30.戦いの予感
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夕餉が終わると、白珠はすぐに疲れて眠ってしまった。その温もりをぎりぎりまで楽しむと、瑠璃は彼女を優しく寝かせ、珍しく早く眠ってしまった銀星を起こさぬようにそっと地下を後にした。
金剛と紅玉は今も高台の部屋にこもって話し合いをしている。別室では胡蜂たちが体を休めているらしい。ぴりぴりとした空気は今も漂っていた。
そんな状況だからこそ、瑠璃はじっとしていられなかった。
もう誰の邪魔にもならないと分かっていたので、いつものように屋根の上へと行きたくなったのだ。
階段を上がっても誰にも咎められはせず、広間を突っ切っても誰にも声を掛けられない。そのまま屋根の上へと登ったところで、美しい月と満天の星の輝きに出迎えられ、瑠璃は一瞬だけ目を奪われてしまった。
世界はこんなに美しいのに、今も恐ろしい敵意が自分たちに向けられている。
その嘆きを胸に留め、瑠璃は夜景を眺めた。どんなに美しくとも、不安を拭ってはくれない。今もこの森の何処かで、翡翠はここを襲撃するための計画を進めているのだ。そう思うとじっとしてはいられなかった。
せめて、気を落ち着かせるためにも、瑠璃は自ら見張りを続けた。
「……怪しい者は誰もいないようね」
倦怠感を含むため息と共に呟いたその時、微風と共に瑠璃の隣に座る者が現れた。
「戦士の真似事では飽き足らず、夜間警備までするとは大した度胸だ」
瑠璃はその顔を見つめ、露骨に嫌悪する。
彼だ。同じ胡蝶であるにも関わらず、口を開けば皮肉ばかり言うために嫌いになった名も無き青年。それでいて、金剛には将来を約束させられ、気が滅入ることこの上ない。恋の季節が来れば、嫌悪も忘れると囁かれたが、それでますます苦手になったのは、誰にも言えない瑠璃の悩みだった。
彼にもそんな瑠璃の心情は伝わるのだろう。彼もまた瑠璃に対する言葉には何故だか嫌味が多い。今回も同じだった。
「我々に任せて眠らず、わざわざ姿を現すところからして、きっと警備の自信があるのだろうな。そうでなければすぐにでも戻って欲しいところだが」
「無駄口を叩きに来たの? 紅玉さまの部下って意外とお暇なのね」
瑠璃は透かさず嫌味を返した。
だが、胡蝶の青年にはあまり通用していないようだった。
「味方の行動を監視するのも俺の仕事なものでね。誰かさんに似て勝手な行動がお好きなお嬢さんがここにはいるから」
白珠の事だとすぐに分かり、瑠璃は口ごもった。
胡蝶よりもさらに弱い月花である彼女。それにも関わらず、本人は自分のか弱さとその危険な魅惑に関してあまりにも無自覚だと瑠璃は常々感じていた。どんなに言い聞かせても、勝手な行動を止めようとしない。金剛の命令の穴を見つけては、自分の意思を優先してしまうのだ。
――誰かさんに似て。
この同胞の青年の言うことは、瑠璃にも納得出来てはいた。自分が金剛の勝利を支えようとしているように、白珠だって自分に出来ることを一生懸命見つけようとしているのだ。
銀星だって、それを分かっていたから、命令されている以上に白珠を止めようとはしない。そのお陰で、地下に追いやられていた昼間の出来事も、白珠の目を通して目撃することが出来たのだ。
無論、自分だってそうだ。
「必死なのよ。白珠も、私も」
瑠璃が呟くと、胡蝶の青年は隣に座ったまま、遠くを見つめだした。
特に追い払う様子も、無理に連行する様子もない。落ち着いた態度だった。意外なその振る舞いに、瑠璃は思わず訊ねてしまった。
「追い払ったりはしないのね?」
すると青年は瑠璃を見つめて、訊ね返す。
「追い払われるようなことでもするつもりか?」
そして再び月の輝く森の遠方へと目を向け、呟いた。
「俺の役目はここから敵を見渡すことだ。安全ならば、君に戻ってもらう理由もない。これがかの月花ならば話は別だったけれどね」
「……そう。有難いわ」
そう言うと、瑠璃はくるりと反対方向へと座り直した。見つめるのは青年の逆の方向。彼の視界から逸れる場所を眺め続けた。胡蜂の王国とは反対方向だが、警戒するに越したことはない。ただの気分転換ではないことを行動で伝える意味もある。
胡蝶の青年は呆れたようにため息を吐いたが、瑠璃を咎めたりはしなかった。
「雷電たちが王国の姉妹に襲われたのよね」
そっと青年に声をかけると、すぐに短い返答があった。
「ああ。そうだ」
素っ気なさを気にせずに、瑠璃はさらに訊ねる。
「女王は我が子が可愛くないのかしら。自分で産んだ子たちなのでしょう?」
「他種族の女王の気持ちなど俺は知らない。分かっていることはただ、翡翠さまの命令で俺たちの味方が傷ついて帰ってきたということだ。これで済むわけがない。彼らはすでに次の戦いに備えているようだ」
「次の戦い……まだ諦めていないのね」
「そうだろう。次こそは金剛さまと紅玉さまを捕らえ、ここを占領して全てを奪い去るつもりらしい。姫を倒した銀星の事もすでに伝わっている。女王は激しく怒り、自らの手で仇を取るつもりでいるらしい」
――女王自らが。
その言葉に、瑠璃は震えた。普通ならば王城の奥でひっそりと暮らしているはずの女王蜂の精霊。敵と戦うのは娘たちであり、自ら戦うことは殆どない。そんな彼女が己の手を汚すようなことを宣言しているなんて。それほど恨みは強く、怒りは高まっている。
次にまたここが攻められれば、今度は前のようにいかないかもしれない。訓練に訓練を重ねるだけで大丈夫なのか。もしも負ければ、全てが略奪される。銀星の祖国で起こったことを想像し、瑠璃は恐怖を感じていた。
――ここには白珠がいるのに。
「こんな戦いを続けて、何になるっていうの」
夜の冷たい空気の中へ、瑠璃の嘆きの言葉は吸い込まれていく。さほどこの世界に響きはしなかったが、それでも隣にいる青年には聞こえている。だが、構わずに、瑠璃は嘆き続けた。
「女王はどうして金剛に兵を向けるの。それが月の女神への忠誠心からだなんてとても信じられない。どうして、彼女は銀星の祖国を滅ぼしたの」
「それだけ肉食花を恐れているのさ」
胡蝶の青年は小声で言った。
「二十年もの間、肉食花は生き延び、月の女神を狙い続けている。それまでに大勢の大精霊が奴に立ち向かい、そして死んでいった。大精霊の敗北はただの敗北とはならない。その亡骸が、報酬として敵に奪われるのだ。この二十年、肉食花に敗北し、その魔力の増強剤になりさがった精霊は数知れず。魔力をため込んで肥大した奴の欲望を打ち砕くには、こうするしかないと判断したのだろう」
「こんなの、間違っている」
瑠璃は否定した。彼に言っても意味がないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
「その為に、紅玉さまが……金剛が、尊厳を踏みにじられていいわけがない。多くの命が散らされて、犠牲になって、それで月の女神は喜ぶというの?」
空に輝く美しい月を見上げ、瑠璃は嘆き続けた。
「この戦いさえなければ、私も白珠も平和に暮らせていたかもしれない。朱花も生きていたし、銀星の王国は滅びたりしなかった。そして、あなたも、紅玉さまに魂を奪われずに自由に暮らしていたかも――」
金剛の機嫌取りのために紅玉に囚われたのが隣にいる彼だ。そのことを彼自身も自覚しているらしい。そのせいか、瑠璃の言葉に胡蝶の青年は明らかに動揺を見せた。
「たられば話なんて止せ。虚しくなるだけだ」
力なくそう言われ、瑠璃は彼をそっと振り返った。
「今のあなたも……虚しくなることがあるのね?」
確かめるように訊ねると、胡蝶の青年は俯き気味に答えた。
「そのくらいの自由はある。だが、それも俺の気持ち次第だ。もしも、紅玉さまに望めば、この苦しみもなくなるらしい。全ては命令次第なのだそうだ。命令次第で、楽になれる。俺もまた感情を失い、ただ主人に忠誠を尽くすだけの存在になれるのだと」
「それが紅玉さまのお力なのね。……なんて怖い」
憐れむようにそう言ったが、すぐに瑠璃はハッとした。
金剛だって同じような力を持っている。紅玉の部下ほど窮屈でなくとも、蜜薬を飲んだ自分だって以前のような自由は何処にもないのだ。
今の自分は金剛のために存在し、金剛が許してくれるから白珠を愛することが出来ている。その恐ろしさを忘れかけていることに気づいたのだ。
「大精霊って恐ろしいのね」
敵対している翡翠の魔力とは、どんなものなのだろうか。
そして、敗北してしまった黒曜――銀星の母親はどんな力を持っていたのか。全力でぶつかり合う時、金剛や紅玉は翡翠を負かすことが出来るのか。
「この戦い、勝機はどのくらいあるのかしら」
姫には勝てた。だがその次は。
きりのない焦りに怯えが高まる瑠璃の横で、胡蝶の青年は淡々と答える。
「さてね。無残に負ける可能性だって十分ある。……だが、たとえそうだとしても、紅玉さまが諦めない限り、俺は逃げない――逃げる選択肢などない」
諦めの強い言葉ではあったが、それでいて絶望はあまりないようだった。胡蝶らしい臆病さも、傲慢さも感じられない。同胞でありながら、彼は根本的に違う。きっと変えられてしまったのだ。
少なくとも主君への情からの動機ではない。そのことを感じ取り、疎外感を覚えつつ、瑠璃は黙って前を見つめた。誰かが来る様子はなく、ただ穏やかな風だけが吹いている。
「私だって、逃げる選択肢なんてないわ」
呟くようにそう言って、瑠璃は森の景色を見渡し続けた。
ぴりぴりとした空気は変わらない。だが、何事もないまま、時は過ぎていった。




