23.戦う胡蝶
◇
昼下がりの広間は相変わらず騒々しい。それでも、白珠にとっては貴重な休息時間である。
金剛の狙う獲物たちに吸われた蜜や消耗された体力が戻るまでの間、よく日の当たる広間の一角に座りながら見学するのは勇ましい精霊たちの稽古の様子。
銀星や紅玉の部下たちといった精霊たちが、胡蜂たちがいつ攻め込んできてもいいように体を鍛えている。その内容は、いつもと同じく、銀星のしつこいほどの訓練に紅玉の部下たちが付き合っているという形であった。
だが、今日という日、白珠はとても暗い気持ちでその稽古を見守っていた。
新しく加わった者がいたのだ。その新入りを見つめ、白珠は心を痛めていた。
――瑠璃。どうしてなの。
はじめに瑠璃が戦うという事実を教えてくれたのは、本人からではなく金剛からであった。
朝一番にその事実を告げられて以降、白珠はずっと気が重たいままだった。
瑠璃が戦うのならばわたしも、と金剛に訴えるも、それは呆気なく却下されてしまった。本来戦う種族ではない月花に出る幕はないという。
だが、白珠は納得がいかなかった。胡蝶だって無謀ではないか。紅玉の部下である名も無き胡蝶の青年は偵察に徹しているというのに。
それでも、白珠の訴えは届かないまま、瑠璃は澄まし顔で訓練に入った。
共に戦う銀星も、戦わない予定の瑪瑙も、金剛の決めた事に逆らうつもりは一切ないらしい。彼女の決定に気を重くしているのは、白珠だけであった。見守るしかないのだと分かっていても、白珠は怖かった。強引にでも止められるような強さが欲しいほどだった。
そんな白珠の恐怖を余所に、いよいよ稽古が始まろうとしていた。
銀星と瑠璃が並んで立っている。その前に立ちふさがるのは紅玉の部下の一人。大勢いる蜻蛉のうちの一人で、水色の体色が目立つ男であった。
「手加減はなしですよ」
紅玉の部下にしてはやや明るい印象の彼は、そうであっても肉食精霊に変わらない。石刀を構えただけで、白珠にはかなり威圧的に見えた。
彼の言葉に身構えたのは銀星だけであった。瑠璃は一歩下がり、緊張気味に呼吸を整えている。
――どうするつもりなのかしら。
不安は拭えないまま、白珠は隅っこからその様子を見つめる。
あの場に立っている以上、紅玉の部下たちが瑠璃に何もしないわけがない。
かつては戦士であった銀星でさえも訓練の中で流血することがあるのだ。瑠璃がいくら金剛のお気に入りだとしても、その言葉通り手加減はされないだろう。
金剛の許可も出ているのだ。これはお遊びではないのだと。
もしも瑠璃が怪我をしたら――想像するだけで、白珠は目眩がした。きっと見ていられないだろう。
しかし、目を背けたところで目の前で起こる出来事を止められやしない。せめて可能な限り、瑠璃を見守りたい。そんな思いで、白珠は固唾を飲んでその場に留まっていた。
「いくぞ」
銀星の短い掛け声に水色の蜻蛉と瑠璃が頷く。
先に駆けだしたのは蜻蛉の方だった。銀星はやや遅れて迎え撃つように飛び出していく。瑠璃はというと、その後ろで何やら集中しはじめた。
白珠は熱心に瑠璃の様子を見つめた。
彼女の眼差し。彼女の振る舞い。その吐息に何故だか胸が熱くなる。いつの間にか、白珠は瑠璃から目を逸らせなくなっていた。そして、頭に浮かぶ感情はただ一つ。
――なんて綺麗なのかしら。
急に蜜を吸われたいという気持ちが強まり、いたたまれなくなった。
間違いなくそれは、瑠璃の持つ鱗粉の力によるものだ。いかなる花もその気にさせる姿。眼差しだけではない。その全身が凶器となることを白珠は思い知った。
だが、この力が何の役に立つというのか。
か弱い花の精霊を捕らえるだけのこの力が。
疑問に思ったその瞬間、視界の外で呻き後はあがった。
「あぐっ――」
その声に、白珠はようやく瑠璃から視線を逸らすことが出来た。
いつの間にか水色の蜻蛉が腹を抑えてしゃがみ込んでいた。傍には銀星の姿。その首元に短剣を突き付け、勇ましい表情で見下ろしている。
「ふうん、なかなかだな」
彼女は短く言って、振り返りそうになる。だがその途中で止まり、苦笑した。
「おっと、危ない。振り返ってもいいか、瑠璃」
「ええ、いいわ」
瑠璃がそう言った瞬間、鱗粉の力が消えた。
白珠はちらりと瑠璃を見つめる。もう先程のような感動は生まれない。いつもの瑠璃である。だが、一瞬だけでも浮かんだ欲情はまだ消えずに白珠の身体の中でくすぶっていた。
もじもじしながら、白珠は水色の蜻蛉を見つめた。一体どうして、彼は負けたのだろう。瑠璃から目が離せなかったせいで、白珠には分からなかった。
だが、蜻蛉は自らに起きたことを理解していたらしい。腹を抑え、降参しながら彼は言った。
「参ったよ。まさか本当に効くとは思わなかった」
だが、と、不安そうな表情を浮かべる。
「確かに俺の気は逸らされた。鱗粉の輝きに目が奪われて、勝負を捨ててしまった。認めよう。抗いようのない力だった。けれど、今回はうまく行ったが、蜜蜂の一刺しを躱せていたとしたら……俺が襲っていたのはお前だよ、胡蝶。その危険性は、理解できているのか?」
「ええ、出来ているわ」
瑠璃の即答に頷き、銀星もまたそれに答えた。
「そうならないように戦うのが私であり、お前たちでもある。瑠璃は高台からこの力を使い、すべての胡蜂たちを惹きつける。奴らの動きが鈍ったところを叩くのがお前たちだ。私はすぐそばで瑠璃を守りながら戦い、彼女を討ち取りに来る胡蜂どもを確実に仕留める。戦う際、絶対に瑠璃の姿を見るな。瑠璃の姿に怯んだ胡蜂どもだけを見つめていろ。これが金剛さまの作戦だ」
冷静に説明する銀星を見上げ、蜻蛉は軽く笑った。
「胡蝶の鱗粉を利用した戦い、か。まあ、いいんじゃないかな。問題は、胡蜂にその力がきちんと通用するかというところだが――さっそく試してみようか」
そう言って、蜻蛉の姿が消え去る。代わりにその場に現れたのは女性の精霊だった。
これまで表に出た記憶のない紅玉の部下だ。その姿に、銀星と、そして瑠璃の表情が一変した。二人の反応に微笑み、彼女は立ちあがる。蜜蜂よりも大柄で、荒々しい表情の女性。白珠にとって初めて見る種族でもあった。
銀星が反射的に身構える。恐れを含んだその表情に、白珠もようやく二人の異変を感じ取った。
「さすがに驚いたようだな」
見慣れぬ精霊はそう言うと、礼儀正しい振舞いで頭を下げた。
「私の名は雷電。あなた方が敵対するかの胡蜂王国で生まれた元戦士。紅玉さまに敗れ、自由を奪われ、今は生みの母でもある翡翠さまに反旗を翻すことを強いられる者だ」
その言葉に白珠は驚愕した。
――あれが、胡蜂!
初めて見るその姿にぞっとした。
精霊らしく非常に美しい姿をしているが、身体は大きく、女性であっても逞しい。彼女のような戦士が何十名、何百名と攻め込んできたらと思うと、白珠はすっかり震えあがってしまった。
「紅玉の部下だと? お前が?」
銀星はそう言いつつ、短剣を下ろさない。表情は変わらず、憎しみが込められたままだった。だが、そんな眼差しを受けながらも、雷電は笑みを崩さなかった。
「いかにも。かつては陛下のために命を懸けていた。翡翠さまの方針に逆らう大精霊たちを調べ上げ、陛下に直接伝えたのはこの私だ。その後、さらなる動向調査のために紅玉さまを監視しに行ったのが最後。見破られてこのざまだ。今や私の心にいるのは紅玉さまだけ。その為に、忠誠を誓ったはずの祖国に槍を向けることになる」
そして、雷電は武器を構える。
「さあ、戦うがいい」
他の者たちのような石剣ではない。大槍を振り回し、その切っ先を銀星へと突き付けた。
対する銀星の様子を見て、白珠はハッとした。震えている。睨みつけてはいるが、その震えは怒りによるものだけではなかった。
雷電はそんな銀星を見つめ、煽るように言った。
「私は蜜蜂王国の殲滅には参加していない。だが、その作戦には深く関わっていた。どうだ。憎いだろう? 私を殺したいだろう? その気持ちを全力でぶつけるがいい。胡蝶の力を借りていようと、魂を奪われていようと、蜜蜂に負けるつもりはないぞ!」
そして、力強く槍を突き出した。
銀星はとっさにそれを避けると、息を荒げながら、瑠璃のすぐ傍まで後退していった。瑠璃が心配そうに銀星を見つめる。明らかに銀星は恐怖を覚えていた。ずっと勇ましく戦い、憎しみを糧に鍛錬を積んでいた時とは全く違う様子だ。目の前にいる憎しみの対象をまともに見ることが出来ていない。
その怯えは、雷電にもお見通しだった。
「どうした。私が恐いのか? あれほど吠えていたのに、私ひとりに身を竦めて。だが、蜜蜂ならば仕方がない。お前も私の姉妹に殺されかけたのだろう? それはそうだ。肉付きが良い獲物を姉妹が見逃すはずもない」
「バカにするな!」
銀星が猛り、短剣を構える。
「お前など恐いものか。瑠璃、準備を!」
「……ええ」
雷電と銀星が睨み合う。その後ろで、瑠璃は再び集中し始めた。雷電の動きを注意深く見つめると、一気に鱗粉の力を放つ。その輝かしい姿が再び、見学している白珠の心を奪っていった。雷電もまた、どうあっても視界に入る瑠璃の姿に視線を奪われているようだ。
蜻蛉の時と同じだ。銀星はその隙に恐れを捨てて雷電の懐に潜り込み、短剣を突きつけようとした。今度も成功しそうだ。白珠はそう思った。だが――。
「遅いぞ」
雷電はそう吐き捨て、銀星の攻撃をかわして反撃を決めてしまった。
その衝撃に前のめりに転ぶ銀星の身体を飛び越えると、槍を片手に真っ先に瑠璃へと接近した。逃げる暇なんてなかった。あっという間に雷電は迫り、瑠璃の身体を蹴り倒すと槍を突き付けた。
「さっきの水色蜻蛉の忠告は覚えているな?」
胡蜂は瑠璃に訊ね、槍の先で瑠璃の皮膚を軽く傷つける。
少量ながらも血が流れだし、白珠は吐き気を覚えた。訓練とはいえ愛する人が傷つけられている。その光景はあまりにも衝撃的だった。
「お前を守るべき者が突破されれば、この後は悲惨なことになるだろう」
そう言って、雷電は瑠璃を解放する。
「一応認めておくが、この作戦は我が姉妹たちにも通用する。だが、まだまだ訓練と改良が必要だ。今のままではあっさりと打ち破られ、二人まとめて食糧庫行きだ。とくに胡蝶、引き返すなら今の内だぞ。敗北はただの死とは限らない。我が姉妹は生け捕りにした獲物を出来るだけ長く楽しみながら食すのも好きだ。なかでも胡蝶は逸品と言われている。男であれ、女であれ、楽に死なせてもらえると思ったら大間違いだぞ」
淡々と忠告する雷電の言葉に、もっとも怯えたのは傍で聞いている白珠であった。
今の瞬間だけでも白珠には拷問に等しいほどの苦痛だった。これが胡蜂たちの集う戦場であれば、彼女の言った通りの事態になり得るのだ。考えただけで気がおかしくなってしまいそうだった。
――何も、瑠璃が戦わなくても。
しかし、白珠の願いとは裏腹に、瑠璃は強気で答えたのだった。
「何度でも言える。それも覚悟の上よ」
怯えの全くない勇ましい表情を彼女は見せる。
「足手まといにだけはなりたくない。だから、練習を重ねたいの。もしも今みたいに援護する味方が突破されても、捕まらないように動けるようになりたい」
その言葉に全く揺らぎはない。傷つけられてなお、瑠璃の闘志は燃え続けている。その様子を見て、雷電は槍を地面に刺して腕を組み始めた。
「なるほど。お前の意気込みは確からしい。金剛さまを喜ばせるためだけに存在する玩具だと思っていたが、心はそれなりに強いらしい。ならばいい。紅玉さまの許す限り、我々が相手をしてやろう……そこの蜜蜂に戦意があれば、だが?」
煽るようなその視線に、座り込んでいた銀星がムッとする。
短剣を構えなおすと、すぐに立ち上がった。
「あるに決まっているだろう? 次はこうはいかない!」
二回戦が始まろうとしている。白珠はじっとその様子を見つめていた。怖くとも、瑠璃が諦めない限りずっと見守るつもりだった。
だが、そこへそよ風のように紅玉の部下の一人が現れた。蜉蝣の女性で、主に伝令役を務めている儚げな精霊である。驚く白珠に何処か寂しさを含む微笑みを見せ、そっと耳打ちをした。
「金剛さまがお呼びよ。いつもの閨に来るようにとのこと」
「分かったわ。ありがとう」
立ち上がって振り返ると、すでに二回戦は始まっていた。
白珠は瑠璃をじっと見やった。すっかり戦いに集中している。怪我はまた増えるのだろうか。とても心配だった。だが、呼ばれている以上、もう行かなくてはいけない。名残惜しい気持ちと共に、白珠は歩みだした。
人形の部屋に来てみると、例のごとく金剛は奥で休んでいた。今日は朱花を抱いてはいない。一人で寝椅子に横たわっていたが、白珠の姿を目にすると起き上がった。
「瑠璃の様子を見ていたのね」
「魔女さま……」
白珠は呟き、そっと金剛の傍へと駆け寄る。跪いてその膝を抱くと、懇願するように訴えかけた。
「瑠璃が戦うのは耐えられません。あんなに恐ろしいのは初めてです」
「私だって同じよ。でも、瑠璃がそうしたがっている。命令で止めさせたところで、あの子は賢いから私の命令の穴を見つけて行動してしまうでしょう。だから、堂々と練習させているの。お前には耐えてもらわないと」
「じゃあ、魔女さま。それならせめて、わたしも戦わせてください」
嘆くように白珠は願った。
そんな彼女を見つめ、金剛は瞬きをする。呆れたように、彼女はため息を吐いた。
「それは出来ないと何度言ったら分かるの? お前は月花。本来、戦う種族ではない。胡蝶はまだ、胡蝶同士で争う事がある。魅力ある花を取り合って殺し合いをする胡蝶もいるのよ。でも、お前たちは違う。とくに月花同士で殺し合いの喧嘩をすることなんてほぼないと言ってもいい。根本的に違うのよ、お前たちは」
「それでも、瑠璃のようにわたしにだって援護が出来ると思うんです。私自身がこの蜜をもっと有効に使えたら……」
「それは私に任せればいい。おいで」
金剛はそう言って、寝椅子の上に白珠を座らせた。
そのまま体を押し倒すと、指先で皮膚の下の蜜の流れを確かめる。
「もうだいぶ戻って来たようね。瑠璃の幻惑を見て興奮したのかしら」
図星だったため、白珠は赤面した。その様子に、金剛は微笑みを浮かべる。
「私が自ら戦うためにはどうしても花蜜が必要となる。いわばお前自身が私の武器でもあるの。力になりたいのならば、私に逆らわないで。瑠璃を守りたいならば、私の言うことを聞いて、武器としての務めを果たしなさいな」
服を剥がれながら、白珠は金剛を見つめた。
言いたいことはたくさんあったが、口にすることが躊躇われる。それに、段々と余裕がなくなっていた。蜜を吸われたいという気持ちが起こったのはつい先ほどのこと。その欲情はまだ治まっていなかった。そこへ、金剛の手が触れたことで、すっかり意識が持っていかれてしまっていたのだ。
「良い子ね、白珠。これからまた薬の材料を頂くわ。お前の闘志と興奮が、蜜や体液に混ざり込む。そうして出来た蜜薬は、お前の愛する精霊たちを守ってくれるはずよ」
催眠のような声に心を溶かされていく。白珠は微睡を感じながら、金剛に身体を預け、その言葉に従った。
主人の手によって焦燥は誤魔化されていく。それでも、ほんの一時的なものだと白珠は知っていた。だが、自分に何が出来るというのだろう。主人に逆らえず、従うしかない自分に。
ならば、せめてこの蜜が勝利を導いてくれればいい。そう願うしかなかった。




