2.胡蝶の計画
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草のベッドの寝心地は、いつも変わらず心地よい。恐らくここに暮らしていた人間の青年が作ったそれは、瑠璃にとってありがたい遺産の一つだった。
だが、今宵はその寝心地をさらに良いものにする存在がいる。
包み込むように抱きしめているのは甘い香りのする柔らかく温かい生きた抱き枕だった。
人間たちの持て囃す白くて美しい体つきは、瑠璃たち胡蝶にとっては食欲を向けるべき獲物である。ただ、どんなに美味しい存在であろうとも、ひとたび心が通えば関係も変わるものだ。
自分の事をすっかり信用し、隅から隅まで味わうことを許してくれたのだ。そんな純粋無垢な若い月花のことを、とても蔑ろに出来ない程には、瑠璃もまた血の通った生き物だった。
――白珠。
すっかり眠ったその体を何度も撫でながら、瑠璃は幸福に満たされていた。
胡蝶の欲深さについてはこれまでずっと自覚していた。だが、この一夜で、底なしと思われたあらゆる欲望が一気に解消された。食欲は勿論、性欲、支配欲、独占欲といった普段はあまり解消しないようなことまで、白珠は満たしてくれたのだ。
これこそ、数年かけて準備をしてきたその実りであった。
――これからはずっと私のもの。
疲れて眠り続けているその白い体を抱きしめて、瑠璃は優越感に浸っていた。
最初は単なる思い付きだった。
適当に縁を結んだ花たちを口説き、言葉巧みに衣服を脱がすだけの日々も悪くなかった。だが、そうして得られる蜜は微々たるものだ。それに、独り占めは出来ない。
だが、花たちの機嫌を窺いながら飢えをしのぎ続けていたある日、ふと花の子たちを見守りながら、この計画を思いついてしまったのだ。
うまく行けば、自分だけの花を手に入れられる。自分だけの秘密の花を、自分好みに育てられるのだと。
それから瑠璃は年頃の花の子たちを観察し、ひときわ光る魅力を感じ、それでいて従順そうな花の子を選び抜いた。それが、白珠だったのだ。
家となるこの場所もまた候補の一つに過ぎなかった。その頃はまだ人間の青年が生きており、ここに住むなんてとても考えられなかった。しかし、青年も魔女にやられた傷が元で命を落とし、森の一部になってしまった。おかげで、か弱い花を養う場所は確保できた。あとは、白珠が大人になる日を待ちわびるだけ。
苦労と言えば、その待つという行為が一番であった。誘拐してしまおうかと何度も魔が差しそうになる中、どうにか耐え抜いてようやく訪れたのが今日という日である。
数年間ためこんだ欲望や想いを込めた食事は、単なる食事の域を軽く超えてしまった。
それでも、白珠は純粋に悦んでくれた。瑠璃が望むような反応を見せながら、大人になった歓びのままに咲いてくれたのだ。
――やっぱりこの子は掘り出し物だった。
全てがうまく行った悦びに満たされながら、瑠璃は笑いをこらえていた。
だが、これでおしまいではない。これからが始まりなのだ。
瑠璃の目的はただ単に花を独占することだけではない。自分の選んだ種を運び、白珠に子供を生ませるのだ。そして生まれた花の子たちを白珠と共に育て、ゆくゆくはここを秘密の花園にするというのが瑠璃の抱く壮大な計画だった。
その花園では、やがて生まれるだろう瑠璃の子供たちも育つことになる。胡蝶の子たちが卵が産まれ、孵り、蛹化して、羽化するまでをたくさんの月花たちと見守るのだ。そうして月花と胡蝶の子供が安心して暮らせる国を築き、そこの女王に君臨する。そこまでが瑠璃の夢であった。
ところが、こうして初めての夜を迎えてみれば、瑠璃の心にも若干の変化が生まれていた。
共にベッドに眠る白珠の甘い香りを嗜み、花の精霊特有の豊満な胸や蜜の香りの濃い下腹部をいたずらに触りながら、瑠璃はその気持ちの変化を自覚していた。
――女王になるのは私ではないわね。
大人になったとはいえ、まだまだ成長しそうな余地を感じさせる白珠の身体を楽しみながら、瑠璃は確信した。
――この子を偉大な女王にしてみせるのよ。
ひとりの若い月花が花の女王になっていくまでを見守り、育てていく。
きっと達成感はすさまじいものとなるだろう。その上で、女王を好きに出来るのは自分だけ。そうして得られる優越感を想像するだけで瑠璃は興奮した。
だが、夢を見て酔いしれるだけで終わりはしない。瑠璃は本気だった。この為に努力しなければならないことがあるのだとしっかり自覚していたのだ。すっかり眠りこけた白珠を抱きながら、瑠璃は自分に言い聞かせた。
精霊の世界は人間たちが憧れるほど美しいものである。しかし、それと同時に、おぞましい現実の連続でもあった。
天寿を全うしたいならば、強く、賢くあらねばならない。さらにはそれだけでも物足りず、運に見放されないよう祈り続けなくてはいけない。
この世界において、月花は決して強者ではない。繁殖のために甘い香りを漂わせる彼らは、危険な虫を呼び寄せることだってあるのだ。中でも、瑠璃が警戒していたのが自分と同じ胡蝶であった。
胡蝶の食欲は恐ろしい。蜜食精霊の中でもとりわけ魅力的な容姿をしているのは、その内面に秘める欲望の深さを花たちに悟られないためであると言われているほど。瑠璃もまた胡蝶の一人として、それを実感していた。
少し教えてやるだけのつもりだったのに、疲れて眠ってしまうまで白珠の蜜に夢中になってしまっていたのだ。
段々と弱っていく声も、仕草も、瑠璃の罪悪感を呼び覚ますことは出来なかった。そういったものは、むしろ、瑠璃の欲望を満たすものでしかなかったのだ。
すっかり欲が満たされ、冷静になってからようやく、瑠璃は自分の欲深さを実感することが出来たほどだった。
大人の月花の蜜はそれだけおいしい。大事にしようと思っていても夢中になりすぎてしまう。縁もゆかりもない他の胡蝶ならば、自分を制御しようだなんて思いもしないだろう。
花の精霊たちにとって蜜食精霊との交わりは危険な行為でもある。己の血を未来に託すためには不可避の儀式だが、それによって命を落とすこともある。蜜は花の精霊たちにとって体液でもある。全てを吸いつくされてしまえば、時には命にも関わるのだ。
生きるか死ぬか、花の精霊たちはそんな自らの命運すらも繁殖の際に委ねられてしまう。そして胡蝶という生き物は、そんな彼らの死因となる可能性の高い存在だった。
瑠璃もまた羽化したばかりの加減を知らぬ頃に花を枯らしたことがあった。恐ろしいその記憶は心身にこびりついて離れない。そして何よりも恐ろしいことは、同じ経験をしたはずの胡蝶の中には開き直ってしまう者がいるという事実だった。
――この子を守らなければ。
それが、瑠璃の願望をかなえるための一番の課題だった。
眠れない夜の空気に包まれながら、瑠璃は決まり事を頭に浮かべる。
第一に、この場所を悟られないこと。他の蜜食精霊の接触を避け、時には追い払い、白珠を隠し続けるのだ。第二に、食事を白珠だけに頼らないこと。胡蝶ひとりの食欲を満たすという役目は、大人になったばかりの月花では重すぎる。いずれ母親にする予定であることも踏まえ、数名の花たちと関わりを持っておくことは重要である。
そして第三――これがもっとも大切な決まり事だった。それは、白珠を逃がさない事である。この場所は出るも入るも自由だ。白珠の気持ち一つでいなくなってしまう事だって考えられる。もしも嫌われてしまえばそれまでだろう。その為にも、胡蝶として備わっている有りっ丈の力を駆使してでも、白珠の心を捕らえておかねばならないのだ。
――忙しい日々になりそうね。
白珠の柔らかい身体を抱きしめながら、瑠璃はひとりため息を吐いた。
しかし、その一方で楽しみでもあった。
明日からは本格的に同居生活が始まるのだ。もう寂しいこの家で孤独を感じることはない。心細さのあまり、適当な食事相手の家に泊めてもらいながら放浪する必要はないのだ。
外に出ても、右も左も知らない若い花の待つ家に帰ることが出来る。誰にも邪魔されないこの場所で小さな姫を立派な女王に育て上げるまで、色々な事をじっくりとその心身に刻み込んでいくことが出来る。
――ああ、なんて楽しみなの。
瑠璃は期待で胸を膨らませていた。
ずっと思い描いていた日々が始まろうとしている。ただの胡蝶として生まれ、暮らすだけでは退屈な日常のささやかな刺激。使命感に燃える日々ならば、きっと毎日が活き活きとしたものになるだろう。
期待で胸を膨らませながら、瑠璃はそっと瞼を閉じた。
今は静かなこの場所だが、いつかは賑やかな花園になる。月花と胡蝶の子供たちが何も恐れずに暮らせる世界。自分たちの血を引く精霊たちが羽ばたく聖域となる場所となるのだ。
その日の訪れが今から楽しみだった。