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28.約束の言葉


 風の冷たさが素足を冷やす夜、月光に照らされた広間を瑠璃は静かに歩んでいた。

 向かうのは、紅玉の部下たちによって掛けられた梯子。そこを登れば、飛ぶ才能や元気のない精霊でも住まいの屋根へと登ることが出来る。屋根からは周辺の景色が一望でき、とても眺めがいい。その分、飛翔できる精霊たちに見つかる恐れはあるが、ここ最近の瑠璃にはさほど恐れる理由もなかった。


 いつだって紅玉の部下たちが見ていてくれる。それに、胡蜂との戦乱があって以来は、この要塞の秘密はすっかり知られてしまった。白珠の罠にかかるような者はもういないだろう。その欠点を補ってくれるのが、洗脳した胡蜂の兵たちによる狩りである。その成果はなかなかのものであるらしい。

 

 彼らの襲撃は恐ろしいものだったが、そのお陰で白珠は再び瑠璃のものとなり、さらにこうやって多くの敵に怯えずに眺めを楽しむという贅沢が出来るようになった。せっかくの恩恵だ。それに、いつまでこうした暇を潰せるは分からない。そう考え、瑠璃は暇さえあればよく屋根へと登り、景色を楽しむようになっていた。


 屋根の上を好む者は瑠璃だけではない。いつも、誰かがそこにいる。

 紅玉に捕まった精霊の誰かが故郷を懐かしむように一点を眺めていることもあれば、瑪瑙が深刻そうに周辺を見張っていることもある。時には紅玉や金剛がいることもあった。


 だが今宵の先客はそのいずれでもなかった。

 銀星。この度の戦いで大きな手柄を立てた戦士が美しい髪をなびかせながら月を眺めていたのだ。瑠璃が来たのに気づくと、軽く視線を送り、僅かに分かる程度の微笑みを浮かべ、問いかけた。


「眠れないの?」

「……そんなところね」


 瑠璃は素直に返事をし、その隣に座る。共に月を眺めながら、夜風を感じていると、銀星の手がそっと瑠璃の手の甲へと触れた。


「今宵の月は美しい。あの輝き。神々しさ。まるで君の鱗粉のようだ。胡蜂たちの心を捕らえ、私たちの勝利を導いてくれた」

「そうかしら」


 瑠璃は月を見上げながら、呟くように言った。


「私にはあなたの輝きに見える。敵を翻弄する速さで接近して、次々に胡蜂たちの懐に潜っていったあなたの姿にそっくり」


 姫が討ち取られた瞬間を、瑠璃は見ていない。耳に届いた音と、そして、背中で感じた風だけだ。その風の感覚がいつまで経っても瑠璃の身体から消えなかった。

 銀星は瑠璃の力を味方につけて胡蜂たちを素早く倒していった。味方を有利にさせることしか出来ない瑠璃にとって、その圧倒的な動きは羨望するほどのものだったのだ。


 だが、銀星は笑みを漏らした。


「私が月だなんて。王国で必死に働いていた時には考えもしなかった。あの時だって戦士だったはずなのにね」


 目を細め、そしてため息交じりに呟く。


「きっと、平和ボケしていたんだ。危険な状況だと言われても、実感できていなかった。正しく危険を予知できたのは女王陛下だけ。あの日の直前に王子や王女を旅立たせていなかったら、我が国の血筋や偉大なる大精霊さまの系譜は途絶えていただろう。今の私に願えることは、せめて平和な場所に新しい国が築かれていること。黒曜さまのお力が正しく後世に残ることだ。仇討ちという危険な義務は、亡国の住人であり続けるしかないこの私だけが背負えばいい」


 虚ろな目で月を見つめている銀星の手を、瑠璃は優しく握りしめた。

 彼女の戦い方は、訓練や紅玉の部下たちによる忠告などによってだいぶ改善された。それでも、その根本にある心の傷はなかなか消えそうになかった。


 祖国を滅ぼした相手を殺した今、彼女の目に映るのはそれを指示した憎き胡蜂の女王だけ。彼女の命を受けてやって来る者はもちろん、娘の仇を討つために自ら攻め込んで来ようものなら、喜んで戦乱に飛び込もうとするだろう。その危うさは、こうして平穏の中で共に過ごしている今でさえも瑠璃に伝わってきた。


「それを背負うのは、私たちも一緒よ」


 瑠璃は小声でそう言った。


「私たちにだって戦う理由はある。金剛のためというだけではないわ。ここが平和になれば、私と白珠の平穏な生活が戻る。それに、あなただって一緒よ。白珠はあなたを生かしてもらえて嬉しいみたい。戦う必要がなくなっても、共に暮らすだけでありがたいと思うでしょうね」

「……白珠か」


 銀星は瑠璃の手から逃れてそのまま頬杖を突く。薄っすらと笑いを浮かべたまま遠くを見つめ、夜風を浴びながらそっと目を閉じた。


「甘い香りがする。何処かでか弱い花が貪欲な蜜食精霊の食事に付き合わされている匂いだ」


 銀星はそう言ってから、目を開けた。


「白珠の蜜はとても美味しかった。だが、楽しんでいたのは味だけじゃない。仕草や反応、そして蜜食精霊を喜ばす技に長けていた。今なら、あれらは全部、金剛に仕込まれたものだと分かるけれど、あの当時は思いもしなかった。だから、騙されたと知った時は憎んだくらいだ。それ以上に、哀しい気持ちが勝っていたけれどね」

「今はどうなの?」


 瑠璃の問いに、銀星は笑みを薄める。


「哀れに思う」


 きっぱりとそう言った。


「花の中でも月花という種族は特に戦いを嫌うものなんだ。それに、自分の身体を深く知った精霊を見捨てられない性質なんだと昔、叔母たちが言っていた。胡蜂どもとの戦乱では、それを実感できたよ。隠し通路から這い出してきた白珠は、真っ先に私の怪我の有無を確認したんだ。目の前で敵を殺すという恐ろしい光景を見ていたはずなのに、泣きそうになりながら、興奮の治まらない私を震えながら労わってくれたんだ」


 銀星の言葉に、瑠璃はそっと戦いの記憶を思い出した。あの時、金剛が戦いを終わらせるべく戦場へと飛び降りた後で、白珠は背中からふわりと抱きしめてくれた。安全な場所に隠れているはずなのにとただただ驚くばかりだったが、その感触に癒されたのは確かだった。

 だが、哀れだなんて。


 銀星は続けて言った。


「本当はあんな光景を見たくなかったんだと思う」


 そして、額に手を当てる。


「それでも、不満なんて口にしなかった。ただ、私に怪我がないことを喜んでくれたんだ」


 金剛に捕まり、穢れ仕事を押し付けられても変わらないものはある。瑠璃にはその光景が手に取るように分かる。

 だが、銀星は意外だったのだろう。俯き気味のその表情には、戸惑いが含まれていた。


「今の私が生きているのは、敵討ちをするためだけだ」


 銀星は言った。


「翡翠とかいう憎き女の命を奪い、女王陛下ははうえや姉妹たちの無念を晴らすんだ。その為になら命だって懸けられる。志半ばで私が死んだとしても、翡翠さえ道連れに出来ればいい。その後は、胡蜂どもに殺されようと、金剛に使い捨てられようと構わない……そう思ってきた。その為だけに生きてきたはずだった」


 でも、と、銀星は自分自身を抱きしめる。


「白珠を見ていたら、ふと考えてしまったんだ。平和を取り戻したら、彼女はもっと笑ってくれるだろうか。君との日々に酔いしれて、もっともっと甘い香りをまき散らすのだろうかって。その香りを少しだけでも嗅いでみたいってね」


 それは、銀星にとって初めての感覚だったらしい。

 女王や姉妹が死んだというのに、復讐の果てにある未来を思い描いてしまうことへの戸惑い。その悩みを口にする銀星の言葉に耳を傾け、瑠璃は静かに寄り添った。復讐のためならば死ねるという激情から、未来を目撃するために生き延びたいという願望へ。

 その変化に一番驚いているのは、銀星自身だった。


「私は……未来を目撃してもいいのだろうか。勝ったところで王国は戻らない。ここは、私の愛した祖国ではない。金剛は……黒曜さまではない。それでも、私は生き延びても構わないのだろうか」

「いいに決まっているじゃない」


 瑠璃はそっと声をかけた。


「これは、未来を手にするための戦いだもの。その為に、何も死ななくたっていい」


 銀星の手に触れながら、瑠璃はその横顔を見つめる。


「一緒に未来を生きよう」


 勝利の果てにあるのは希望だと瑠璃は信じていた。

 その脳裏に描かれた美しい未来のためならば命を張れる。だがそれは、自分自身もまた未来を手にすることが前提だった。銀星とは違う。その違いを瑠璃は常々感じていた。女王という絶対的な存在を失ったせいか、憎しみに囚われていたせいか、銀星の目に映るのはいつだって己の死であるように思えていたのだ。


 個の違いと捉えるか、種族の違いと捉えるか。いずれにせよ、瑠璃は歯痒い思いをしていた。こちらは次第に銀星という存在に慣れ親しんできたというのに、向こうはそうではないのだろうかと思うと寂しかったからだ。


 しかし、どうやら変化は遅れてやってきたらしい。


 月光の輝く夜空の下で、銀星はじっと瑠璃の顔を見つめた。王国を失った働き蜂である彼女。瑠璃の目にはその姿が紅玉の部下の一人である黒蟻の女性が度々重なる。だが、銀星の中にはいまだに魂が残っている。特別な力はなくとも、精霊たちが元来持っている尊さは失われていない。


 月光の似合う輝く瞳を瑠璃に向けながら、銀星は静かに頷いた。それは瑠璃にとって、また少し心を通わせられたと思える瞬間だった。

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