3.ささやかな不安
◇
白珠が大人になってから、七回ほど朝日が昇った。その頃になると新しい生活もだいぶ馴染んだものとなった。
広すぎる我が家にはさまざまなモノが眠っている。花畑も、通路にも、あらゆる部屋にも、そして秘密裏に存在する地下の空間にも、精霊たちの世界ではあまり見慣れない物品の数々が置かれていた。
きっとそれは元々この場所に暮らしていた人間の私物だったのだろう。それは、大人になったばかりの白珠でも想像できた。だが、そんな物珍しい品物たちも、白珠の心を埋めることはできなかった。
昼の時間となった今、瑠璃はここにいない。朝食と夕食は必ず共に過ごしているが、太陽が高く昇り、沈むまでは外に暮らす他の精霊の元へと出かけてしまうのだ。
そこでも食事をしているのだと瑠璃は隠さずに教えてくれた。白珠の蜜だけでは足りないらしい。胡蝶が生きるためには仕方のない事だと言われ、納得したが、やはり一人は寂しかった。
――わたしがもう少し成長出来たら、瑠璃も出掛けなくて済むのかな。
大量の物品の中から退屈しのぎを見つけようとしても、すぐにそんな劣等感が生まれてしまい、白珠は落ち着かなかった。
そして、悶々とした気持ちを抱えているうちに、白珠はふと気づいた。もしかしたら自分は、外で瑠璃を待っている精霊たちに嫉妬しているのかもしれないのだと。
――瑠璃が好きなのはわたし。瑠璃の一番はわたしなのよ。
毎朝のように白珠はお腹の空いた瑠璃のキスで目を覚ます。その後は互いの絆を確かめ合うように抱きしめ合い、そして朝食へと流れていく。
一日の始まりは、白珠にとってこの上なく幸せな時間だった。
それだけに、昼には大事な仕事があった。水と日光と土から感じる月の女神の神力を体に満たさなければならないのだ。この時にきちんと過ごせていないと、体調が整わず、瑠璃に与える蜜の量や質に悪影響を及ぼしてしまう。つまり、夕食を存分に楽しめなくなってしまうのだ。
だから、寂しくとも白珠は暗がりなどには籠らずに、水と日光と土を求めて花畑で過ごしていた。退屈であっても、この行為が後の楽しみを産むのだと思えば、まだ耐えられた。
帰宅した後の瑠璃は、朝よりずっと深く白珠を愛してくれる。夕食はとても濃厚で、瑠璃の導きで生み出される蜜の香りも非常に甘い。朝の倍以上の時間をかけて、瑠璃は白珠の心身に口をつけていくのだ。その営みは、瑠璃にとっては単なる食事であったとしても、白珠にとっては全く違うものだった。
蜜を奪われながら、白珠はいつも瑠璃を求めていた。
――愛しているわ、瑠璃。
興奮気味に舌を這わせながら、さらなる蜜を要求する瑠璃に全てを託した。
蜜を求めて瑠璃は甘く囁いてくる。その度に、白珠は解放感に見舞われた。
求められるままに与え、奪われながら、毎夜のように白珠は月花として生きる意味を知っていった。
自分の身体は瑠璃を満足させることが出来るのだ。大人になって初めて気づいたその事実は、白珠にとって思ってもみなかった悦びであった。
瑠璃が自分を求めている。
自分の蜜に酔いしれている。
その光景がとてつもなく愛おしく、たまらない。
だからこそ、白珠は、瑠璃の望むことならば何でも叶えてやりたかった。
瑠璃が何のために念入りに愛してくれるのか、白珠は知っていた。外に出かけては、その日に関係を持った他の花の話をする理由は何故なのか。それも、理解していた。
特に語りたがるのは、白珠と同じく若い月花の青年たちの話である。複数の候補者がいるが、無作為ではない。それぞれに瑠璃のお眼鏡にかなう特徴があり、選ばれた理由があった。
そんな彼らと関係を持ってすぐに瑠璃は帰ってきているという。その後で待っている深い接吻にどんな意味があるのか、白珠はもう既に知っていた。母親すらも恥じらって教えてくれなかったことを、瑠璃は実践の中で詳しく教えてくれたのだ。
――あなたはいずれお母さんになるの。
瑠璃は優しく語り掛け、下腹部に触れる。
――月花の女性は数か月、お腹の中で子を育てるの。獣たちのように。その日が待ち遠しいわ。
冷静な声色だったが、その目は期待で満ち溢れていた。
白珠は昨夜見た瑠璃の顔を思い出しながら、彼女が触れた下腹部に自分も触れてみた。
愛された記憶は残っても、実感は長くは残らない。母親になればここに子が宿ると言われても、なかなか想像はつかなかった。
それでも、母親がお腹を痛めて自分を生んだことは白珠も知っていた。白珠と共に一度に八人もの子が産まれ、そのうちの六人が無事にひと月を越えたことは何度も聞かされたのだ。
年違いの妹や弟が宿り、無事に生まれた記憶もあったが、その前に、母が何をしていたかまでは白珠には思い出せない。だが、大人になってようやく、自分が生まれた時も、弟妹が生まれた時も、自分が瑠璃としたようなことをしたのだと気づき、それとなく気恥ずかしさを覚えていた。
「お母さん、か……」
ひとり呟きながら、白珠は広すぎる住まいを歩んだ。
花畑は広く、訪れるのは物言わぬ虫や小さな精霊ばかりだ。運が良くてネズミなどの小さな動物や歌の上手い小鳥たちが迷い込んでくる。それでも、精霊でなければお喋りの相手にもならない。
白珠は寂しかった。仕方ない事とは言え、瑠璃のいない間はひとりきりだ。朝と夜に胸がいっぱいになるくらい愛し合うだけに、その反動は大きい。いつかはここも賑やかになる。それが瑠璃の口癖であった。しかし、それは今日明日のことではない。今この瞬間の白珠の寂しさや孤独を癒してくれるのは、小鳥のさえずりくらいのものだった。
それに、待っている間はとても不安だった。瑠璃は様々なことを教えてくれるが、精霊の世界の真実を全て話してくれるわけではなかったのだ。
「お母さん……」
白珠が常々思い出すのは生家に残した母の事である。彼女はいつも我が子らに向ける笑顔を絶やさない精霊であった。けれど、一度だけ白珠たちの前にも関わらず、さめざめと泣いた日があったのだ。
それは、白珠の母が母となる前より付き合いのあった、とある蜜蜂の精霊が死んだと聞かされた日のことだった。
その詳細を報告したのは別の蜜蜂であった。同じ母を持ち、とても似た容姿をしていても、その中身は同じではない。白珠の母はその死に衝撃を受け、しばらくの間は寝込むように泣き暮らした。
いつもとは違う母の姿を兄弟姉妹と共にこっそりと見守ったことを、白珠は強烈に覚えていた。幼い白珠たちの印象に残ったのは、その蜜蜂の最期についてだった。
――彼女は花蟷螂に捕まり、生きながら食い殺されてしまった。
その時、白珠は知ったのだ。母に会いに来る精霊たちは、普段から恐ろしい敵に狙われているということを。そして今、白珠は分かっていた。胡蝶もまた同じなのだと。外の世界で瑠璃を待っている精霊は、美しい花だけではない。肉食精霊と呼ばれる存在が隠れ潜んでいることを。
白珠は怖かった。
瑠璃の帰りが少しでも遅いと不安で仕方なかった。
肉食精霊は多種多様だ。蟷螂だけでなく、蜘蛛や胡蜂、蜻蜓、蜥蜴、小鳥、小蝙蝠などの精霊が隠れ潜んでいる。瑠璃は毎日、その全ての危険を掻い潜って遠出をしている。それが、あまりにも怖かった。
外での様子を訪ねても、瑠璃は笑って誤魔化すばかりだ。どんな聞き方をしても答えはしないと分かる態度をとられ、白珠は早々に聞きだすことを諦めてしまった。
聞かない方がいいのかもしれない。だが、聞かないまま待ち続ける日々では不安も解消されない。白珠は今も聞きたかった。危険なことはしていないか。恐ろしい肉食精霊が近くにいないのか。
瑠璃は聞かれたくないかもしれない。しかし、このままでは、甘い生活に浸りきれない。
白珠はそう感じ、心に決めた。
「今日こそは、瑠璃に訊ねてみよう」
教えてくれなかったとしても、諦めずにどうにか聞かせてもらうのだ。森での危険をもっと教えてもらいたい。どのように過ごし、どのように危険を回避しているのかを教えてもらいたかった。
たとえ瑠璃が嫌がっても、いつもより少しだけ粘ってみよう。
その結果、瑠璃に嫌われてしまわないかという恐れはあったが、何も聞かないでいるままだと気がおかしくなってしまいそうだったのだ。
――大丈夫。月の女神さまがついていらっしゃるわ。
寂しさと不安をそんな言葉で癒しながら、白珠は瑠璃の帰りを待ち続けた。
天窓から見える空は、まだ明るい。日が沈むまでまだまだかかりそうだ。それでも、さっきよりも太陽は傾いている。そのことを感じながら、白珠は自分を励まし続ける。
そうして今日も白珠は、退屈な時間に耐え続けた。