12.敵対者たち
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――瑠璃、心配しないで。わたし、頑張るから。
静寂に包まれた地下室にて、瑠璃はその言葉を何度も思い返していた。
愛する月花の温もり。純情可憐な白珠の声。その蜜の味と愛に包まれていると、現状なんてどうでもよくなるくらい瑠璃の心は癒された。
だが、終わってしまうと虚しさだけが残る。以前は抱きしめて眠ることが出来たのに、今は許しがないと触れることすら出来ないのだ。ああ、どうして、こんなにも惨めな想いをしなくてはいけないのだろう。
改めて思うたびに、瑠璃は辛くなっていった。
それでも、悲壮感に暮れている暇などない。瑠璃には瑠璃の役目があり、それが白珠への待遇にも繋がっている。となれば、気を抜くわけにはいかなかった。
裸同然の姿で座らされ、瑠璃は主人である金剛の姿を見上げた。白珠に作らせたという衣装を身にまとい、堂々とした表情で瑠璃を見下ろしている。全身を舐め回すように見つめてくるその目は、捕食者らしい威圧感を秘めており、瑠璃の魂を脅してくる。
それでも逃げ出すわけにはいかなかった。
「愛する人との久々の夕食は楽しかった?」
優しい声で問われ、瑠璃は震えながら頷いた。
「ええ……楽しかったわ……」
すると、金剛はにこりと笑い、しゃがんで視線を合わせてきた。
「そうでしょうね。あの子の悦ぶ声が地上にまで聞こえてきたもの。でも、お前は驚いたのではなくて? たった数日であの子はすっかり淫らになった。今はもう、蜜食精霊たちを誘惑する至高の玩具。その味はどうだった? お前も楽しませて貰ったのでしょう?」
黙り込むしかなかった瑠璃の顎を、金剛はぐっと持ち上げた。
「誤魔化しても無駄よ。私には分かる。この状況を忘れられるほどお楽しみになれて良かったわね。でも、もう夢から醒めてもらいましょう。恋の季節を終わらせたお礼をまだして貰っていないものね」
両肩を掴まれ、その手がそのままゆっくりとわき腹へと降りていく。絶妙なその感触に、瑠璃は両目を閉じた。
囚われて以来、瑠璃は毎晩のように金剛を楽しませてきた。その一方で、恋の季節の煩わしい欲求を解消してくれたのも金剛だった。そして昨日、瑠璃は魂の宿らない卵を産み落とした。卵は呆気なく没収されたが、それよりも思考を狂わせていたあの欲望が消え失せたことが喜ばしかった。
それだけに、今日は殊更怖かった。欲求が失せてしまった以上、狂いきることが出来ない。何をされても冷静にそれを受け取って、恐怖することが出来てしまうのだから。
「私は……どうすればいいの?」
恐る恐る訊ねる瑠璃を、金剛は抱きしめる。
「昨日までと同じよ。私を楽しませて。今日は嫌な話をいっぱい聞いたの。一時でもその全てを忘れさせてちょうだい」
「嫌な事って何?」
艶っぽい雰囲気に飲まれかけながら、瑠璃は訊ねた。そして無言で求められる行為の数々に素直に従い、じっと返答を待った。
しばし瑠璃の従順さを楽しんだ金剛は、ややあってからようやく答えた。
「大精霊同士の話よ」
そして、瑠璃を仰向けに寝かせ、その上に覆いかぶさった。全てを支配されていくその前に、瑠璃はどうにか会話を続けようと試みた。
「どんな話なの?」
「聞かない方がいいわ」
即答だった。
食い下がろうと瑠璃は言葉を探した。だが、金剛の手が心臓の脈打つ平らな胸部へと向かうと、それ以上は何も考えられなくなってしまった。再び会話が出来たのは、金剛が存分に楽しんだ後のことだった。
気怠さに負けずに、瑠璃は再び彼女に訊ねた。
「金剛、教えて。あなたは何を抱えているの? 大精霊として、何と戦っているの?」
「言ったでしょう? 知らない方がいいと」
「知りたいの」
瑠璃は強く言った。
「私はもう、あなたの胡蝶よ。あなたを喜ばして、ご褒美をもらう事しか出来ない身分にされてしまった。でも、私にだって知る権利はあるでしょう、ご主人さま?」
「その呼び方はやめて」
金剛は疲れ切った声で言った。
「お前に求めるのは癒しだけ。食べる代わりに生きた状態で楽しむために生かしているだけ。そんなお前に知る権利なんてないわ」
「ねえ、金剛。そんなこと言わないで」
瑠璃は金剛の豊満な胸に甘えながら、懇願する。
「私にだって心はあるの。お人形になろうとしても、どうしたって心は捨てられない。あなたには、絶対的な主人でいて欲しい。今の私と白珠を守ってくれる人だもの。だから、知りたいの。知った上で、支えたいの。そんなあなたを警戒させているのは誰? 一体、何があったの?」
あまりにも悲痛な訴えだったためだろうか。金剛はしばし考え込むと、意外にもあっさりと答えた。
「胡蜂の女王よ」
非常に気怠そうな声だ。
「胡蜂……?」
瑠璃は繰り返し、そして思い出した。
――胡蜂の女王の気が立っているのですって。
それは、朱花がいつか教えてくれた噂話だった。
「胡蜂の女王が、どうしたの?」
「私を狙っているの」
金剛が平然と口にしたその返答は、瑠璃の心を不安のどん底に突き落とすものだった。信じられない気持ちでいっぱいになる。主人となった者が誰かと争っている。それだけでも怖いのに、その相手が大精霊であり、その上、国を持つ女王だなんて。
巻き込まれずにはいられないだろう状況に、瑠璃は心苦しい気持ちになった。聞かない方がいいというのはそういうことだったのだ。だが、知っていようが、いまいが、いずれは巻き込まれただろう。知らずにいる方が恐ろしかった。
「どうしてあなたを……?」
問いかけると、金剛は冷静に答えた。
「正確には私だけじゃない。あの女――翡翠という胡蜂の女王はね、この辺りの大精霊たちを捕らえて、使役するなり食べるなりしてその力を集めようと目論んでいるのよ」
それは、ただの胡蝶である瑠璃にとっては広大すぎる大精霊同士の紛争だった。
全ての始まりは、瑠璃がまだ卵にもなっていないような昔の事だった。ここから少し離れた森の一角で、精霊たちの間に奇妙な噂が広まった。
物珍しい異国の血を継ぐ花の大精霊が現れた。その力は我らが月の女神由来のものではなく、どうやら今はもう滅んでしまった大地を治めていた他の女神の力の流れを汲むらしい。だが、精霊たちが注目したのはそれだけではなかった。
彼女は月の女神の治める大地には殆どいない肉食花。ゆっくりと滅びに向かう希少な血脈を受け継ぐ不可思議な精霊だったのだ。
それまで月の女神の膝下で暮らしていた精霊たちは、肉食花の脅威とは無縁だった。精霊だけでなく鳥獣や旅の人間たちも同じ。人々が気づいた頃には、肉食花の犠牲者は増えていたという。
当時、月の女神は幼かった。代替わりから数年。人間で言えば三つか四つの年頃で、女神であろうと守られるべき存在だった。月の城に住み込みで働く人間たちや、先代の残した精霊などがひっそりと守り、育てていた。
そのためだろうか。肉食花の大精霊は思わぬ行動に出た。
幼い女神を狙って、月の城に侵入したのだ。
土地神に手を出せば、大地は枯れる。月の女神の血脈が途絶えれば、月の名の付くこの大地もまた滅んでしまい、精霊たちは勿論、人間を含めたすべての生き物たちも暮らせない地になってしまう。
それにも関わらず、肉食花は女神を攫おうとしたのだ。
幸いにもその試みは失敗に終わったが、彼女はまだ諦めていなかった。
恐ろしい事件をきっかけに、月の森のあちらこちらに暮らす多くの大精霊たちが決起した。偉大な力を持つ者から、そうでない者まで、それぞれの領地に住まう勇気ある精霊たちと力を合わせ、肉食花の大精霊を討伐すべく立ち上がったのだ。
けれど、彼女の命を奪えた者はいなかった。それどころか、肉食花たちは月の森に暮らす大精霊たちを狙うようになり、逆らう者は食い殺し、降伏した者は尊厳を奪って手下にしてしまった。
そして、二十年近く経った今も、成長した月の女神を狙って、肉食花は力を蓄えている。
大精霊を狙う魔の手は広がり、月の城の膝下からだいぶ離れた瑠璃たちの暮らす森にまで広がろうとしていた。
「肉食花とその血筋の者をもっとも警戒しているのは、いまの胡蜂王国の女王である翡翠よ。彼女は肉食花が力を蓄えたその方法に注目した。弱き者は生け捕りにし、強き者は殺して食べることでその力を得ている。対抗するには同じ手を使うしかないと判断したようね。すべては月の女神さまをお守りするため。でも、だからと言って、翡翠の奴隷になるのは御免だわ」
月の女神が狙われている。彼女に何かがあれば、この大地には住めなくなる。ちっぽけな胡蝶である瑠璃には、大きすぎる話だ。肉食花の脅威など遠すぎる世界の話で、実感が湧かなかった。
けれど、これだけは理解した。この戦いの行方がどうであれ、金剛が胡蜂の女王に殺されるようなことがあれば、自分と白珠もまた危険な目に遭うのだということを。
現在、生かしてもらえているのは金剛の慈悲によるものだ。翡翠というその胡蜂の女王が同じように生かしてくれるとは限らない。
瑠璃は寒気を感じながら、そっと窺った。
「ねえ、金剛。翡翠というその人と協力することは出来ないの? 戦うしかないの?」
金剛はゆっくりと首を振る。
「それが出来たら、どんなにいいか。翡翠にその気がない以上、私たちには対抗することしか出来ないわ。勝つか負けるか。それだけよ。肉食花に打ち勝ち、月の女神をお守りする前に、生き残らなくては意味がない」
「そんな……」
瑠璃は嘆いた。巨大な敵を前に大精霊たちが力を合わせるのではなく、互いの命を狙って争っているなんて。
「どうして、胡蜂の女王はそんな手段を」
「さあね」
気怠そうに金剛は言った。そして瑠璃に身を寄せながら呟いた。
「ひょっとしたら、そんな手を使ってまで確実に守りたい相手でもいるのかもしれないわね」
意味深長なため息を漏らしてから、金剛は言った。
「何にせよ、胡蜂どもは翡翠の指示に従い、まず手始めにこの辺りで一番大きな蜜蜂王国を滅ぼそうと目論んでいる。かの蜜蜂の女王もまた大精霊なのでね。女王の生け捕りと王国の崩壊を狙って動いている。彼女らの国が滅ぶ時が鍵となる。いつ誰が襲われるか分からない。だから、その前に、準備をしなくてはいけないの」
「どんな準備をするの?」
「味方を呼ぶのよ」
金剛はそう言って、瑠璃の頬を両手で包み込んだ。
「私の古くからの友人がここにやってくる。紅玉という蜻蜓の男よ。大精霊であり、たくさんの手下を持っている。彼が来た後は、私だけでなく彼も喜ばせるよう努めなさい。でないと、退屈しのぎにか弱い月花で遊ぼうとするかもしれないから」
瑠璃は身震いした。
蜻蜓といえば、蜻蛉のなかでもとくに威圧的な狩猟者たちだ。ただでさえ近寄りがたいのに、その大精霊となれば尚更だ。そんな相手を喜ばせるなんて、役目が重すぎて潰れてしまいそうだった。
けれど、白珠を盾にされている以上、どうにもならない。
「分かったわ」
今はそう答えるしかなかった。




