34.必死の脱出
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――無事だった。
瑠璃はその事実のみに感謝をして、白珠をぎゅっと抱きしめていた。
外の絶望的な状況は、もう十分聞かされた。それ以上の絶望があるとしても、白珠が見つからない以上の恐怖があっただろうか。
心は傷ついても、身体は無傷で生きている。それだけで、瑠璃はほっとしていた。
だが、このままでは新たな恐怖が生まれる。ここから無事に脱出しなければ。頼れる者はもう何処にもいない。
白珠は瑠璃の胸で泣きながら、何度も何度も訴えてきた。
「魔女さまが……魔女さまが逃げろって……!」
嗚咽を漏らす彼女を宥めながら、瑠璃は囁いた。
彼女に傷はないが、白い身体も衣装も、血で汚れていた。誰のものなのか聞くまでもない。
「全部は言わなくていいわ」
白珠のその様子だけで瑠璃には十分伝わった。
最初に紅玉が死んだ。その知らせをもたらしたのは、瑪瑙であった。
翡翠の部下に取り囲まれながらも、彼は最期まで勇敢に戦った。彼の部下もまた、彼が息絶えるまでは我が身も省みずに戦い、多くの兵を道連れにしたらしい。
けれど、数の違いが勝敗を決してしまった。愛する人の名を唱えながら、紅玉は無数の傷を負って力を失ってしまったのだ。そこへ翡翠がゆっくりと近づき、何かを訊ねた。
それに対し、紅玉は笑いだし、そのまま自らの胸に剣を突き立てたのだという。翡翠が一瞬だけ動揺を見せたが、無理に剣を奪うことはなかったという。
辺りはしんと静まり返り、やがて、ドサリと音を立てて紅玉の身体が大地に横たわった。その体が動くことはもうなかった。
その途端、紅玉の部下たちは散り散りとなり、統率を失った。金剛の部下であった胡蜂たちもまた、一気に不利になり、そのまま押し切られるように敗れてしまった。こうして戦える者たちは消えてしまったのだ。
瑪瑙はその全てを見届けると、急いで地下へと戻って来た。地下に身を潜めるのは今や瑠璃を含めた三人だけ。金剛の手駒の中でも力のない三人だけがここにいた。
紅玉の部下たちは、姿を消している。しかし、その全員が死亡しているなんてどうして信じられるだろう。
だから、地下空間の隅で、瑪瑙は今も必死になって彼らを呼び戻そうとしていた。
「誰か……誰かボクの声が聞こえないの……?」
紅玉の力を受け継いでいる彼には、その権限がある。そのはずなのに、紅玉の部下たちはなかなか現れない。
まさか全員死んでしまったのか。そんな恐れが瑠璃の頭にも浮かび始めたその時、ようやくふたりの精霊が現れた。名も無き蜥蜴の男性と、雷電である。二人とも目立った怪我はなく、疲れも窺えない。瑪瑙の前で丁寧に膝を折り、軽く頭を下げた。
「やっと来てくれた」
瑪瑙はほっと息を吐いて、二人に向かって言った。
「紅玉さまがお亡くなりになった。これからはボクが指揮を執る。奴らと戦うんだ。紅玉さまと魔女さまの無念を晴らさないと!」
だが、二人は表情を変えないままじっとしていた。
蜥蜴の男性が顔を上げ、じっと瑪瑙を見つめる。
「お言葉ですが、瑪瑙さま。それは出来ません」
想定外の反応だった。
瑪瑙は目を丸くして、思わず声を荒げた。
「どうして!」
衝撃を受け止めきれないその姿に、雷電が苦い表情を浮かべながら答えた。
「お許しください。これは命令なのです」
「命令って? ボクは……ボクは紅玉さまの正統な後継者なのに――」
「それは、承知しております。ですが、瑪瑙さま。あなたもお聞きしたことはあるでしょう。紅玉さまのお力を継ぐのはあなただけではないのです。あなたより優先してお仕えすべき御方は他にいらっしゃるのです」
蜥蜴の言葉に、瑪瑙がわなわなと震える。
「他の後継者……」
そこへ、雷電が補足するように口を挟む。
「紅玉さまの領地には、正統な後継者として血を分けた弟君の蒼玉さまがおられます。かねてからの規則により、紅玉さま亡き後、我らの所有権は蒼玉さまに移るのです。これは蒼玉さまのご決断なのです。紅玉さまも金剛さまもいらっしゃらない。そんな要塞は胡蜂の好きにさせればいいと」
「そんな……そんな……!」
瑪瑙が怒りを露わにする。だが、癇癪を起したところで蜥蜴や雷電にはどうしようも出来ないのだ。さらにはこの場にはいないその蒼玉とやらに文句をいう事もできない。
瑠璃はそっと彼らに声をかけた。
「それで、あなた達も、これ以上戦わずに退却するというわけね」
蜥蜴が深く肯いた。
「どうやら新しい主さまは、紅玉さまとは違うお考えをお持ちのよう。一応、我らも瑪瑙さまのこともお伝えしたのですが、どうやらそのご決断に影響はなかったようです。こうなれば、私共に出来ることは何もありません。命じられたことに従うのみ。それが大精霊に囚われた隷従の掟なのです」
その言葉を、瑠璃は黙って受け止めた。
魔力で囚われた彼らは、永遠に魔力に縛られる。その行動の源は、義理や情の世界とは無縁だ。紅玉が亡くなり、瑪瑙が引き継げないと決まってしまった以上、彼らを責めても仕方はないのだと、瑠璃は辛くも納得した。
「これでお別れです。瑪瑙さま。しかし、これがしばしの別れであることを我々は祈っております。再会する頃には、あなたにもあなただけの隷従がいることを願っております。どうぞ、それまでご無事で」
雷電はそう言って、瑪瑙の頬に触れ、そのまま消えてしまった。瑪瑙が慌ててその手を握ろうとしたときには、蜥蜴共々何処にもいなくなっていた。
行ってしまったのだ。新しい主人のもとに。本来の領地を治める新しい蜻蛉の王の元へ。
「ああ……そんな……そんなことって」
瑪瑙は項垂れ、地面に手をついた。
「もうおしまいだ」
涙を滲ませながら悔しがる彼に、白珠がそっと声をかけた。
「瑪瑙。諦めないで。おしまいじゃないわ。外に出ましょう。まずはここから逃げるの。強くなってから、また戦えばいいじゃない。わたし達で力を合わせれば、きっと――」
瑠璃はふと白珠の表情に気づいた。
再会の喜びに惑わされていたのだろうか。先ほどまでは気づかなかったあることに気づいたのだ。蜜の様子が違う。目の様子が違う。今までのか弱さや守ってやりたい魅惑は変わっていないが、そこに一滴だけ異質なものが加わっている。明らかに、月花の生まれ持つものではない。
いうなれば神秘の気配とでもいうべきもの。とてつもなく大きく、恐ろしいもの――たとえば、金剛のようなものを思わせる何かが、白珠の心身には宿っていた。
瑪瑙はじっと白珠を見つめ、そして、自分の目にあふれ出ていた涙をぐっと拭き取ると、不思議そうに問いかけた。
「白珠。もしかして君は――」
その時、階段の向こうで声が響き渡った。
「この下をまだ見ていないな」
胡蜂たちの声だった。瑪瑙も瑠璃も慌てて身を屈める。瑠璃は白珠を隠し穴に押し込むと、瑪瑙に声をかけた。
「逃げましょう。外に出るの」
瑪瑙は黙って頷いた。
悲鳴はもうあがらなかった。壁の向こうから聞こえてくるのは荒々しい話し声と部屋を荒らしている音だけ。一番求めていたらしき人物はすでに囚われ、これ以上、何を探すというのか。瑠璃は彼らの意図をしばし考え、そして内心震えながら白珠に続いた。白珠は黙々と出口を目指して進んでいる。迷いなく進めるあたり、勝手な行動癖がついていたことが幸いした。
あとは無事にここから脱出し、胡蜂の魔の手の届かない場所へ逃れるだけ。そのための出口の明かりが見えてくるようになった。
「もうすぐ外に出られるわ」
白珠が呟き、足早に先へと進んでいった。
この通路から出た先の事を瑠璃はあまりよく知らない。金剛が主人になってからは、碌に外も歩いていないのだ。だが、何処に続いていようと恐ろしい翡翠の視界から逃れられれば十分だった。
――金剛……銀星……。
不意に頭を過ぎる彼女らの顔に胸を痛めながら、瑠璃は希望の光へと進んでいた。死の悲しみに浸るのも後だ。今はとにかく生き延びなければ。
そしてようやく光に到達した。白珠が飛び出すように外へと抜け出していき、瑠璃もそれに続いた。眩い光に迎えられ、高い壁の中とは違う開放的な空気に包まれる。
自由だが安全の低い世界へと解き放たれて、一気に視界が広がる。その変化に一瞬だけ怯んでしまったせいで、瑠璃はその恐ろしい事実に気づくのに遅れてしまった。
光に目が慣れてくると、とんでもない光景が目の前に広がっていた。
先に外に出た白珠が、誰かに囚われている。自分たちをぐるりと取り囲む彼ら。その顔、その目の恐ろしさがじわりと伝わってくる。
瑠璃と白珠を待ち受けていた者。それは、胡蜂たちだった。その光景に瑠璃は一瞬だけ頭の中が真っ白になった。だが、すぐに我に返って叫ぼうとした。
「瑪瑙! 来ては駄――」
全ては言わせてもらえなかった。信じられないほど強い力で拘束され、息苦しくなるほどに締め上げられた。やがて何も知らずに顔を出した瑪瑙も、瑠璃の目の前で引きずり出されてしまった。
瑠璃は茫然とした。取り囲んでいるのは胡蜂たちばかりだ。希望はもうないのだろうか。どんなにもがこうとしても、胡蜂の力には抗えなかった。
こうして瑠璃たちの脱出は残酷にも失敗したのだ。
「思わぬ収穫だ」
胡蜂の一人がにやにやと笑いながらそう言うと、じろりと瑠璃の顔を確認した。
「間違いない。あの高台にいた胡蝶だ。食糧の分際で淫猥な鱗粉をまき散らし、我らの姉妹の心を弄んだ。こいつのせいでどれだけの姉妹が犠牲となったか。捕らえたとなれば、きっと女王陛下もお喜びになる」
「お手柄ですね、姉さま」
部下の言葉に胡蜂は満足そうに頷いた。
「さっそく陛下にご報告しよう。どのような処罰をお与えになるのか、今から楽しみだ」
そして、抵抗する間もなく瑠璃たちは連行された。
慣れ親しんだ家を恐ろしい殺戮現場にしてしまった女王の元へ。未来への夢も希望も全てを失い、ただ死を覚悟して絶望しながら、瑠璃は胡蜂たちに大人しく従い、何度も何度も考えた。
――せめて、この二人だけでも助けてもらわないと。
その為の口上を必死に思い描いた。だが、上手くまとまる前に翡翠の待つ場所へとたどり着いてしまった。
新たな侵略者は高台にいた。金剛と紅玉が仲良く過ごしていたあの高台の閨。胡蜂の第一王女が命を落としたその部屋の前で、待ち構えていた。瑠璃が金剛と共に侵略者たちを見下ろしたときと同じような姿で、今度は瑠璃たちを見下ろしている。
その真下へ瑠璃たちが投げ出されると、冷たい印象の緑の目がぎらりと光った。
いよいよ、運命が決まってしまう。魂まで凍り付いてしまいそうな空気の中で、瑠璃はひたすら白珠を庇いながら、女王の顔を見上げたのだった。




