18.絶望と希望
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白珠がすっかり眠ってしまった夜中、瑠璃は地下への来客の気配に起こされた。
恐れることはない。いつものことだ。そう納得し、白珠を起こさぬようにそっと起き上がる。現れるのは紅玉の使いのひとりで、ここから遠い地ですでに滅んだ黒蟻王国の元戦士だった。仕える女王と祖国を失った彼女は、感情すらも失ったように紅玉の命令にだけ従い続ける。
こうして毎晩のようにひっそりと瑠璃を呼びに来るのは、いつも彼女の役目でもあった。
黒蟻の静かな導きに、瑠璃は応じた。白珠が起きないことを祈って階段を上がり、いつもは許されない地上へと這い出していく。月夜を受けて輝く花畑に差し掛かってようやく、黒蟻は口を開いた。
「今宵は金剛さまも、ご一緒だ」
冷たいその口調に、瑠璃は黙って頷いた。
連れていかれる先では、いつも紅玉が隷従たちと共に待っている。
大抵は、その日に捕まったばかりの新入りを歓迎するという名目だった。新入りが男であれ、女であれ、瑠璃がやるべきことはいつも同じ。享楽的な悦びで命を懸けて戦う彼らを慰めることである。
この仕事に金剛はあまり肩入れしない。しかし、相手次第では場を共にし、さり気なく瑠璃を庇おうとしてくれる。つまり、彼女が一緒ということは、それだけ警戒したい相手であるという可能性も高いのだ。
瑠璃は少し緊張しながら、彼らの待つ部屋へと入った。
「いらっしゃい、瑠璃」
案内を終えた黒蟻が消えると同時に、瑠璃は立ち止まる。金剛の妖艶な笑みが瑠璃の視界に入った。中は彼女の作った薬の甘い香りで充満している。
紅玉が奥で寛いでいる他、彼の隷従が待機している。瑠璃はその新参者をさり気なく見つめ、そのまま目を奪われてしまった。
――胡蝶だ……。
それは、同じ胡蝶の青年だった。場違いなほど美しく、戦闘には不向きであることが一目瞭然な精霊だった。その琥珀色の目が瑠璃を見つめる。久々に感じる同族の眼差しに、瑠璃は忘れかけていた自由を思い出してしまい、狼狽えてしまった。
金剛がそっと背後に回り、瑠璃の背を支える。
「驚いたでしょう?」
優しく語り掛けながら、瑠璃の髪に触れた。
「紅玉が遠出をして捕まえてきてくれたの。雄の胡蝶は喧嘩っ早くて意外と逞しい。さすがに胡蜂と戦わせることは出来ないけれど、偵察はできるわ。――それに、ここを胡蝶の故郷にするうえでは必要でしょう?」
その囁きに、瑠璃は身悶えした。
恋の季節が過ぎ去った今ならば、彼には何も感じない。しかし、もしもまたあの季節が来たらと思うと、何故か躊躇いを感じてしまった。特定の誰かをあてがわれて、白珠はどう思うだろう。二人きりの頃には考えたこともないことを感じ、瑠璃は戸惑った。
紅玉が不敵な笑みを浮かべ、胡蝶の青年に告げる。
「――平和が戻ったらお前の血筋も広がるというわけだ。運が良かったな。その娘のお陰でお前は命拾いをしたようなものだ」
嘲るようなその言葉を受けて尚、胡蝶の青年は平然とした表情のまま紅玉に頭を下げていた。
美しい髪と立ち振る舞いに、瑠璃は懐かしさを感じた。
自分が生まれ育った故郷には、あんな人たちがたくさんいたのだ。誰もがその日の事を第一に考えて暮らしていた。恐ろしい捕食者の影はあったけれど、大精霊同士の戦いなんて無縁であり、自由の約束されたとても広い世界だった。
――きっと彼も苦しいはず。
捕まった哀れな仲間に瑠璃が同情する中、胡蝶の青年は落ち着いた声で紅玉に言った。
「あなたに捕らわれたその時から俺の命はなくなったようなものだ。どう扱われようと、何を命じられようと、俺はあなたに逆らえない。恨みもしない。憎みもしない。だが、同時に感謝する心も芽生えないことを詫びておく」
「ふん、いけ好かない奴だ。だが、我が手に落ちて尚も消えないその負けん気は認めてやる。お前が死を望んだとしても、俺が認めん限りはそれすらも禁じられるぞ。……なあ、金剛」
「そうね。せっかく捕まえたのだもの。少なくとも、この地に平和が戻るまでは生きていてもらわないと」
背後から瑠璃の肩を抱きながら、魔女は言った。
「ただし紅玉のお気持ち次第だけれどね、お若い方。その頃になってまだまだ長生きしたかったと後悔するくらいなら、今のうちに賢く振舞いなさい。紅玉はお前が思っているよりも冷酷ではないわ」
二人の肉食精霊に見つめられ、胡蝶の青年はやや表情を曇らせた。捕まったばかりの精霊が見せる表情と同じだと瑠璃は感じた。自由をすぐには忘れられず、かと言って、逆らい続けて死ぬ勇気もない。そんな表情である。
強気な態度であっても、やはり怖いのだ。目の前の同胞が普通の胡蝶であることに瑠璃は少しだけ安心した。
「顔合わせはこの辺りにしておこう」
紅玉が気怠そうにそう言って、胡蝶の青年に手をかざす。
「お前への慰めは後だ。まずは他の隷従たちと休め。肉食精霊の荒くれ者ばかりだが、仲間に手を出さない程度の分別はあるから心配するな」
胡蝶の青年は逆らうように視線を強めた。だが、紅玉は取り合わずにかざした手をそのまま降ろしながら言った。
「下がれ」
その短い命令に、胡蝶の青年は従わされる。他の隷従と同様。何処へともなく消え失せてしまった。瑠璃は彼のいた場所を見つめ続けた。確かに感じた懐かしさの余韻に浸ることを簡単にはやめられなかった。
「これは贈り物なの」
瑠璃の肩を握り、金剛がぽつりとそう言った。
「紅玉から私への気持ち。平和の戻った証として、まずはお前の恋を成就させましょう。美しく若い胡蝶たちが旅立つ姿を私は見たい。お前の代わりに大空を羽ばたいて広い世界へと飛び立つところをね」
色気のあるため息が瑠璃の背後で漏れだした。
「お前は胡蝶の女王に、そして、白珠は月花の女王に。私の所有物でありながら、大勢の精霊たちに尊敬される存在に。大精霊同士のおぞましい諍いは私たちに任せて、お前たちはひたすら繁栄するといいわ。燃え上がるような愛の輝きをこの目に見せてくれれば、それでいい」
抱きしめられながら、瑠璃は目を閉じた。金剛の声がその脳裏に景色を浮かばせる。
かつてひとりで目指した美しい世界。金剛に捕まったことで潰えたはずの夢が、確かに近づいてきている。そんな気配を感じ、瑠璃は恍惚していた。
金剛が勝てば、未来は明るい。自由は制限されるかもしれないが、弱肉強食のこの世界で多くは望めない。むしろ自分は運が良い。
だが、紅玉、そして魔女。このふたりの大精霊の強さはいかほどのものなのか。胡蜂を率いる翡翠という名の女王の力はどれほどのものなのか。いずれも、ただ食われるだけの立場である瑠璃には想像も出来ない。
自分に出来ることは信じて付き従うことだけ。それだけであることが、非常に不安だった。
――私はただ、私に出来ることをするだけ。
瑠璃がそう自分に言い聞かせたちょうどその時、金剛が瑠璃の背中をそっと押した。
「さあ、瑠璃。おいで。今宵もお前の鱗粉が見せる夢を味わわせて」
金剛の力は、蜜薬を造れることだ。しかし、その蜜薬を飲んでしまった瑠璃にとっては彼女の存在そのものが魔性に思えた。こうやって優しく触れられ、甘い言葉をかけられるだけで、自ら望んで従ってしまうのだから。
それから長い時間が過ぎた。夜はさらに更け、それでいて明ける様子はない。
十分に満足した二人に解放され、瑠璃はとぼとぼと地下へと戻る。来た時と同じく、黒蟻の先導で。それがなくともきちんと戻ると言ったところで意味がない。瑠璃は大人しく彼女に手を引かれ、白珠の待つ地下へと向かった。
長時間、好きにさせてやったせいで、全身はじんじんと痛んでいた。その痛みが夜風に沁み、瑠璃の目を冴えさせる。時折、歩みが鈍るたびに、黒蟻は何も言わずに歩みを合わせた。
ああいう場面を、隷従たちは見ているのだろうか。瑠璃はふとそんな事を思いかけた。そうだとしても、目の前の黒蟻は何も言わない。命じられたことしかしない。紅玉の部下はそういう精霊ばかりだった。
いつか命を懸けて胡蜂たちと戦う者。その手の感触を覚えながら、瑠璃は何とも言えない心細さを感じていた。
――美しい世界は、本当にやって来るのかしら。
消極的な思考がぐるぐると回りだした頃になって、やっと地下にたどり着いた。瑠璃が中まで入ると、黒蟻は何も言わずに消える。だがその名残も疎かに、瑠璃は眠っている白珠の元へと向かい、その横に寝そべった。抱きしめると微かに甘い香りがする。空腹でもない今は、白珠の香りと感触は心の満たす癒しだった。
――本当に、来たらいいな。
そう願うとかえって心細さが強まり、瑠璃は目が潤むのを感じた。
「ねえ、泣いているの?」
その時、眠っていたはずの白珠に問いかけられ、瑠璃は慌てて目を拭った。
「起きていたのね、白珠」
「うん……」
そう言って、さり気なく手を繋いでくる。瑠璃がそれに応じ、しばし無言のまま戯れていると、白珠は躊躇い気味に訊ねた。
「何処に行っていたの?」
「金剛のところよ」
即答すると、白珠は小さなため息をついた。もう片方の手で探るように瑠璃の身体に触れると、声をうんと潜めてまたしても訊ねた。
「怪我、しなかった?」
「大丈夫」
笑みを漏らしながら瑠璃は答えた。身体は痛むが、少なくとも目立った傷は負っていない。安心させるように白珠を抱きしめ、背中を撫でながら瑠璃は囁く。
「ね、血の臭いなんてしないでしょう?」
食欲を抑制した軽いキスをして、微笑んでみせる。
「約束をしてきただけよ」
「約束?」
「ええ」
頷いて、瑠璃は白珠の全身を撫でていく。
蜜の香りがぐっと強まったが、朝食にはまだ早い。口は付けずにただ愛撫だけをしながら、瑠璃は白珠に言い聞かせた。
「ここはね、いずれ新しい国になるの。私とあなたの血が広がる美しい世界。そのために、力を尽くしてくれると金剛たちは約束してくれたの」
「魔女さま達が?」
「そう。私たちが胡蜂との戦いに勝ったら、ここは胡蝶と月花の故郷になる。これからずっと、金剛が守ってくれるのよ」
「守ってくれる?」
そう呟く白珠は、不吉な言葉でもかけられたように不安がっている。
瑠璃はそんな彼女を抱きしめながら、必死に訴えた。
「ねえ、白珠。私たちは運が良いのよ。捕食者に囚われて、忘れるしかなかった夢がこんな形で戻って来るなんて普通ならあり得ない。だから、そんな顔しないで。笑いましょう。未来を信じるの。きっと明るいはずだから」
「瑠璃……」
その名を呟いて、そのまま白珠は口を噤んだ。
白珠は笑ってくれなかった。だが、瑠璃もまた心から笑う事は出来なかった。このままうまく行けば、夢が叶うはずなのだ。どんな形であれ、死を待つしかなかった精霊には願ってもないことのはず。
でもそれは、絶対に叶うとは限らない。そして叶ったとしても、かつて夢見たような世界そのものではない。絶対的な支配者からは逃れられないままなのだ。
瑠璃にもそれは分かっていた。分かっているだけに、目を逸らしたかった。
――多くは望まないわ。ただ白珠がいてくれれば。
愛する月花を無言で抱きしめながら、瑠璃は祈るように自分に言い聞かせる。そうしていないと辛かった。
そのまま瑠璃は白珠の蜜の香りに包まれながら眠りについた。魔女の薬を飲んでいてなお、心は自由に空を飛びたがっている。目に見えない翅を伸ばし、愛する人のためにせっせといい花の種を運ぶ日々。かつて確かにあったはずの自由な毎日は、今となっては瑠璃にとって楽しい夢物語のようだった。
儚い夢だと思い知りながら目を覚まし、瑠璃は再び孤独に浸る。もうとっくに朝は過ぎ、白珠は地上へと戻っていた。これから夕暮れ時まで、虜囚として、人質として、長く寂しい時間を過ごさなくてはいけない。
――女神さま。
孤独の中で茫然としたまま、瑠璃は祈りを捧げた。
――どうか私たちをお守りください。
その祈りが確かに届くのかどうか、瑠璃には全く分からなかった。




