37.若き大精霊
◇
胡蜂の集団が広場を埋め尽くしている。紅玉の部下が減らしたといっても、その数はまだまだ多い。それでも、王城に帰ればもっとたくさんいるのだという言葉が、白珠には信じられなかった。
だが、数の脅威はもはや問題ではない。
金剛と紅玉がこの世から去って早くも数日経っていた。白珠も、瑠璃も、そして瑪瑙も、もう胡蜂たちを恐れる必要はなくなっていった。時間が経つうちに、胡蜂たちも白珠たちを敵視しなくなっていったからだ。
蜂という生き物の性を白珠は話でしか知らない。しかし、どうやら彼女たちは女王である翡翠の決定を本気で重んじているようだった。そんな彼女たちの姿は、国のため、姉妹のため、そして崇拝していた女王のために命を懸けた銀星の姿と被った。
その死の悲しみさえも、時間はかき消していく。
こうして、あっという間に翡翠たちが王城へと戻る日がやってきた。
多くのものが彼らの手に渡ってしまった。金剛や紅玉といった頼りにしていた大精霊たちの命だけではない。衣服や食料、蜜薬の半数や、金剛の形見であった人間の世界から持ち込まれたあらゆる家具も胡蜂の戦利品として持ち帰られることになってしまった。
慣れ親しんだ住まいは様変わりし、かつての主人を思い出せるモノの多くがなくなっていく。それでも、白珠はほっとしていた。
愛する人と、生きて明日を迎えられること。それだけで今の彼女には十分だったのだ。
翡翠の命により、白珠たち三人は高台より彼らの帰還を見守っていた。
「白珠、前へ」
下から翡翠に呼びかけられて、白珠はおずおずとその言葉に従った。
かつてここから瑠璃は胡蜂たちを見下ろし、戦った。その時の光景を想像しながら、白珠もまた同じ舞台に立つ。見下ろす先にいる胡蜂たちの表情はよく読み取れない。だが、翡翠だけは満足そうにこちらを見ていた。それさえ分かればいい。白珠はじっと翡翠だけを見つめ、その言葉を待った。
翡翠は周囲に待機する胡蜂たちに向かって告げた。
「娘たちよ、よく目にするがいい。これが新しき花の魔女の姿だ。かつて月の女神の望んだとおり、神聖な力が我らの勝利によってついに月花の身体へと戻った。これこそ、吉兆の証。先に待ち受ける肉食花との戦いも良き方向へと転ぶだろう」
女王の言葉を受けて、胡蜂たちが一斉に白珠を見上げた。
初めてその前に引き出された時とは全く違うものが向けられている。敗北してすぐの時、自分はただの奴隷だった。女王を喜ばせるための戦利品として、投げ出されたのだ。
だが今は違う。畏怖すべき存在として見つめられている。恐ろしい肉食花の大群が、ある種の期待と畏れを抱いて、一斉に自分を見つめているのだ。
その光景に、白珠はすっかり緊張してしまった。
――お前は私を恨むかもしれない。
金剛の言葉が蘇り、白珠はその意味を思い知った。
これが、大精霊となることなのだ。その責任と重みを、初めて理解した。ただの月花が背負うには重すぎる。それでも、一度受け取れば、もう二度と投げ出すことは出来ない。
怯えていることすら悟られないように立ち尽くし、白珠は翡翠を見つめた。黙って見下ろしていればいい。事前に、翡翠その人からそう言われた通りに振舞い、その場をただ耐えていた。
いつかはこうやって守られる日もなくなる。大精霊となった者の務めを自分で果たし、強大な敵を前に命を懸けて戦うこともあるかもしれない。
その予感に震えながら、白珠はふと天窓を見上げた。
――ああ、でも金剛さま。わたしはあなたを恨んだりはしません。
そっと胸に手を当てると、金剛の温もりを感じた気がした。
彼女の亡骸に残されていた力の全てはすでに翡翠のものとなった。しかし、生前の彼女の意思が今も流れているのは自分の方である。そのことを強く実感しながら、緊張をどうにか解そうとした。
「さあ、帰ろう。誇り高き我らの城へ」
それが合図となって、胡蜂の大群がぞろぞろと王城へと帰り始めた。ここ数日、騒々しかったものたちの帰省を、白珠は固唾を飲んで見守った。
翡翠は側近たちに囲まれながら、名残を惜しむように白珠たちを見上げた。そして、ふと笑みを浮かべ、そのままくるりと背を向けてしまった。
その背中を見送りながら、白珠はふと気づいた。
本来、胡蜂の女王が王城の外に出ることは滅多にないことだという。次にこんな機会があるとすれば、金剛に匹敵する力ある敵――つまり、肉食花などと戦う時だろうとのことだった。この先、王城へ向かうことがなかったとすれば、ひょっとすると彼女自身にはもう会えないのかもしれない。
だが、その別れはあまりに呆気なく、とてもあっさりとしたものだった。ついには全く振り返らず、王国民と共にこの住まいから出て行ってしまった。
何もかも、金剛とは違う主君だ。
急に静まり返った住まいの中で、白珠はそればかりを感じていた。
「行ってしまったね」
瑪瑙が天窓を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「新しいご主人さまに、新しい称号。なんだか変な気分だ」
かつての元気をなくした美しい声で、瑪瑙は寂しそうにそう言った。
「これで、ようやく金剛さまや紅玉さまとのお別れを悲しめる。とことん悲しんだ後は、頑張らなきゃ。これからはボク達が大精霊になるのだもの」
「紅玉さまのように隷従狩りをするの?」
瑠璃が言うと、瑪瑙は苦笑いを浮かべた。
「試してみるつもり。でも、自信がないや。ボクは小鳥だもの。捕まえられるとしたら、戦いに不向きな花の精霊ばかりだろうね。それかボクの歌に惚れてくれる小鳥仲間かな。紅玉さまのように優秀な戦士は集められないかもしれない。それがちょっと不安なんだ」
「わたしも自信がないわ」
白珠は同意する気持ちで彼に言った。
「金剛さまのように強くないもの。蜜の操り方も、力の使い方も、まだまだ分からないことばかり。胡蜂たちの眼差しだって、怖くてたまらなかった。こんなわたしに大精霊なんて務まるのかしら」
高台から広間を見渡し、白珠はため息を吐いた。
花畑はすっかり踏み荒らされ、かつて愛した美しさはなくなっている。それでも、このまま放置されれば、いつかは元に戻るだろう。その頃には、今日よりも立派になれているのだろうか。肉食花との抗争は、激しくなっていないだろうか。
白珠は不安で仕方がなかった。
瑠璃はそんな白珠の隣に座り、頭を撫でた。
「女王さまがおっしゃっていたでしょう? 急になろうとしなくていいの。瑪瑙も同じよ。今までのようにここで過ごして、少しずつ成長していけばいい。それまでは私が守ってあげる。見ていてあげる。だから、怖がらないで」
優しく抱擁され、白珠は少しだけ安堵した。
胡蜂たちは多くの者を略奪していったが、もっとも大切な愛すべき存在だけは残しておいてくれた。それだけでも希望は残される。瑠璃の温もりを感じながら、白珠はその悦びを深く味わった。
「ちぇっ、見せつけてくれるね。ボクはちょっと偵察でもしてこようかな」
瑪瑙がすぐ横で囃すように言った。
そして、軽やかに飛ぶと、白珠や瑠璃が止める間もなくそのまま本物の小鳥のように天窓から外へと出て行ってしまった。
急に二人きりにされ、白珠は赤面した。思えば、久しぶりの二人きりだった。
「瑪瑙ったら、相変わらずなんだから」
お茶を濁すようにそう言ったのも束の間、瑠璃が無言でその唇を奪った。不意をつかれて白珠は茫然とした。しかし、奪われてみると、求めていたのだという事が嫌でも分かり、気づけば自ら哀願して瑠璃の接吻を求めていた。
高台で燃え上がるように互いを求め合い、白珠はただ純粋な幸福を感じていた。
こうやって堂々と抱きしめ合うのはいつ以来だろう。誰の許可もなく、誰の目も気にせず、愛に身を委ねる悦びを得られたのはいつのことだったか。
口を離した後も、余韻は残る。
「瑠璃」
その名を呼んで抱きしめると、たまらないほど心が震えた。これまでの恐怖や悲しみといった感情が一気に溶けていき、愛の感動と一緒になって何もかも分からないほどドロドロになっていた。その心が蜜と、そして、金剛より受け継いだ魔力と合わさって、辺りは濃厚な甘い香りに包まれていた。
瑠璃は白珠の手を取り、高台の部屋の中へと誘う。そこは長らく金剛と紅玉が愛を交わした部屋でもあった。これからは誰のものでもない。瑪瑙が特に欲しいと言わなければ、このまま二人のものになるだろう。寝心地のいい藁のベッドの上に寝かされると同時に、白珠は瑠璃の手を引っ張った。
共に寝ころび、子供のようにじゃれ合って、単純な喜びを分かち合った。そうして、飽きてくると、白珠は甘えるように瑠璃に抱き着き、そして、意を決してその耳に囁いた。
「相談があるの」
「なに?」
優しく問いかけられ、白珠は少しだけ躊躇った。
これまでに見た、あらゆる金剛の姿を思い出しながら、白珠は静かに悩む。出会った頃から金剛は大精霊だった。花蟷螂という強い種族でありながら、大精霊であることに悩んでいたようにすら思えた彼女。花の魔女としての称号は、きっとそれだけ重たいものだったのだろう。易々と与えられないと言った金剛の態度は、愛ゆえのものだったのだと今になって白珠には分かった。
この称号は重たい。それだけの責任と罪悪感の伴うものなのだ。それでも、一人で持っていることは、あまりにも辛かった。
「あのね、瑠璃。あなたに……大精霊の力を分けたいの」
瑠璃の表情が変わる。ほぼ真顔でじっと白珠を見つめていた。
「どうして?」
慎重に訊ねる彼女に、白珠は答えた。
「あの方の気配が重たいの。いくら月花のものだったと聞かされても、わたし一人ではとても支えきれないほどに。でも、あなたとふたりなら……もともと、ふたりであの方の配下となったのだもの。ふたりなら、きっと耐えられると思って――」
そして、白珠は自分の言葉に悩んだ。
なんて無責任な願いなのだろう。急にそう思ったのだ。あまりに身勝手で、恐ろしい。破滅の願いにだってなるかもしれない。危険な目に遭わせることが分かっていながらこんな願いをするなんて。
すぐに自責の念にかられ、白珠は首を振った。
「ごめんなさい、やっぱり忘れて」
白珠は後悔していた。かつて金剛に力を求めた事が恥ずかしいほどだった。こんなにも恐ろしいなんて。そして、その恐ろしさから逃げようとした自分が情けなかった。
しかし、一度口にした言葉は取り消せない。すでに白珠の願いは、その本心も窺わせる形で瑠璃に伝わってしまっていた。瑠璃はじっと白珠を見つめると、その頬に軽く口づけをした。銀髪を撫で、愛おしい気持ちをいっぱいに込めて、瑠璃は白珠に囁いた。
「いいえ」
案の定、彼女はそう言った。
白珠の上に覆いかぶさり、これまでと同じように、食事をするときのように、その体を責め始める。
「忘れる事なんて出来ないわ、白珠。私もその力が欲しい。金剛があなたの中に遺したものに触れたい。蜜薬はたっぷりあるの。いずれはなくなるでしょうけれど、あなたに手伝ってもらえば、また造れるでしょうね。……あなたが嫌じゃなければ、私もあなたと共に大精霊になりたい」
涙の浮かぶ目で、白珠は瑠璃を見つめた。自分の全てを瑠璃に託したくて仕方がない。蜜も心も、そして魔力も、すべてを瑠璃に奪われてしまいたかった。だが、それでいいのだろうか。それでも、許されるのだろうか。
唇が微かに触れる位置で、瑠璃は甘い声を漏らす。
「あなたと運命を共にしたい。共にその責任を担いたい。だから――」
その唇が触れた瞬間、白珠はこれまでに感じたことのないような快感に見舞われた。
それは、金剛との別れの口づけで感じた刹那の快感をさらに大きくしたような感動だった。
捧げても捧げきれない。全てをなげうってでも欲しくなる感触。もうすっかり瑠璃の魅惑には慣れたと思っていたというのに、白珠は夢中になってその唇に縋りつき、そして屈服するように肯いたのだった。
「分かった。あなたの望むままに」
そうして、二人だけの神聖な儀式は始まった。念入りに時間をかけて、全ての愛をこめて、恐ろしく、美しく、そして愛おしかった魔女の全てを、瑠璃へと伝えたのだった。
蜜のやり取りとはまた違う。深い場所で繋がるような心地よい一体感。それを存分に感じながら、白珠は心より幸福を感じていた。




