4.外での日常
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胡蝶はとても乱暴な心を持っている。それは瑠璃が常々心に留めていることだった。
普段は白珠を心から愛している彼女であっても、食事とは食欲を満たすためだけの行為ではなく、相手を操り、屈服させ、心身の隅から隅まで弄んで支配欲を満たすための行為だった。
勿論、あまりにも欲を優先すれば、花たちは枯れてしまう。大事にしたい白珠との食事はある程度のところで制御しなければならない。だが、それでは、やはり満ち足りなかった。
これでは心の片隅で解消されないものが溜まっていく一方だ。だからだろう、外での食事はあまりにも粗暴で、白珠には想像も出来ないほど冷酷だった。
たとえ花婿候補の月花が相手であっても、声に出して音を上げない限り激しい責めは続く。
それを数名にやって、ようやく心が軽くなるのだから困ったものだ。冷静さを取り戻すたびに、瑠璃は自分に対して嫌悪感を抱いていた。
それでも、瑠璃は外食が嫌いになれなかった。むしろ、開き直ってしまえば待ち遠しい程だった。
白珠には絶対に出来ないようなことを幾らでも出来る良い機会だ。外で発散すればするほど、家では白珠を冷静に、そして丁寧に、愛することが出来る。それによって、白珠が思いのままによがるのが楽しかったのだ。
とはいえ、相手は誰であっても貴重な食事相手である。命を奪う真似ばかりはしなかった。その代わり、快楽だけでなく苦痛で相手が喘ぐ姿を嗜みながら、より魂に近い味のする蜜を嗜んだ。
とりわけ、お気に入りだったのが朱花と名乗る花の精霊だった。純血の月花ではなく、さまざまな花の血を引く女性であり、赤みの強い特徴的な容姿をしていた。雌花であるため、白珠の相手候補には当然ならないが、己の欲を満たすという点で、瑠璃にとっては欠かせない存在だった。
朱花は気位の高い花だが、それでいて激しく求められることを心の底から好んでいた。瑠璃が羽化して間もないころからの付き合いで、その訪問を拒まれたことは一度もない。もうすでに何度か子を孕んだこともある大人の花でもあった。
だが、遠い異国の血の混じる混血花であるためか、朱花の産んだ子が無事に育ったことは一度もない。そのため、いつも彼女はひとりで隠れ家に住んでいた。
子はなかなか育たずとも、蜜の味には全く問題ない。むしろ、月花とは違う不思議な魅力があり、瑠璃はとても好きだった。
だから、瑠璃は毎日欠かさず朱花のもとを訪れていた。
白珠にはとても出来ない戯れの相手として、そして、古くからの友人として、瑠璃は朱花を求めていたのだ。そして、朱花はそれを悦んで受け入れていた。身体がぼろぼろになっても、死のぎりぎりまで蜜を吸われても、髪の色よりも赤い血を流すことになっても、次の訪問の日を訊ね、求めるのが彼女だった。
瑠璃にとって彼女は、友人でありながらも都合のいい花でもあったのだ。
だが、自分だけのものではないし、無知で愚かだと思っているわけでもない。彼女との関係は対等であり、いつ、拒まれるかも分からない。もしも、瑠璃以上に素晴らしい相手が見つかれば、いつでもそっぽを向かれるだろう。
それが分かっていたからこそ、瑠璃は毎回、手を抜くことなく朱花を責めた。今日限りであっても後悔のないように、朱花にぶつけたい欲望の全てをその場で解消しきってしまうつもりで、激しく愛でるのだ。
今日もまた瑠璃はそんな時を過ごしていた。
あらゆる精霊に愛でられているだけあって、朱花の身体やその色気は白珠のものよりもずっと大人びている。蜜の出もよく、雌花ならではの胸部の発育も白珠より良かった。牝の獣たちの乳房にも似た形のその部位は蜜房と呼ばれている。そこに溜まる蜜は、雌花たち曰く蜜食精霊たちへの褒美であるという。朱花の中に秘められたその褒美は、野生花の中でもとりわけ独特な味がする。
だが、他の蜜食精霊たちと共有しているだけに、瑠璃が来る頃にはだいぶ減ってしまっていた。それだけに、求めるものは食欲だけではなくなってしまうのだ。
多少傷つけて悲鳴を上げさせるだけでは、瑠璃も満足できなかった。もっと怖がらせ、その震えが血や汗と混じって蜜の味を引き立たせなければ、舌も心も満足しない。さらには、本能的に抵抗しようとする身体を押さえつけて、やや強気に体を開かせなければ楽しめなかった。
長い付き合いだからこそ、瑠璃は朱花の心身をよく理解していた。何が好きなのか、何処が弱いのか、逆に何がタブーなのか、集中力や体力がどの程度あるのか。それを分かった上で、半ば気絶させるように終わらせるのが常となっていた。
ただし、これらは瑠璃が胡蝶として持つ欲望を満たすためだけではない。いっぱい疲れさせておかねばならない理由は他にもあった。
普段の朱花は異様なほど気位が高く、話好きなのだ。
「他の花の事を考えていたでしょう」
今日日、互いに満足しきっても、朱花の意識を奪えなかったことを瑠璃は悔しく感じていた。言うことを聞かせて飽きるほど蜜を奪えたとしても、朱花との関係においてそれは勝利ではない。意識まで奪って、そっと帰ることこそが勝利だった。
この場合は、間違いなく敗北である。寄り添い合いながら、聞かされる説教にうんざりしながらも、瑠璃は敗者の自覚をもって会話に付き合った。
「そんなわけ、ないでしょう?」
甘い声で答えるも、朱花を言い包めるには程遠い。
「誤魔化さないで。何年、あなたと付き合っていると思っているの? 全然集中していなかったことくらい、あたしには分かるのよ。いったい誰のことを考えていたの?」
「別に考えちゃいないわ。そう見えたのならきっと、あなたの妖艶な血と蜜の香りに浮かされていたのよ」
花たちをその気にさせる口説き文句は、胡蝶ならば磨いて当たり前の技である。自分に興味を持たせ、その花弁をいかに素早く開かせるかということは、日々危険な状況で食事をしなくてはならない蜜食精霊にとって死活問題でもあるのだ。瑠璃もまたそんな生活を何年も続けていたものだから、朱花を宥める態度も慣れたものだった。
だが、この度の朱花はなかなか瑠璃の思い通りにならなかった。寝そべったまま瑠璃の両手を握り締め、そっと自分の柔らかな胸に当てに行くと、今度は心配そうな表情を浮かべて訴えたのだ。
「ねえ、お願い。何があったのか教えて。楽しい事でもあった? それならまだいいけれど、それにしては、何処か忙しないわ。まるで集中力を欠く恋人でも隠しているみたい。お願いだから、瑠璃、たとえそうであったとしても、あたしの忠告を聞いてくれる?」
いつになく真剣なその言葉に、瑠璃は揶揄いもせずに頷いた。
「話して」
そう言って促すと、朱花は瑠璃を引き寄せて甘い香りで包み込んだ。
「今日もお家に帰るのなら、帰り道には気を付けて。安全な場所につくまでは、絶対にボーっとしちゃダメよ。蜘蛛の糸、蟷螂や蜥蜴の気配、蜻蜓や胡蜂の羽音、小鳥のさえずり、その他諸々に気を配りすぎるくらい気を配って帰って。何よりも怖いのが胡蜂よ。あたし、聞いたんだから」
「聞いたって何を?」
優しく問いかけると、朱花は深刻な表情で答えた。
「常連の蜜蜂が言っていたの。胡蜂の女王の気が立っているらしい。大精霊さまの世界で何があったかは知らないけれど、いつもより多くの獲物を集めようとしているのですって。蜜蜂だけじゃない。胡蝶だって例外じゃないわ」
そう言って、朱花は震えだす。
「とにかく絶対に捕まらないって約束してほしいの」
切実な声による忠告を受け、瑠璃は微笑みを浮かべた。
甘い香りとその表情に食指がまた動いたのだ。そのまま朱花の身体を床に押さえつける形で見下ろすと、小さな声で答える。
「分かったわ。あなたの言うとおり、気を付けて帰りましょう。とくに、胡蜂にはね。だから、集中力のための蜜をもう少しだけ頂けるかしら」
怯えながらも朱花が頷くのを確認してから、瑠璃は再びその体に舌を這わした。
結局その日は、最終的に瑠璃の勝利となった。疲労と快楽のあまり眠りにつく朱花を優しく寝台に寝かせると、瑠璃は起こさないようにそっと隠れ家を抜け出した。
外はまだ明るい。花婿候補の一人と食事を楽しむだけの時間は残されていた。
そのことにほっと胸を撫で下ろしていると、突如、不快なほど無邪気な笑い声が聞こえてきた。瑠璃はぎょっとした。見れば、朱花の家の屋根に、ひとりの見慣れぬ精霊が座っていた。
それは大雑把に小鳥と呼ばれる精霊であった。多くは蜜食精霊であるが、肉食精霊である一族もいる。胡蝶にとっては厄介な相手だ。可愛すぎるくらいの人間の少年に似た容姿に、愛くるしい瞳は無害そうに見えるが決してそうではない。翼はもたないが、その代わりに羽毛のようなオレンジ色の髪が目立っている。屈託のない笑みが逆に胡散臭い。そんな相手に見えた。
瑠璃がその動きに警戒を向け続けていると、小鳥は口を開いた。
「やあ、そんな顔しないで。せっかくの魅力が台無しだよ」
「小鳥が私に何か用?」
「別に用って程でもないさ。ただ、同じ蜜を吸う者同士、仲良くしておこうと思っただけさ。君はどうやら彼女と古い仲のようだからね」
朱花のことだろうと瑠璃は睨んだ。つまり、相手は蜜食の小鳥。競合相手と鉢合わせになったということだ。気まずいことこの上なく、瑠璃はすぐに目を逸らした。
仲良くも何もない。この世界はすべて早い者勝ちだと瑠璃は信じている。胡蝶が食事をする上で、他の精霊への配慮などすることはない。いかに自分が満足し、いかに花を生かし続けるかを考えるだけ。少なくとも瑠璃はそうだった。朱花との付き合いは長いし、独り占めしている花ではないことは分かっていても、自分以外に朱花を求める精霊たちのことを考えたことは一度もない。
だからこそ、瑠璃は思った。
――この小鳥、何だかとても気に入らない。
そんな瑠璃の心を逆撫でするかのように、小鳥は言った。
「名前があるんだよね。瑠璃だったっけ?」
「盗み聞きしたの? 悪趣味な小鳥ね」
冷静に返しつつも、瑠璃は思った。早いとこ切り上げて立ち去ろう。話をするだけ時間の無駄だ。
だが、小鳥はしつこく話しかけてきた。
「聞こえちゃったんだもの。仕方ないでしょう? それに君が彼女をあまりにも乱暴に扱うから心配になってね。ああ、そうだ。朱花の忠告は真面目に聞いた方がいいとボクも思うよ」
「余計なお世話よ。もう行くわ。二度と会うことはないでしょうけれど」
「せっかちだなあ。もう少しくらいいいじゃない」
さらに話そうとする小鳥を無視して、瑠璃は歩みだす。そんな彼女へ、小鳥は慌てたように付け加えた。
「そうそう、ボクも名前があるんだよ。瑪瑙っていうの。良かったら覚えておいてよ」
――誰が覚えるものですか。
騙し合いで出来たこの世界で馴れ馴れしい精霊ほど信用ならないものはない。
瑠璃は振り返ることもなく、速やかにその場を立ち去った。