃げるように出かけていってしまう。どうしてなのだろう。
理由が分からないまま、白珠は心を蝕まれていった。悪い虫に憑かれたかのように、疲労は取れなかった。どうしたら、瑠璃は向き合ってくれるだろう。そんな事ばかりを考えて、だが、答えは見つからない。それだけで、心はやせ細り、胸のつっかえが取れそうにない。
気づけば白珠はため息ばかり吐いていた。
この孤独の精霊は、いつまで自分と共にいるつもりなのだろう。白珠は寝そべりながら考えた。
――このままでは生きながら枯れ果ててしまいそうだわ。
惨めな思いに駆られながら、白珠は手元に咲く小さな花をそっと撫でた。
丁度その時だった。ふと日差しが遮られた。反射的に天窓を目で捉えた白珠は、そのまま凍り付いてしまった。訪問者がいた。それも、全く望んでいない人物だ。数日前の、全ての元凶ともいえるあの人物が、あの日と同じようにこちらを覗き込んでいたのだ。
「やあ、退屈そうだね」
小鳥の瑪瑙。
すでに白珠もその名前はしっかり覚えていた。
少しも悪びれずに笑う彼を見て、白珠の心が高ぶった。
この度は恐怖よりも怒りの方が強い。瑠璃がああなったのは、瑪瑙のせいだ。そんな結論が白珠の心に火をつけたのだ。
だが、いかに怒りを感じようとも強弱関係が変わるわけではない。せめてもの抵抗に、白珠は目を逸らし、つんとした態度をとった。
「あなたには関係ないでしょう。それに、ここは立ち入り禁止のはずよ」
「違うね。ボクが約束したのは、君に手を出さないってことだけだもの」
バカにするようなその言葉に白珠はますます不快を感じた。瑠璃が嫌っている相手という事情も重なって、白珠にとって瑪瑙はすっかり嫌いな存在となっていた。
勿論、言動だけが理由ではない。その声を聞くこともまた苦手であった。花の精霊を篭絡する美しい声。隙あらば理性を狂わせようとするその魔性はいつだって厄介だ。
もしも、自分が瑠璃の愛を全く知らない孤独な花であったなら、彼の歌声にあっさりと聞き惚れていただろう。そう思えるからこそ、白珠は瑪瑙を遠ざけたかった。
「屁理屈よ、そんなの。瑠璃は許さないわ。今度こそ槍で貫かれても知らないから!」
感情的に言い返す白珠を、瑪瑙は嘲笑う。
「何がおかしいのよ」
「生憎だけど、君のご主人さまの事はちっとも怖くない。だって今の季節の胡蝶たちは大忙しだもの。瑠璃も同じだよ。少なくとも七日ほどは自分の事で精一杯のはず。どうだい、白珠。君だって心当たりがあるんじゃないかな? 最近、ご主人さまが冷たいと感じてはいないかい?」
図星だったため、白珠は黙り込むしかなかった。瑪瑙は目を細める。
「答えずともボクには分かる。だって瑠璃は君を愛しているもの。だからね、今は出来るだけ長く君を遠ざけておきたいと思っているのさ」
――愛している。
その言葉が止めだった。白珠は瑪瑙を見上げた。
彼のことは苦手だ。関わっていいなんて、とても思わない。
それでも、縋ってしまいたくなるような状況に違いなかった。耳を傾けてはいけないという心の声はどんどん萎んでいき、気づけば口が勝手に動いていた。
「……どうしてなの?」
その嘆きに、瑪瑙はすぐさま答えた。
「それが恋の季節というものだからさ」
「恋の季節?」
初めて聞く言葉に、白珠は首を傾げた。
瑠璃からは何も聞いていない。胡蝶という精霊たちの常識は、彼女から聞かなければ知る機会もない。ゆえに、瑠璃が語らないことは白珠にとって全て未知のことであった。
瑪瑙はにこりと笑ってみせた。
「そう。恋の季節。君たち花の精霊は知らないかもしれないけれどね、胡蝶には恋をしなければならない季節がやって来るんだ。ボクたち小鳥も同じようなものだけれど、胡蝶は胡蝶で有名なんだ。綺麗な精霊同士の激しい恋模様は多種族の精霊や、時には人間たちまで関心を寄せるものだから」
「……恋模様」
白珠は察した。恋というもの自体については知っている。いつも自分が瑠璃に対して抱いている憧れもまた恋心によく似ていると知っていた。
それだけに、白珠は胸が苦しくなってしまった。
「つまり、瑠璃は卵を産もうとしているの?」
その仕組みについては、白珠も知っていた。好奇心旺盛な兄姉が昔、言いふらしていたのを聞いたためだ。
たまたま愛を交わす大人の胡蝶たちを見つけ、その美しさに見惚れたのだとか得意げに言っていたのだ。勇気ある兄が彼らに何をしていたのかと問うと、胡蝶の女が卵を産むための準備をしていたのだと答えたのだとか。
その時の話を鮮明に思い出したため、実際に見たことはなくとも、何をしようとしているのか白珠は分かってしまった。
途端、どういうわけか心の片隅がとても痛くなった。
「さすがに君も胡蝶の産卵は知っているんだね。その通りだよ」
瑪瑙の答えに、違ってほしいという気持ちも、すぐに打ち砕かれた。
白珠は今までで一番大きなため息をついてそのまま寝そべった。
ここで嫉妬しても仕方がない。白珠は自分に言い聞かせた。血を残すということは、自然の掟でもある。逆らえないその本能に張り合おうだなんて無謀もいいところだ。
だから、白珠は複雑なその葛藤を必死に抑え、残された疑問のみを口にした。
「どうして、恋の季節だとわたしを遠ざけなくてはいけないの?」
この孤独の原因。素っ気ない理由。せめてその断片だけでも知りたかったのだ。
「それはね、君を守るためさ」
瑪瑙の答えは意外なものだった。
「恋の季節を終える頃、胡蝶の女性は卵を産まなくてはいけない。だから、この時期の胡蝶の女性たちはいつもに増してお腹が空くんだってさ。この時期、胡蝶の女性に囚われた花は可哀想な目に遭う事も多い。胡蝶の中には、食欲が理性を超えてしまって、愛しい花を食い殺してしまう人もいるからね」
胡蝶の恐ろしさ。それは白珠も知っていた。
他ならぬ瑠璃が教えてくれるのだ。この辺りでは滅多にないことかもしれないが、もしも自分以外の胡蝶を見ても、絶対に近づいてはいけないのだと。
「君のご主人さまはどうにか抑えている方さ。それでも、彼女の食欲はどうしても花たちを傷つけてしまう。だから、君と一緒にいるのが怖いのだと思う」
白珠は泣きだしそうになってしまった。
それでは、怒っていたのではないのだ。嫌われたわけではないのだ。そう思った瞬間、心に圧し掛かっていた重石がごろりと音を立てて転がっていったのだ。
しかし、解放感だけではない。瑠璃への罪悪感も同時に生まれた。
複雑な感情の絡み合いが白珠を襲い、心に揺さぶりをかけてくる。
瑠璃は自分を愛してくれている。それなのに疑ってしまうなんて。
さらには、無力感にも苛まれた。
彼女の苦痛を取り除けるほど、自分は強くない。卵を産もうとしている瑠璃。せめて、自分がその力になれたらどんなに良かったか。
神々の決めた掟の前では、自分はあまりにも無力である。そのことがどうしようもなく、白珠に新たな悩みを植え付けた。
「恋の季節はいつ終わるの?」
「さあね、ボクは胡蝶の女性じゃないから分からない。ただ、噂では異性と出会えたらすぐに解放されるとも聞くね」
「瑠璃は……出会えたのかしら」
嫉妬をぐっと堪えて白珠は訊ねる。しかし、瑪瑙は首を横に振った。
「ボクの知る限りでは、まだみたい。この辺りにはあまり胡蝶がいないからね。彼女の故郷もここからずっと離れたところだったみたいだし」
「そうなんだ」
まだ誰とも出会っていないという安堵感と、恋から解放されない瑠璃への同情が生まれ、白珠は唇を噛んだ。
「そもそも彼女は他の胡蝶がいないという点を気に入ってこの辺りで住まいを探したらしい。さっさと卵を産むためにはいつもより広い範囲を彷徨わなくてはいけないみたい。出会えるかどうかはともかくとしてね」
「出会えなかったらどうなるの?」
「さあ、それも分からないや。ボクは小鳥だもの。それも男だからね」
瑪瑙の答えに白珠は急に不安を感じた。
花の精霊は蜜を吸われすぎても危ないが、貯めすぎることも体を害してしまう原因になる。それと同じようなことが胡蝶にないとは言えないのではないか。ともすれば、卵を産めないということは、瑠璃の健康を蝕むようなことかもしれない。そう思うと、白珠は怖くなったのだ。
だが、瑪瑙は全く違う脅威を白珠に教えた。
「心配するべきはそこじゃないよ、白珠」
深刻な表情で瑪瑙は白珠を見下ろす。
「恋の季節は花たちの脅威でもあるけれど、同時に、胡蝶たち自身の脅威でもある。この季節を待ちわびている者もいるんだ。……肉食精霊たちさ」
恐ろしい言葉に白珠は怯んだ。
「異性を求めてさまよう胡蝶たちはいつも以上に周囲が見えなくなってしまう。いつもなら軽くあしらえるような相手であっても、簡単に捕まってしまうらしい。この時期は運が良いと雌雄まとめて手に入る。恋の季節の胡蝶――とくに卵を産む前後の女性は美味しいらしいからね。瑠璃だって目をつけられているはずだよ。なんたって、この辺りでは唯一、よく見かける胡蝶だからね」
「瑠璃を狙う人たちがいるの……?」
それは、白珠にとって想像していた以上に怖い話だった。
いま、こうしている間にも瑠璃が襲われているかもしれない。そう思うと、すっと血の気が引いていく。白珠は目眩を感じながら、瑪瑙に言った。
「ねえ、お願いがあるの、瑪瑙」
きちんと名前を呼ぶと、瑪瑙は嬉しそうに目を細めた。
「なんだい?」
ぼやける視界でその顔を見つめ、白珠は懇願した。
「あなたに酷い態度をとったことを謝るわ。だから、瑠璃を見守っていてくれない? 危ない目に遭っていたら、助けてあげて欲しいの」
「いいよ。今度は条件なしだ」
瑪瑙はにこにこと笑ってそう言った。
白珠は驚いた。まさか快諾してくれるなんて思いもしなかったのだ。だが、表情を窺う白珠に対して、瑪瑙は付け加えるように告げた。
「ボクを心から嫌わずに話してくれたお礼さ。蜜が駄目でもさ、お友達くらいにはなってくれるでしょう?」
「うん……」
戸惑いながらも、少しずつその言葉の嬉しさを白珠は感じた。
「ありがとう、瑪瑙」
白珠は心から礼を言った。
苦手だと思っていたこと申し訳ないくらいに、今はその存在が有難かった。