残し草(草稿)
一
夏の終わりの涼やかな、秋風を感じる夕暮れに、彼女はひとり机に向かって何か書きつけていた。あたらしい安い万年筆をさらさらと滞ることなく動かし、彼女は何文かを一息に書き終えると便箋を千切って傍に在った封筒に丁寧に仕舞った。そしてそれを誰にも見られぬよう糊付けしてから、引き出しの奥へ奥へと押しやった。それから暫くそこを見つめていたが、ふと顔を上げて手帳を目の前の棚から引っ張り出すと復何か書き連ねた。
『今日も不断の生活を送って居りました』
其れは彼女の日記の様なもので、とりとめのない散文的な文章が、一日に数行ほどの頻度で書きとめられている。
前の頁を幾度か繰ってみてから、彼女は手帳を棚に戻し、万年筆を丁寧な手つきで仕舞うと、敷いてあった蒲団に伏せった。別状身体に異変のあるわけじゃあない、唯々気分に憂鬱の影が差したのを堪えきれなかっただけである。暫くは、嗚呼なんと生き辛い世であるのか、と己惚れた考えに耽り、己惚れに気付いたちいさな謙虚な良心がそれをひどく折檻する、そんな心持が続くのだった。
彼女が再び気がついて蒲団から出てみると、既に黄昏時を過ぎて暗がりに月光が映えていた。飯を食らうにも気力の出ないものだったが、腹が減るのには耐えかねたとみて、彼女は台所へ降りて行った。静かな宵の刻だった。虫の音がよく聴こえ、表通りには人の気配すら感じられない。心地よい程に響く調理の物音はその静寂に吸い込まれていった。