36.支配者
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翡翠の言葉を、瑠璃は素直に受け止められなかった。何せ、殺される覚悟ばかりを抱いていたのだ。そうでない道を示唆されて混乱しないはずがなかった。
あわよくば助けてもらえるなどという甘い考えはとうの昔に捨てていた。胡蜂とはそういう種族だと聞いていたからだ。その通り、彼らの手にかかった精霊たちの末路は悲惨なものばかりだ。だから、翡翠の言葉にも、何か裏があるのではとしか思えなかったのだ。
周囲のざわめきもまた女王である翡翠の言葉を歓迎していないと瑠璃には分かった。胡蜂たちは期待していたのだ。姉妹を死なせるきっかけとなった悪しき胡蝶を八つ裂きにする命令を。ぎらぎらとした目がそれを物語っていた。
だからこそ、いかに女王の決め事とはいえ、胡蜂の兵たちが文句を言わずに頭を下げるなどと瑠璃にはとても思えなかったのだ。
その予想通り、ただでさえ大きくなったざわめきがそれ以上広がる前に女王と同じ高台にいる側近の一人が皆に聞こえるほどの声で口を挟んだのだった。
「陛下」
「何だ?」
女王の冷たい声色にも関わらず、側近は堂々と瑠璃を睨みつけた。
「若き後継者たち。かのお二人に関しては申すことはありません。しかし、その瑠璃とやらは我が姉妹の闘志を穢した悪しき胡蝶です。鱗粉に惑わされ命を奪われた姉妹たちの無念がどれだけのものだったか。彼女らの魂を鎮めるためにも、この胡蝶の命を皆で分かち合いたいと望む者は多い事でしょう」
力強いその主張に、同意する声が多数あがる。
悪意と興奮が混じったその主張に瑠璃はひたすら耐え忍んだ。だが、胡蜂たちの反応を見つめても、翡翠は表情一つ変えずに側近へと答えた。
「我が娘よ。そなたの怒りは分かった。だが、一時の怒りに囚われることは誇り高き胡蜂と言えるだろうか」
他の部下たちも見つめ、翡翠は告げた。
「略奪こそ我が力。我らが誇りだ。その成果は奪った物の価値の高さで決まる。これまでに我が王国民たちに鱗粉を向けた胡蝶がいただろうか。金剛と、そして白珠。二代に渡る花の魔女の心を捕らえた精霊がいただろうか。私は知らない。ゆえに、興味がある」
翡翠の言葉に一同、やや言葉を詰まらせた。
胡蜂たちの大半はぐっと口を噤み、目線を下げる。胡蜂の多くにとって女王の言葉は絶対である。その女王が興味を示したとなれば、いくら憎き精霊であっても下手な態度はとれなかった。
それでも、口を出した側近だけは苦い表情を浮かべた。
「ですが、陛下……」
「まだ分からぬか、娘よ。私はこの胡蝶が欲しい」
はっきりとした主張に、側近は今度こそ口を噤んだ。
そこへ追い打ちをかけるように翡翠は言った。
「これは、ただの胡蝶じゃない。金剛が手元に置いて戦わせると決めた胡蝶だ。金剛にはあの世にまで逃げられたが、こちらはせっかく生きた状態で手に入った。小鳥に月花、この二人が忘れ形見ならば、この胡蝶だって同じ。私はこの気性の荒い胡蝶を生かしたまま従えたいのだ」
周囲では胡蜂たちが口々に囁き合う。
「陛下のご所望だ」
それだけで、彼女たちにとっては納得できる理由となっていた。
瑠璃は茫然と翡翠を見つめていた。思いがけず、命拾いをしたらしい。そのことがまだ実感できず、夢を見ているような気分になっていた。
金剛にも、銀星にも死なれ、つい先程までは希望などもはや残っていないとばかり思っていたのだ。それなのに、自分は明日も生きることが出来る。白珠を守るというおよそ罰ともいえない使命を課せられて。
「……瑠璃」
ふと白珠に手を繋がれて、瑠璃は我に返った。
異を唱える胡蜂はもういない。翡翠の号令が下り、判決は確定した。夢うつつのまま、白珠や瑪瑙と共に生き続ける権利を、瑠璃は手にしたのだ。
もう誰も襲ってこない。もう誰にも傷つけられない。それでも、解放感らしいものはない。いつまた、かの女王が気を変えるかもわからない。そんな不安もあった。翡翠が下がり、胡蜂たちの視線から解放された後も、制限付きで好きに過ごさせて貰えた後も、同じ。夢を見せられているような気持ちで、瑠璃はひたすら時を過ごした。
夕暮れが近づき、話があると瑠璃だけが再び翡翠に呼び出されたときになっても、不安は変わらなかった。今度は全ての兵の前に引き出されることはなく、少数の側近と翡翠のみが立ち会った。そこは金剛が蜜薬や人形を保管していたあの閨であり、白珠や翡翠によれば金剛が最期を迎えたという場所でもあった。
朱花を含めた七体の花の精霊たちの亡骸は手つかずのまま置いてあり、蜜薬の溜まった壺も並べられたままだ。その中で、翡翠は待っていた。瑠璃は恐る恐るその前で跪いた。
「お話とは何でしょうか」
丁寧に訊ねると、翡翠は目を細めて答えた。
「形見分けだ」
そう言って、部屋を見渡した。
「ここにある蜜薬は我が武器として王城に持ち帰る。だが、この全てを保管する場所はない。ここに置いておき、少しずつ使うにも量が多すぎるし、この力をさっそく使って新しい薬を製造した方が早い。よって、後はそなたにやろう。悪趣味な人形もいらん。そなたの好きにするがいい」
「私に、ですか?」
瑠璃が冷静に訊ね返すと、翡翠は笑みを深めた。
「娘の誰かを残して管理させてもいいだろう。しかし、そういった裁量のある娘は出来るだけ手元に残したいのだ。よって、ここには護衛しか置かない。この場所で暮し、生きるのはお前たちだ。お前たちが管理してもらう。その中でもっとも年長であるそなたに任せるのがいいと判断しての事だ」
そして、彼女の言う悪趣味な人形の一体に触れる。
「瑠璃よ。私が何故、金剛を甘く見たか分かるか? 別にもともと婢だったからではない。蜜の魔術は強力だが、このように面倒な下準備が必要だ。一人ではどうせ何も出来ぬと高を括っていたのだ。素材となる花の精霊をいつでも捕らえられるとは限らぬものだからね」
瑠璃は黙ったまま耳を傾ける。
翡翠は部屋をうろつきながら、置かれた人形の一つ一つを確かめていた。
「花の精霊でない花の魔女が、いかに花の魔女として振舞うのか。お前もよく聞いておくがいい。大精霊となった者を守るには自分もまた大精霊になった方がいい。有事の際は蜜薬の力を借りて、ここを守ることが出来る。その最中で、私と共に肉食花に立ち向かってもらう事になるかもしれない」
「――つまり、私に白珠の力を奪えとおっしゃるの?」
慎重に訊ねると、側近たちはムッとした表情になった。
だが、翡翠だけは笑みを見せ、瑠璃の表情をまっすぐ見据えた。
「好きに思えば良い。とにかく、この大量の蜜薬はそなたのものだ。大精霊になろうとなるまいと。好きに使い、そして、まずは繁栄するがいい。この要塞はこれよりそなたのものだ。我が領地の未来のために、今はか弱き大精霊の子らを育てるのに使え。そして、ここを胡蝶や月花などの血筋の広がる場所とするのだ」
――ここが私の場所に。
ふと、金剛の表情が脳裏に浮かび、瑠璃は息を飲んだ。
同じだ。目指していた未来と同じものを、翡翠は示している。
仕える者は全く違う。考え方も、立場も違う。それなのに、示された者はほぼ同じものだ。自由だった頃、一人だった頃に抱けた夢とは全く違う。それもまた、金剛の語った夢と同じだ。
その不可思議さとそこはかとない後ろめたさを感じながら、瑠璃は緊張していた。
「肉食花との戦いに勝利することは大事なこと。だが、同じく、我が領地を枯らさないこともまた大事なことだ」
翡翠は言った。
「これまでに私はいくつかの失敗を犯した。その一つが胡蝶だ。我が王国民の飢えを按ずるあまり、胡蝶どもの縄張りを破壊し、全てを奪ってしまったのだ。その結果、我が領地の胡蝶は数を減らした。減らした者は増やさねばならない。だから、瑠璃、そなたにはここで繁栄してもらいたい」
――同じだ。
瑠璃は静かに頭を下げ、従う意を示した。
ここを胡蝶と月花の世界に。何度も潰えそうになった願いが、今度こそ叶いそうだ。だが、その為に失ったものがどれだけあったか。素直に嬉しいと思えない。あれほど頑張って叶えようとした事なのに、今となっては恐ろしくてたまらなかった。
瑠璃は怖かった。金剛が敗れた今、全ては翡翠に委ねられる。けれど、その翡翠の約束とは絶対的なものだろうか。彼女が裏切らないとどうしていえよう。子が育った頃になって、その肉を求めて急に牙を剥いてくる可能性だって十分ある。疑いだせばきりがなかった。
また、信じたところで、今度は肉食花に翡翠が負けるようなことがあればどうなるのか。翡翠が本当に約束を守ろうとしてくれたとしても、死んでしまえば意味がない。そう思うと、未来を心から期待することが出来ず、暗い表情を浮かべることしか出来なかったのだ。
そんな瑠璃の表情を見つめ、翡翠がふと側近たちに声をかけた。
「少し、二人きりにさせてくれるか」
側近たちが顔を見合わせ、しずしずと従う。彼女たちが立ち去るのを見送ってから、翡翠は瑠璃と目を合わせた。
「不安か」
嘘を求めていない。その事を眼差しから感じ取り、瑠璃は正直に頷いた。
「――はい」
その言葉に翡翠はため息を吐き、呆れるように問いただした。
「何が不安なのだ? 略奪者の言う事など信じられぬのか?」
「……いいえ、それは」
瑠璃は必死になって言葉を探した。
蜜薬の香りがふわりと瑠璃を包む。その甘みの向こうに今となっては懐かしい温もりを感じた気がして、心が悲鳴をあげだした。恐れも、緊張も解かれ、瑠璃は涙をこぼすように言葉をこぼした。
「ただ私は信じることに疲れてしまったのです」
「疲れた?」
翡翠の言葉に頷き、瑠璃は訴えた。
「ここは元々、私と白珠の家でした。それが神々の悪戯か、二人まとめて花の魔女に囚われ、手駒としてあなたに反旗を翻すことになりました。その最中、かつて、金剛にもあなたが今言ったのと同じようなことを約束されたのです。それは私が一人で抱いた夢でした。肉食者に囚われた以上、手放さなければならなかった夢。それを金剛は約束してくれたのです。けれど、その約束は守られなかった。守らずに、彼女は死んでしまった。あなたとの戦いに敗れてしまったから」
その最期すら見ることは出来なかった。亡骸が何処に保管されているのかは分からない。すでに翡翠に食われてしまったのかどうかも、はっきりとは分からない。
瑠璃は恋しかった。強制的に出来た縁だが、それでも主人だった。傷つけられたことばかりのはずだったのに、思い出すのは温もりばかりだった。
別れの感覚は薄いまま、ただ事実として死んでしまったと聞かされた今、その悲しみと恐れ、そして不安と怒りといったあらゆる負の感情が入り混じり、じわじわと瑠璃を苦しめていた。
「私は怖いのです」
瑠璃は、はっきりとそう言った。
「あなたを信じることが怖い。これまで絶対だと思っていた大精霊にも敵はいる。あなたもまた強大な敵に立ち向かう御方です。そんな御方の約束を信じて、もしも、それが叶わなかったら。その時の絶望を想像するだけで、胸が苦しくなるのです」
戦おうと磨いた心はすっかり傷ついていた。
勇ましく戦った銀星も死に、頼りにしていた金剛も紅玉もいない。紅玉の部下たちもいない。それなのに、彼らの喧騒は忘れようとしても、瑠璃の心に刻まれて消えそうになかった。
あれほど恨んだ賑やかさが、今となっては懐かしかったのだ。そして今度は、胡蜂たちの吐息を身近に感じている。次はこれに慣れることもまた、瑠璃には怖かった。
今あるものの全てを肉食花に奪われれば、また傷つくことになるのだろう。
それは死の次に恐ろしい、痛みだった。
「私が肉食花に負けることを恐れているのか」
翡翠はそう言うと、力なく笑った。そして同意した。
「ああ、確かにそれもあり得なくはない」
瑠璃を見つめ、翡翠は天井を見上げた。
「ここでそなたと約束するのは簡単だ。決して負けない。そなたには絶対に美しい未来を見せてやる。金剛がそなたを愛でたように、ここで私も言えたらどんなにいいだろう。だが、私は大精霊として、女王として、嘘は言いたくない。肉食花との戦いで、私がどうなってしまうのか、それは月の女神にすら分からないだろう」
しかし、と、翡翠は瑠璃の頬に手を当てた。思いがけず、金剛によく似た感触を受けて、瑠璃は目をぱちりと開いた。彼女の温もりが感じられる。今の白珠にも宿っているものだ。それは何故か。瑠璃にはぴんと来た。その力の源が、今の翡翠には宿っているのだ。
命を奪い、力を奪った彼女。恐ろしく残虐に金剛から全てを奪った女王だが、今だけは慈愛すら感じる眼差しで瑠璃を見つめていた。まるで、金剛の持っていたなけなしの愛情すらも、翡翠の胸に宿っているかのようだ。瑠璃はそう感じながら、その手にそっと触れた。翡翠は瑠璃を見つめ、そっと目を細めて囁いた。
「これだけは約束しよう。私の目の黒いうちは、努めてここをか弱き精霊たちの故郷にしてやる。そして、ここに置く金剛の蜜薬は約束の証だ。私の時代が終わり、後継者が私とは違う道を歩んだとしても、月の女神のため、この森の未来のために、抗う機会をそなたに与える」
「抗う機会……」
「蜜薬だ。それに、未熟な大精霊たち。私に鱗粉を向けたその心意気を称えよう。我が娘の中には不満に思う者もいるが、これもまた大地のため。誰が何と言おうと、私はここをお前に任せる。私が生きているうちは、肉食花の事は忘れ、愛する者の成長を見届けよ。その中で、よく考えるのだ。戦うか、ひっそりと生きるか。どちらを選んでも不利のないようにしてやる。これが、大精霊同士の都合でそなたらの住処を荒らした償いだ」
言い終えると、まっすぐ瑠璃を見つめ、翡翠は訊ねた。
「不満か?」
瑠璃は慌てて答えた。
「い、いえ」
そして翡翠の顔をじっと見つめた。一対一で向き合えば、印象も変わる。
胡蜂の女王、大精霊という肩書は、肩書に過ぎないのだという事が瑠璃にはよく分かった。翡翠は金剛に少し似ていた。先ほどは恐ろしく冷たい女王であったとしても、今はただ目の前にいる他者の理解を得ようとしている一人の精霊に過ぎなかった。
そのことを胸に収め、瑠璃は頭を下げた。
「十分すぎるくらいです」




