35.裁きの時
◇
白珠は怯えながら翡翠を見上げていた。胡蜂たちの視線など、もはや気にならない。この場でもっとも恐ろしいのは、翡翠ただ一人だった。彼女の判断が全てを決めてしまう。見逃してもらえるなんて到底思えなかった。
金剛は恐らく死に、彼女の力を継いでいるのは自分だけ。それなのに、翡翠に勝てる手段は全く分からない。どんなに素晴らしい力を受け継いでいたとしても、遥か頭上よりこちらを見下ろしてくる美しい女王の決断に抗う方法など思い付きやしなかった。
だが、白珠が不安に思っていたのは、己の未来などではなかった。今も必死に自分を抱きしめながら、周囲から庇おうとしてくれている瑠璃のことだった。
翡翠の見つめる先にいるのは瑠璃だけである。大精霊たちの力を継いでいる白珠や瑪瑙には目もくれず、ただ戦いに参加し、厄介な鱗粉をまき散らしていた瑠璃にのみその恐ろしい眼差しを向けていたのだ。
白珠は息を飲んだ。この場で真っ先に断罪されるのは彼女なのだと分かっていた。当の瑠璃もそれは分かっているだろう。しかし、瑠璃は控えめに、それでいて毅然とした態度で女王を見上げていた。
「女王陛下、どうかお許しください」
白珠をぎゅっと抱きしめて、瑠璃は真っ先に口を開いた。
「私のことは裁いてもらって構いません。でも、どうか、この子たちのことはお許しください。この子たちは戦いに参加していないのです」
そして、深々と頭を下げて見せた。
翡翠はそんな瑠璃の姿をじっと見降ろす。 広場に集ってこそこそと話し出す胡蜂たちの眼差しは、明らかに瑠璃を侮蔑していた。
白珠は瑠璃の胸に縋りながら、胡蜂たちと自分との意識の差を思い知った。
どんなに瑠璃が美しくとも、優雅であろうとも、そのことが彼らの心を掴むことはない。掴むとしても、慈悲を期待することはできない。彼らにとって瑠璃はただの食料なのだ。それに、胡蜂たちは自分たちを恨んでいる。この戦いで傷つき、倒れたのは金剛や紅玉とその部下たちだけではない。胡蜂もまたその多くが命を失ったことを白珠はよく理解していた。
許してもらえるなどという幻想を抱けるはずもない。
それを痛いほど分かっているからこそ、瑠璃はこんなことを言うのだ。
自分を盾に、必死に守ってくれている。だが、嬉しいはずがなかった。大精霊としての力を受け継いでいるのは自分なのに。それなのに、どうしてだろう。白珠は言葉を発することが出来なかった。周囲の視線と頭上から降り注ぐ翡翠の眼差しに、すっかり委縮していたのだ。
これもまた初めての恐怖だった。金剛に立ち向かった時とは違う。あの時は一対一だが、今回は多勢に無勢だ。次なる相手は、これまで絶対の存在だった金剛に打ち勝ってしまった女王。白珠には、主人であった人の末路を思い出し、泣かないでいることだけで精一杯だった。
――女神さま。どうか助けてください。
必死にしがみつきながら、白珠はただただ祈っていた。ここから遠く離れた神秘の城で暮し、自分たちを本当に見守ってくれているかどうかも定かでない女神への信仰に縋る事しかできなかった。
緊迫した空気、そして、沈黙が流れていく。そのままじっと耐えていると、不意に翡翠の冷たい声が降り注いできた。
「そなたらに名前はあるのか?」
その言葉に、場の空気が変化した。
ざわめきが止み、胡蜂たちが緊張気味に主君の様子を窺っている。
「私は瑠璃と申します」
微かに震えた声で瑠璃は答えた。
「この子は白珠。そして、そちらの小鳥は瑪瑙です」
早口で紹介を終えると、瑠璃はぐっと両目を瞑り、翡翠の反応を待った。白珠もまた目を伏せて、翡翠の顔を見ないようにした。そうしていなければ、威圧だけで息が止まってしまいそうだったのだ。
翡翠は首を傾げ、三人をそれぞれ見つめた。
「それぞれ、良い名だ。まさに大精霊の跡目に相応しい」
意味深な言葉を漏らしてから、翡翠は瑠璃を睨んだ。
「瑠璃、顔をあげよ」
鋭い命令に瑠璃は糸で引っ張られるかのように従った。その顔をまじまじと見つめながら、翡翠はその口元に笑みを含ませる。
「そなたは胡蝶には似つかわしくない闘争心を持っているようだ。花狩りのための鱗粉をあのように使うとは。私には効かなかったが、あれのお陰で、我が娘の多くが命を落とすこととなった。その罪の重さが分かるか?」
淡々とした問いに、瑠璃は震えながら頷いた。
「はい」
辛うじて聞こえる声で答えると、翡翠は満足そうにその目を細めた。
「よろしい。では、罪を償う覚悟はあるのか?」
「……あります」
瑠璃は躊躇い気味にそう言って、再び頭を下げた。
「けれど、どうかお聞きください。どうか……どうか、白珠と瑪瑙のことは――」
――瑠璃。
あくまでも自分ひとりを犠牲にしようとしている。そのことに、白珠は心を痛めていた。これで助かったとして、幸せにはとてもなれない。今の白珠にとっての未来とは、瑠璃と共に生きられることに等しいのだから。
それでも、異を唱える勇気が、白珠にはなかった。言葉を発すること自体が封印されてしまったかのように、口を動かすことが出来ない。
翡翠は深くため息を吐いた。
「頭をあげよと言ったはずだぞ」
慌てて従う瑠璃の顔を睨みつけ、翡翠は告げた。
「お前たちの意見など参考にはしない。私はこの戦いの結果と、ただ肉食花の脅威を見つめ、冷静に未来を判断するだけだ」
そして、翡翠は語った。敗北した金剛と紅玉の事。彼らの肉体がどう使われるかという事を。
本当は二人を生きたまま捕らえるつもりだったと翡翠は語る。だが、それは敵わなかった。彼らは生きるよりも誇り高き死を選んでしまった。
「金剛も、紅玉も、全く愚かな連中だ」
静かに憤慨し、翡翠は遠くを見つめる。
「それほどまでに私を主君と認めたくなかったというわけだ。その為に死を選ぶとは愚かとしか言いようがない。結果、奴らの肉体は私のものになった。意思すら抜け落ちて、魔力だけが私のモノとなる。それで尊厳を守れた気になっているのかと」
白珠はふと最後に見た金剛の姿を思い出した。
傷ついて苦しみながら、その力を自分に伝えた神秘的な彼女を。
その一瞬の官能は、いつまでも体に染みついている。他者の支配を拒み、ぎりぎりまで抗った彼女の姿は、果たして愚かだっただろうか。結果、死んでしまったのならば、そうであるともいえるかもしれない。それでも、白珠には金剛を貶すことは絶対に出来なかった。
「紅玉の部下共は一目散に逃げてしまった。残されたのはこの場所と、大量の蜜薬、食料、少数の悪趣味な人形。そして、お前たちだ、戦利品ども。私の目に狂いがなければ……白珠と瑪瑙、そなたらは後継者であるな」
翡翠の言葉に再びざわめきが生まれた。
胡蜂たちが恐れを含んだ目で自分たちを見つめていた。喧騒の中で、瑠璃の息があがり、ますます庇うように白珠を抱いた。
生かして捕らえようとしていた金剛が死んだ今、その力を受け継ぐ自分がどうされてしまうのか。白珠は怯えながら翡翠の顔を見つめた。その表情からは何も判断できない。だが、少なくとも恐ろしい顔はしていなかった。
「皆、恐れるな。むしろ望ましいことだ」
金剛は我が子らに向かって言った。
「殺して得た私には金剛や紅玉の力を後世に伝えることは出来ない。その点、この二人は後の時代にもこの尊い力を伝えられる。紅玉には領地に弟君がいるはずだが、金剛の後継者となれば噂ですら聞いた覚えがない。むしろ、この二人が遺されて助かった。……だからこそ、我らには責任があるのだ」
「責任、ですか?」
側近の一人が訊ねると、翡翠はその緑の目に笑みを含ませた。
「大精霊の跡目とはいえ、この二人の力は未熟だ。少なくとも私に歯向かうなど不可能だろう。死の果てまで逃げられてしまった金剛や紅玉のように育つまでには相当の時間がかかる」
その言葉通りだったため、白珠も瑪瑙も力なく項垂れた。
せめて、未熟であっても力の使い方を教わる時間があれば、と白珠は悔やんだ。もっと早く金剛を見つけていれば、その暇も貰えたかもしれない。あるいは、こうなる前に金剛を説得し、後継者となっていれば。だが、全ては遅い。力が貰えただけでも奇跡だったのだから。
瑪瑙はもっと早くに大精霊になったはずだ。だが、彼もまた未熟なままだった。彼にはひとりも部下がいない。精霊を捕らえる術を得ていても、訓練なしに自分より強い者を捕らえられるはずがなかった。
「力を受け継いだからと言って、すぐに大精霊になれるわけではないのだ。安全な環境でじっくりと育てなくてはならない。月の女神が生まれ落ちて女神として熟すのに三十年もかかるのと同じ。特にこの二人のように、元がか弱き精霊ならば、大精霊として成熟するまで強き者に守られなくてはならないのだ」
そして、翡翠は頬杖を突いた。
「今の状態のこの二人を戦わせたところで、たいした力にはならない。従えるにしろ、成長を待たねば意味がない」
瑠璃が顔をあげた。
「それでは――」
言いかける彼女に、翡翠は頷いた。
「白珠と瑪瑙。その二人については危害を加えぬと宣言する。安全なこの場所で大精霊として育つことを私は求める。いずれ肉食花の脅威がここを襲うだろう。それまでに少しは成長してくれるといいのだが……」
白珠は茫然と翡翠を見つめた。
では、助けてもらえるのだ。その驚きは、相当のものだった。あれほど恐ろしく見えた翡翠の笑みが、急に親しみ深いものに感じられるのだから不思議なものだ。
だが、安心も束の間、重大なことに気づいた。許されたのは自分と瑪瑙だけだ。瑠璃は違う。彼女は大精霊ではないのだ。それに、胡蜂に鱗粉を向けた罪がある。
瑠璃の表情を見てみれば、彼女は安心しつつ諦めを含んだ目をしていた。
「さてと、あとはお前だ。瑠璃」
名を呼ばれ、瑠璃は頷いた。
「覚悟は出来ております」
強い口調に、翡翠は面白がるように目を細めた。瑠璃に手を伸ばし、立つように告げる。
「そなたの処分は決まった。判決を言い渡す。前へ出でよ」
その言葉に従おうと瑠璃が動いた。そこでようやく白珠の緊張は解かれた。必死に瑠璃の手を掴むと、そのまま思い切り引っ張って邪魔をしたのだ。
「駄目!」
先ほどまでどうしても出なかった大声を張り上げて、白珠は訴えた。
「お願いです、瑠璃を殺さないで!」
「白珠。下がって」
瑠璃に咎められるも、白珠は従わなかった。従えなかった。
「お願いです、女王さま。瑠璃は悪くない。悪くないんです。彼女はわたしを守ろうとしてくれただけ。わたしが弱いから。戦えないから。代わりに戦ってくれたんです。だから、お願い。瑠璃を責めないでください。わたしから……わたしから瑠璃を奪わないで!」
その瞬間、白珠の身に変化が起こった。
感情の高ぶりと共にどっと溢れたのは、甘い蜜の香りだった。大人の花の精霊である証が、風に乗って周囲に拡散する。その途端、取り囲んでいた胡蜂たちの様子が一変した。感嘆の声が漏れ出し、畏怖とも恍惚ともとれるため息が漏れだしたのだ。
皆が白珠に見惚れている。蜜を食らう精霊でもないのに、である。白珠もそれを自覚した。自分の蜜が自分のものでないかのようだった。
まるで、金剛の手で練られた薬のよう。その怪しげな香りによく似ていた。
「――白珠!」
目を丸くした瑠璃の顔が白珠の目に映る。高台より見下ろしている翡翠もまた、眉をひそめていた。何事にも動じないと心に決めたかのようだった彼女も、さすがに驚きを隠せなかったらしい。まじまじと白珠の目を見つめ、そしてすっと息を吐くと周囲に怒鳴った。
「静まれ」
その声の響きと共に、恍惚のため息は止んだ。香りは分散し、次第に薄まっていく。蜜の香りは完全に、翡翠の威厳にかき消されてしまった。だが、この一瞬だけでも場を支配した白珠の香りの行方を、翡翠は注意深く見つめていた。
十分、その香りが消えたことを確認してから、翡翠は言った。
「未熟だと思っていたが、偉大なる力は予測がつかぬから恐ろしい。白珠よ。それだけ、この胡蝶が大事か」
真っすぐ訊ねられ、白珠は怯えつつ肯いた。瑠璃が何か言おうと翡翠に目を向ける。だが、翡翠は首を振ってそれを制した。
「だが、いかに新たな花の魔女の望みがあろうと、我が判決は変わらない」
身動ぎする白珠を制するように近くにいた胡蜂の戦士たちが槍を向ける。先ほどよりもだいぶ警戒心の強いその動きに、白珠は怯んでしまった。瑠璃が咎めるように目を向けている。彼女の方は黙って翡翠の言葉を待つつもりらしい。
大人しい瑠璃の姿を見つめ、翡翠は告げた。
「瑠璃」
その名を呼ぶ声の厳しさに、白珠は身を震わせた。
「そなたはここにいる白珠や瑪瑙とは違い、ただの精霊の娘である。だが、金剛の婢であり、我が兵に鱗粉を向けただけの危険な気性を持つそなたを、ただの胡蝶として解き放つことは出来ない。よって、そなたには罰を与える」
黙って頷く瑠璃を見つめ、翡翠は目を細めた。
「並みの胡蝶に許された自由を私は奪おう。そなたは死ぬまで私に忠誠を誓い、限られた場所で、私の決めた相手を庇護しなくてはならない。我が領地の未来のために、その命を懸けて新たな花の魔女を守り続けよ。それが、そなたの永遠の役目だ」
その言葉に、胡蜂たちが少しずつ騒ぎ始めた。
瑠璃はまっすぐ翡翠を見つめたまま固まっている。白珠も同じだった。茫然と翡翠を見つめ、今まさに告げられた罰の内容を何度も噛みしめる。やがて、じわじわとその意味を理解していった。
それは、白昼夢でも見せられているような驚きだった。




