22.守りたい存在
◆
今宵は金剛と二人きりだ。
そんな伝言を黒蟻から貰い、瑠璃は恐る恐る主人の待つ閨へと入った。そこは、金剛が自分自身のためだけにあつらえた私室であり、保管庫としても利用されている。
蜜薬の貯められた壺がひしめき合い、壁際には彼女が大事にしている人形たちが飾られているその光景はいつ見ても異様だった。金剛が自分のためだけに作ったこの部屋には、紅玉でさえもみだりに踏み込むようなことはしないらしい。
ここへ呼ばれるのは久しぶりだった。
「こっちへ」
蔦で遮られた奥の間から声をかけられ、瑠璃は飾られた人形たちの脇を通り過ぎていった。
この一体一体は、もともと自由に暮らしていた花たちだった。薬の材料にならなかった美しい容姿をどうして人形のようにしてしまったのか、その意図は瑠璃には分からない。ただ、金剛は彼女らを小まめに手入れし、愛でているようだった。
その眼差しに宿る感情は、どのくらい愛に似ているのだろう。そう思いながら、瑠璃はふと見知った顔の人形に視線を向けかけた。
――朱花。
懐かしい友の名を思い出しながら、その顔を見ないようにすぐさま俯く。
人形になってもかつての友は美しい。純血の月花の中に並べられるからこそ、その赤みは物珍しさもあってよく目立っていた。
金剛のお気に入りだという朱花。だが、本人がその愛を感じられることはないだろう。
瑠璃は怖かった。もう少しで、この棚に白珠が並んでいたかもしれない。ただ美しいまま時を止めて、この小さな空間に飾られ、時折、金剛に愛されていたのかもしれない。
――あまり考えない方がいいわ。
背筋がぞっとする中で、瑠璃はどうにか人形たちの前を通り過ぎて行った。
金剛は奥に置かれた寝椅子で寛いでいた。無防備な姿でじっと瑠璃の姿を見つめ、妖しく手招く。その姿に、瑠璃は思いがけずときめいてしまった。
瓶に閉じ込められた光虫の輝きに照らされるのは、美しい身体。そしてやや暗い部屋に漂うのは、濃厚な甘い蜜の香り。本物の月花ではないと分かっているはずなのに、やはり美味しそうに見えてしまったのだ。
――この蜜は薬よ。
自分に言い聞かせたところで、沸き起こった欲はすぐには消えない。
その体に吸い付きたくてたまらなくなっていた。
「可愛い反応ね。お腹が空いてしまったのでしょう?」
金剛はそう言って、手を伸ばした。瑠璃は耐え切れず、彼女の元へと飛び込んでいった。
途端に甘い香りが包み込み、理性が少しずつなくなっていく。
食欲だけに留まらない感情を抑えきれず、瑠璃は暴れるように金剛に口をつけた。手綱を握るように、金剛は瑠璃の身体を抑え込んでいく。その束縛に、瑠璃は抗えなくなっていった。
花の精霊との違いはここだ。蜜薬の味に歓喜しつつも、瑠璃はそう感じた。
一方的に夢中になるのは蜜食精霊だけで、金剛自身はちっとものめり込まない。彼女の理性を崩すには、蜜を吸うだけではいけないのだ。だが、完全な主従関係である以上、瑠璃にはどうすることも出来なかった。
金剛に捕まって以来、そのプライドはずたずたに引き裂かれている。賢くあろうとしてきたのに、彼女の前では自分が無力で貪欲な精霊であることを思い知らされる。
どんなに気取ったところで、弱き野生の胡蝶は欲望の手先でしかないのだ。
覆いかぶさられつつ、食欲が満たされるまで吸い続け、それでも尽きない蜜の量に溺れそうになりながら、瑠璃は悲鳴に似た嗚咽を漏らした。
蜜薬による快感が大きすぎて、受け止めきれない。強すぎてむしろ苦痛なほどだ。
「嬉しい? それとも苦しいかしら?」
瑠璃を見下ろしながら、金剛は言った。
「今宵は紅玉が疲れて寝てしまったから、たっぷり時間があるの。思う存分、お前を愛でてやりたいし、聞かせてやりたいこともある」
金剛は語り掛けると、瑠璃の髪に触れ、そのまま首筋へと口づけをした。
「愛しているわ、瑠璃。誰に貸していようと、白珠と寄り添うのを許していようと、いずれは雄と交わらせようと、お前は私の手に入れた胡蝶。私だけの胡蝶。全ての危険から守ってやる代わりに、久しぶりにお前の可愛い声が聞きたいの。聞かせてちょうだい」
そして、二人だけの時間は始まった。
元はと言えば、白珠を守るために始まった関係でもあった。瑠璃はそのことをしっかりと覚えていた。だが、嫌々始まっただなんて口が裂けてもいえないくらい、瑠璃は金剛の言うままに振舞っていた。むしろ自ら求めている。金剛の魔術は取り返しがつかないほど、瑠璃の心身を侵していた。
お互いに少し疲れてきた頃になって、瑠璃は金剛に甘えながらふと訊ねた。
「どうしていつも……私を求めるの?」
彼女にはもはや孤独などない。働き者の白珠もいるし、瑪瑙には慕われている。今では戦士である銀星もいる。そして何より、好意を寄せてくる紅玉という存在がいる。
それなのに、どうしてまだ自分を生かしてくれるのか、瑠璃は時々分からなくなった。白珠との約束の為だけなのか。退屈しのぎならば紅玉の部下たちにだって出来るはずなのに。
だが金剛は呆れたように笑って答えた。
「あなたがそうさせるからよ」
剛は瑠璃の首筋を撫でた。
「胡蝶の鱗粉にはね、癖になるような幻惑の力が秘められているの。お前だって同じ。これまで何人の花を手籠めにしてきたでしょう? その力で花でない私もまた夢を見せてもらえるのよ。お前といると心が安らぐ。おぞましい世界をひと時でも忘れられる。一度、味をしめればもう元には戻れない。だからお前が欲しくなる。大精霊の世界が辛ければ辛い程、お前を使って安らぎの夢を見たくなるのよ」
瑠璃はじっと彼女の顔を見つめた。
いつだって彼女は強くあり続けようとしている。肉食精霊らしい力強さだ。けれど、ふとした瞬間に見せるのは、ただ一匹の精霊としての無力感。その眼差しの何処かに恐怖が宿っている。それを強く感じたのだ。
「胡蜂どもは敵対する者に容赦しない」
金剛は淡々と語る。
「大精霊同士仲良くしようとしても、翡翠の要求が屈服か死であるのならば、こちらも戦うしかない。恐怖は私にとって不要なもの。でもね、瑠璃。死の香りが私の心を蝕もうとしてくるの。負ければ待っているのは無残な死。即死ならばどんなにいいでしょう。でも、それすらも分からない。未知の恐怖が私を脅してくる」
いつになく金剛は弱気だった。瑠璃はそんな彼女に寄り添い、甘え、そして感じた。
これが本当の魔女の姿なのだろうか。
たくさんの精霊が彼女の手にかかって死んでいった。獲物である蜜食精霊と、それを捕まえるために利用された花の精霊たち。この部屋にだって、彼女を拒絶した花たちの成れの果てが飾られているのだ。それを金剛は無感情にやってのけたはずなのだ。
それなのに、どうしてこんなに弱々しいのだろう。
今の彼女の姿とはとても重ならない。瑠璃はただただ寄り添った。魔女でも主人でもなく、恐怖に震えるひとりの精霊の女性の心身に。
そして、瑠璃は囁くようにその名を呼んだ。
「……金剛」
その手を握って頬ずりし、瑠璃はそっと訴えた。
「私にできることは、もっとないの?」
その目を見つめ、瑠璃は窺った。
「たとえば、あなたの力を借りて、蜜薬を私も仕えるように――」
だが、そこで金剛は早くも話を遮った。
「恋人同士、考えることは同じようね。胡蝶の兵も、月花の兵も私はいらない。後継者も同じよ。私の魔力は私の娘か、肉食精霊の手下から選ぶと決めている。お前たちは私にとって愛玩に過ぎない。その立場をわきまえなさい」
「でも、金剛。そうは言っても、候補者がいるわけじゃないわ。卵を産む暇すらないじゃない。肉食精霊だって今から捕まえるというの?」
「捕まえるチャンスは来る。胡蜂どもも一応は奴隷として手に入れることもできるもの」
「そんな運頼み、準備に入らないでしょう?」
瑠璃は必死に訴えて、金剛の両手を掴んだ。
「ねえ、金剛。よく考えて。白珠は確かに戦わせられないでしょう。でも、私は違うわ。胡蝶っていうのはね、あなたが考えているほどか弱いわけじゃない。あなたから見ればそう思うかもしれないけれど、長く生きた月花たちが恐れるくらいには乱暴者なのよ? あなたの力を授かれば、胡蜂くらい――」
「裏で白珠とお話でもしたの?」
呆れたようにそう問われ、瑠璃は口を閉じた。
そして、白珠の様子を思い出す。彼女としっかり話したわけではない。ただ落ち込んでいることはよく分かった。広間であった銀星の訓練の様子を瑠璃に話し、その上で呟くように自分の無力感を訴えてきたのだ。
――ああ、そうか。
瑠璃は理解した。あの表情は、これが原因だったのだ。白珠もまた金剛に頼み込んだ。後継者にしてほしいのだと。そして、自分のように、却下されたのだ。
可哀想なあの子。弱い月花であるはずなのに、あの子までも戦いを前にそわそわしているのだ。ましてや、月花よりは強い自分がどうして黙っていられるだろう。
金剛は瑠璃を抱きしめ、諭すように言った。
「いずれにせよ、駄目よ。この力は渡さない。……渡せないの。だって、後継者にしてしまえば、翡翠は黙っていないもの。翡翠からすれば願ってないことだわ。花蟷螂よりも弱々しい月花に胡蝶の後継者だなんて――」
悲痛な声に、瑠璃は黙り込む。
彼女が恐れているのは何なのか。瑠璃は金剛の心を探ろうとした。
残酷に朱花を殺し、自分を騙して捕らえ、白珠までも奪った捕食者。
彼女にとって自分はただの玩具であり、白珠を操るための人質でしかないはずだった。愛しているなんて、可愛いなんて、上面だけの言葉だとずっと思っていたのだ。
それなのに、どうして金剛はこんなに震えているのだろうか。
「金剛……そんなに怖がらないで」
瑠璃はどうにか言葉を探した。
「魔力を授けられないのなら、それでいい。でも、せめて、あなた達と一緒に戦わせて欲しいの。だって、私たち胡蝶には幻惑の力があるのよ。あなたの心を掴んでしまったこの鱗粉の力をしっかり使えば、胡蜂どもだって惑わせるはずなの」
瑠璃は自覚していた。胡蝶として生まれ持った力は、使い方次第で武器にもなるということを。普段は花の精霊たちをかどわかす以外に使い道はない。しかし、これまで数多の肉食精霊を揶揄ってきた彼女だからこそ、分かっていた。
幻惑は時に肉食精霊の暴力にも勝る。機会さえ与えられればいいのだ。金剛の時のように騙されさえしなければ。つまり、相手が敵だと分かり切っている状況ならば、戦えるはず。
幻惑の力で自分が囮になれば、味方が戦い安くなるはずだ。瑠璃は頑なにそう信じていた。
だが、金剛がそれに納得するはずもない。許すはずもなかった。
「いいえ」
きっぱりと彼女はそう言った。
「そんなこと、許可できないに決まっているでしょう? 自分がどんな案を出したか分かっているの?」
「分かっているわ。危険性だって十分すぎるほど。その上で言っているの。今でこそあなたに捕まっているけれど、これまでの私は捕食者たちを揶揄って遊んできたのだもの」
「いいえ、分かっていないわ」
声を震わせ、金剛は瑠璃を睨みつけた。
視線を無理やり合わせると、肉食精霊らしい荒々しさの宿る目つきで、苛立ちを隠すことなく瑠璃を叱った。
「捕食者たちを舐めるのもいい加減になさい。捕まればどうなるのか、敗北が何を意味するのか、その本当の意味を分かっていない。何なら、お前にも見せてあげましょうか。普段の私がどのように蜜食精霊どもを屠殺しているのか!」
あまりにも強いその言葉に、瑠璃は一瞬怯えた。こんなにも暴力的な感情を向けられたのは、屈服して以来初めてだったかもしれない。いつも弄られてきたとはいえ、御遊びの域を越えなかった。大切に守られてきたのだ。だが、その関係さえも崩れるかもしれない。それほどまでに、金剛が怒っていることを瑠璃は理解した。
金剛はため息を吐き、そして瑠璃から目を逸らす。
「お前の弱点は自分を過信することね。その結果、どうなるのか想像できていない。胡蜂どもだって同じよ。幻惑の力を敢えて使うのならば、楽な死に方は期待できない。胡蜂どもの心を変に掴むようなことがあれば、お前は女王や姫君の玩具にされて、苦しんで死ぬことになるわ」
「それでも、強力な援護は出来る。あなた達が勝てばいい。勝てば、白珠は守られるでしょう? ……それに、捕まらないように逃げ回ればいいじゃない。逃げ足は速いのよ。あなたは知性で私を捕らえたから知らないでしょうけれどね」
「お願い、もう黙って」
金剛はついに懇願した。だが、瑠璃は従わなかった。命令はあまりにも弱々しく、瑠璃を黙らせるに至らない。金剛の胸に縋りついて、彼女は訴え続けた。
「紅玉さまはきっと、賛同するわ。兵たちが戦いやすくなれば、勝利だって近づく。それに、銀星だって……! 彼女の目に映っているのは、ただただ仇である姫や女王だけ。刺し違えてでも頭を潰すつもりなの。それなら、私の力が彼女の手助けになるはず。指導者を失えば、胡蜂たちだって弱体化するでしょうから」
そして瑠璃は頭を下げた。金剛を前にひれ伏して、必死に声をあげる。
「お願いよ、金剛。私にも戦わせて。白珠をこの手で守りたいの。胡蜂どもの指一本も触れさせたくない。あなた達が負ければ、私たちだって終わりなのよ!」
「それで、しがない働き蜂の援護で私たちの戦いを勝利に導こうというの?」
呆れたように金剛はそう言った。怒りはもう治まっている。ただ冷静に、そして、諦めたように、瑠璃の顔をもう一度見つめ、躊躇い気味に呟いた。
「でも、私が何を言おうと、お前は逆らって現場に飛び出してしまうのでしょうね。蜜薬も、支配者の力も、いつだって愛の前には無力なものだもの」
そして、金剛は瑠璃の肩を抱き、今一度しっかりと目を合わせた。
「いいわ。お前の無慈悲さが私の魔力を上回るというのならば、私はもう諦めましょう。その代わり、いくつか約束を守ってもらう。私の与える蜜薬をしっかりと飲むこと、常に臆病者でいること、そして、万が一、私が胡蜂に拘束されたら、すぐに見捨てて白珠と共に逃げることの三つよ」
「金剛……?」
恐るべき約束に、瑠璃は戸惑ってしまった。
金剛の冷静沈着な目が、じっと瑠璃の答えを待っている。それなのに、瑠璃はすぐに返答できなかった。代わりに口から飛び出たのは、疑問の言葉だった。
「どうして……そんな事を言うの? あなたを見捨てるなんて……」
「理由は単純よ。私と共に捕まれば、女王に逆らった罰として酷い拷問にかけられるでしょう。私を苦しめるために、お前はもっと苦しい思いをすることになる。それを私は見たくない」
「助けられそうでも、逃げろっていうの?」
瑠璃は必死になって訊ねた。以前ならば願ってもない事だったはずなのに、何故だか焦りが生じたのだ。金剛を見捨てるなんてあり得ない。主人をみすみす攫われてしまうなんてこの上ない屈辱ではないかと。
そんな瑠璃の感情を読み取ってか、金剛は苦く笑う。
「お前のその感情は私の魔力によるもの。私が胡蜂どもの手にかかって死ねば、お前たちはすぐに解放される。今は理解できずとも、覚えておきなさい。お前にとって、何がもっとも大事なのか。たった一つの守りたいものは何か。それだけを頭に入れておくのよ」
瑠璃は無言で金剛の胸に甘えた。
何度も何度も肌を重ねてきた相手である。これまで散々残酷な遊びに付き合わされはしたが、いつしか恐怖よりも信頼が勝った。命令に背けない相手であり、自由を奪っている張本人だ。それでも、こうして別れの予感を前にすると、急に恐ろしくなったのだ。
出来れば、そんな未来は来ないで欲しい。
金剛と死別するくらいならば、支配され続けた方がいい。
そんな思いをたしかに感じ、瑠璃は俯いた。
だからと言って、頷かないわけにはいかないだろう。金剛は求めている。主人として、諭している。これが、戦わせてもらえる条件なのだ。飲まずして、思うままにふるまえるほどの自由はない。
瑠璃は理解し、そして頷いた。
「分かった」
こうして、戦いに向けた新たな準備は始まった。




