記憶バンク ~その記憶は本当に君のもの?~
そこそこ大きな都市の地方公務員。29歳。男。
俺の肩書を一言で言い表すなら、こんなところか。
嫁さんは大学のサークルで知り合った一つ年下の後輩で、昨年娘が生まれたばかり。特別お金持ちってわけではないけれど、絵に描いたような幸せな家庭を築いている。
だけど、そんな人生を歩むことができたのも、俺が特殊なものを持っていたからだ。
前世の記憶があるって言ったら、信じるか?
妄想か、頭がおかしくなったと言われるのが関の山だろうな。いずれ、嫁さんだけには話そうと思っているけれど、まだ誰にも秘密にしている。
前世の記憶があるなら、もっとビッグなことができるだろうって?冗談言うなよ。俺は異世界に転生したわけでも、神様にチートを貰ったわけでもない。
俺が生まれる3年前に死んだ、人生どん底の男の記憶が、世の中の何の役に立つっていうんだ。
ただ、世の中の役には立たなかったけれど、俺には大いに役に立った。
人生のいましめとして、だけどな。
「ほら、たけし。起きなさい!」
立て付けの悪い雨戸が、ぎしぎしと音を軋ませながら開く。
朝の光が直接顔に当たり、僕は布団を被り直した。
庭付きの一戸建て。築40年を超える古い家でも、両親にとっては『我が城』なのだろう。一人部屋をもらえるのは嬉しいけれど、勝手に部屋に入らないでほしい。
「んー、もう少し」
「駄目よ。あんた、そう言ってこの間も遅刻しそうになったでしょう」
「分かった、分かったってば」
布団を剥ぎにかかった母さんを手で制しながら、僕はお煎餅みたいにぺったんこな敷布団から身を起こした。
「朝ごはんできてるから、早く来るのよ」
そう言って小太りな……(おっと失礼、母さんには禁句だ)ややぽっちゃりな彼女は、床板を軋ませながら階段を下りていった。
僕が大きくなったら、この家も新しく建て替えてあげよう。僕の部屋も、畳じゃなくてフローリングがいいな。それで、よっくんの部屋のベッドみたいに、ふかふかの羽根布団で眠るんだ。
手早く着替えて、ランドセルを引っ掴む。
階段を駆け下りると、案の定母さんから「こらー、走らないの!」と小言が飛んだ。
かつお節のだしが効いた味噌汁の香り、黄色い沢庵と白いご飯。
毎朝毎朝、同じメニュー。だけど、父さんは文句も言わずに食べている。
黙々と白飯をかき込む父さんを、僕はテレビを見る振りをして盗み見た。元々寡黙だったらしく、父さんは滅多に喋らない。僕とも、朝にちょっと会話をする程度だ。
中小企業のサラリーマンで、今は係長だったっけ。多分昇進はもうないと母親が隣の奥さんに愚痴っていたのを耳に挟んだことがある。でも隣の奥さんは、最近じゃ昇進しても大して給料は上がらないし、責任だけ重くなるから昇進しない方がマシとか言っていたな。あとは、リストラされなければ別にいいとか。
僕にはよく分からないけれど、サラリーマンにはなりたくないなって、なんとなく思う。
毎日遅くまで働いて、家と会社の往復で、一体何が楽しいんだろう?
「たけし、最近はどうだ?」
思い出したように、父さんが訊ねてくる。どうだって聞かれても、何て答えればいいの?毎日学校に行って、遊んで帰ってくるだけだもの。特別な何かがあったわけじゃない。
「ふつう」
だから僕は、いつもの通り答えた。
「そうか」
それで父さんは満足なのか、それ以上訊いてくることはなかった。まるで儀式のような問答に、意味などあるのだろうか。父さんが、父親らしいことをしているという自己満足を得るためにしているだけではないか。
僕はほんの少しの反発心を覚えながら、父さんと同じように白飯をかき込んだ。
……ああ、そうだ。これは、僕が一番幸せだった記憶だ。
晩年、僕は思い知る。自分のことを訊ねてくれる存在があるというだけで、本当はどれだけ幸せなのかということを。
中学生になり、一人で起きることに尽力した僕は、遂に母さんを勝手に部屋に入らせないようにすることに成功した。掃除も自分でしていれば、文句はないだろう。
地元の中学校は歩いて20分くらいの場所にある、普通の学校だ。幼馴染のよっくんは、家がお金持ちだから、私立の中学校に通っている。
僕は軽い嫉妬を覚えながら、いずれは僕もお金持ちになるんだと、何の根拠もなく思っていた。
その頃からだろうか。僕は、ネットゲームに嵌りつつあった。ゲームの中の僕は、強くて格好良くて、万能だった。お小遣いは、全部課金アイテムに使った。僕は、両親が遅くにできた子どもらしく、客観的に見ても甘やかされているところがあった。ねだれば、追加のお小遣いも手に入った。もちろん、ゲームのためだなんて言っていない。参考書を買うと言って貰うのだ。それでも、大人の廃課金者には敵わなくて、歯軋りした。罪悪感なんて、まったくなかった。
中学の成績は上の下。頑張れば、県内一の進学校にも入れると、先生にも言われた。だから、僕はその進学校を受験した。直前の模試の結果では、とても受かるような成績ではなかったのに。ネットゲーム三昧で、成績が落ちていることなんて、目も耳も塞いで、認めようとしなかった。
そんな僕に、奇跡など起ころうはずもなく、あっさりと落ちた。滑り止めで受験していた私立のバカ高校にしか受からなかった。うちは貧乏ではないけれど、そんなにお金持ちではないことを知っている。それなのに、父さんも母さんも、一言も僕を責めなかった。
「よくやったわね」
「頑張ったな」
僕が部屋に籠っている時間、熱心に勉強していたのだと、彼らは信じているのだ。ネットゲームをしていたなんて、思いもせず。
善良で素直な人間なら、罪悪感にかられ、後悔と反省をしただろう。
だけど僕は、なぜか両親に腹が立った。僕なら大丈夫だなどと、根拠のない励ましをしたから。そのせいで、落ちたのだと。
人のせいにして、誰かのせいにして、自分は悪くないと虚勢を張る。
僕は悪くない。
悪いのは、父さんや母さんや先生だ。
心のどこかで間違いだと分かっているから、何もかも嫌になった。でもどうすることもできなくて、現実から目を背けたくて、僕は、僕が万能である世界――――ネットゲームの中にずぶずぶと嵌っていった。
結局、僕は受かった私立高校には行かなかった。
父さんや母さんはしつこく、お金のことは心配しなくていいと言っていたけれど、そんなことが理由じゃなかった。
ただ知り合いに、あの高校に行っているなど知られたくなかった。みじめで、負け犬な姿を見られなくなかったのだ。
中学時代の当たり障りのない友人には、どこの高校に行くか最後まで言わなかったし、携帯を変えて音信不通にした。家まで訪ねてくるような親しい友人がいないのは、幸いだったかもしれない。中学が別々になったよっくんとは、既に疎遠になっている。
そうして僕は、中学を卒業し、引き篭もりとなった。
気付けば僕は、成人を迎えていた。
世間が成人式だなんだと賑やかな中でも、僕は相変わらず部屋でネットゲームに勤しんでいた。小学生の頃、毎朝軋んだ音を立てて開いていた雨戸は、もう何年も閉じたままだ。
だけど、勘違いしないでほしい。僕は引き篭もりになった後、最初から人生を諦めていたわけじゃない。学校だって、通信制の高校には入った。それで、大学にも行くつもりだった。大学には、いいところに入る。そうすれば、まだ取り返しがつく。だけど、勉強を始めると、パソコンが目に入って、いつの間にか電源を入れているんだ。中学の頃に始めたネットゲームで、僕は常にトップ3に入る上位ランカーになっていた。一度上位になると、抜かれたくない、奪われたくないって気持ちが強くなって、どうしても離れられなくなった。勉強をしていても、そのことが気になって集中ができない。それで、ちょっとだけ、心を落ち着かせるためにゲームをするって言い訳しながら、次の日の朝を迎えてしまう。
まだ大丈夫、時間があると、同じような毎日を繰り返しているうちに、大学受験の時期になった。だけど僕は、通信制の高校でさえ卒業できていなかった。こんなことを勉強して、何になる。何の役にも立たないだろうと、言い訳ばかりを探していた。
みじめな僕に、蓋をしたかった。
ゲームの中で、僕は覇者だった。誰もが僕を味方にしたがった。必要にされていると感じた。
まるで、心地のいい呪いみたいだった。
『たとえ』までゲーム脳に染まってしまった僕に、さすがの両親もおかしいと気付いたのだろう。何度も外に出るように説得されたけど、僕は頑として聞き入れなかった。
なだめすかされ、泣かれ、怒鳴られ。
勝手に部屋に入ろうとした彼らを、僕は敵だと認識した。パニックになり、ときには暴れた。部屋にバリケードを築き、何日も籠城した僕に対し、彼らは遂に諦めた。
最低限の食事。それと、今まで通り課金に使うお小遣いだけを貰い、僕は自由を手に入れた。これで誰にも邪魔されずに、ゲームに没頭できる。親との攻防に勝った僕は、大学に行く気をすっかりなくしていた。
外の世界なんて、くだらない。
そんな思考、いつから持っていたのだっけ?ずっと閉じ籠っていたせいで、外に行くのが恐くなったなんて、自分でさえ気づかなかったのだ。
時は流れ、僕は50歳になっていた。
年金暮らしをしていた両親が10年前に亡くなり、独りになってからも、彼らが残してくれた貯金を崩しながら、細々と生きてきた。
だけどその貯金も、もう底を着く。土地を売ればいいって?そんなの僕だって、真っ先に思いついた。調べてみたら、両親が『我が城』だと自負していた家も、他人に借りた土地の上に建っていたんだ。広い一軒家に一人で住んでも仕方がないから、一度は別の場所に移ろうと思った。でも、外に出るのが嫌で、借地料を毎月支払っているうちに、このままでいいやという気になってしまった。楽な方に流れていく、実に僕らしい選択だった。でも、それが払えないとなると、追い出されることになるだろう。
外に出るのは嫌だけれど、僕はまだ死にたくなかった。『生活保護』というものを申請すれば、そんなに酷いことにはならないと聞く。生活保護を受けていても、パチンコしている人もいるのだ。なら、僕がネットゲームの課金にそれを使ったって、何の問題もないはずだ。
僕は、それが子供の頃の知識だということに思い当たらなかった。ネットで調べればすぐに分かったことなのに、調べようともしなかった。ただ、申請の方法だけを確認して、楽観視していた。僕が外に出ていない間に、世の中も随分変わっていたということに、気付けなかったのだ。
「今日からここが、あなたの部屋よ」
お役所の職員に連れてこられたのは、木造アパートの狭い一室だった。この区画一帯には、同じようなアパートが、幾つも並んでいる。世間からは、『生活保護村』と呼ばれる区域だ。病気だったり、扶養家族がいるなどの場合を除き、独り身の申請者はここに集められるという。
僕は、まったく予想できなかった事態に狼狽えた。だけど、手続きはあれよという間に進み、この四畳半の部屋に押し込まれてしまったのだ。食料や生活用品は、村のスーパー専用のカードを使い、買うことができる。スポーツクラブには週に一度通えるし、囲碁・将棋クラブにはただで参加できる。そして、村の工場で働くことも可能だった。決められたスーパー以外のものが欲しい場合は、工場で働いてお金を稼ぐしかない。
健全な人にとっては、悪くない環境だろう。
でも僕は、部屋に入ったまま一歩も動けなかった。パソコンを起動してみる。職員に説明された通り、ネットは最低限しかできないようになっていた。情報を集めるためにネットは不可欠だから、検索などはできるが、ゲームなどはできないように制限されていた。
僕はゲームしかしてこなかった。何十年も、ずっと。今さら、僕からそれを取り上げたら、一体何が残る?
あんなに死にたくないと思って、外にまで出たのに、何もする気になれず呆然として過ごすうちに、僕は気を失っていた。
「栄養失調で、倒れたんですよ」
目が覚めた僕は、腕に繋がれたチューブを見た。
「今、点滴をしていますからね」
状況を理解した僕は、てきぱきと働く看護師に、諦念を交えて頷いた。
死ねなかったこと。死ななくてほっとしたこと。そして、これからも生きていかなくてはならないという諦め。
「先生、こちらです」
看護師に連れられて来たのは、僕と同じくらいの年の医師だった。どこかで見たことがある顔だと感じたのは気のせいだろうか。僕の知り合いなんて遠い昔、中学校時代までしかいないのだから、会っても分からないだろうけど……。
医師の額に深く刻まれた皺は、僕とはまったく違う人生を歩んできたのだろうと想像させた。
「どこか苦しいところはありませんか?」
「いえ、大丈夫です。ちょっと体が怠いだけで」
「これからは、きちんと三食、食事をとるようにしてくださいね」
「……はい」
医師にとっては仕事のうちだろうに、僕は久し振りに誰かに心配というものをされて、泣きたくなった。
彼の手の甲には、3センチばかりの薄い傷があった。昔、よっくんが木から落ちて縫った個所も同じだったろうか……。医師の名前は、敢えて確認しなかった。知ったところで、どうにもならない。
だけど、もし本人だとしたら、会えてよかった。誰かがほんの少しでも、僕を気にかけてくれるなら、ここにいてもいいのだと言ってくれるのなら、もう少し生きてみようと思えたのだ。
それから、特筆することは何もない。僕は死ぬまで、狭いアパートの一室に住んだ。最低限の食べ物を食べ、ときどき工場で働いた。ほんのちょっとのお金を手に、村の外のネカフェでゲームをした。
風邪をひいて病院に行くこともあったが、あの医師と会うことは二度となかった。
劇的に辛いことや苦しいことがあったわけじゃない。世界中の人間と比べれば、僕は恵まれた方だろう。大して働きもせずに、遊び尽くして大往生した。
でも、幸せだったかと聞かれれば首を振る。もう一度同じ人生を行きたいかと訊かれれば、死んでも嫌だと答えるだろう。
僕にとっては、これがどん底の人生だったのだから。
男の記憶は、そこで終わっていた。
後悔と諦めに塗れた人生だった。
俺は、ちょうど中学に入ったばかりの頃に、この前世の記憶が蘇った。正直、とても恐ろしかった。もう一度同じ人生を歩んでしまうのではないか。そう思うほどに、前世の男と俺の境遇は似ていたのだ。
古い家も、ふくよかな母も、寡黙な父も。俺が遅くにできた子どもで、甘やかされていたことも。
この記憶を思い出したのは、きっと前世の俺からの警告だったのだ。
同じ轍を踏むな、という。
「あなた、朝ごはんができたわよ」
食パンと目玉焼きとコーンスープとサラダ。これが大体の毎朝の食事だ。前の日に和食がいいと言えば、変えてくれる。できた嫁さんである。
「ほーら、パパにご挨拶は?」
「パー、おはー」
「ああ、おはよう」
嫁さんに抱きかかえられた娘に手を振って答えた。
俺は、スプリングの利いたベッドから身を起こした。軽い羽毛布団に手を置き、幸せを噛み締める。
新築の分譲マンションこそが、『我が城』。
もう一度今の人生をやり直したいかと訊かれたら、俺はきっとこう答えるだろう。
それも悪くない、と。
「マサシさんは、その後いかがです?幸せにお暮しでしょうか?」
「ええ、ええ。あの子も立派になって、今じゃ一家の大黒柱よ。子どもの頃は、本当に我儘で、このままじゃ手に負えなくなると心配していたのに、あのサービスを受けてから、とても真面目になったわ。公務員になりたいと思わせるのも、成功しましたし」
「彼は、いまだに前世の記憶と信じているようですね」
「そうみたいですわ。まだこのサービスのこと、知っている人もあまりいないようですし、マサシには話さないままでいいと思いますの」
「左様でございますか。それで、今日は『記憶バンク』にどういったご依頼でしょう?」
「ふふふ。それがね、実はうちの旦那にへそくりがばれてしまったの。記憶を消すことはできないとおっしゃっていたでしょう?だから、何か旦那の罪悪感が増えるような記憶なんかがあればいいと思ったの。あの人昔、浮気していたのよ。それを思い起こさせるような、ちょっとした誰かの記憶があればいいわ。旦那は、私にばれてないと思っているみたいだけどね。あっちにも疚しいことがあれば、うやむやにできそうでしょう?」
「そうですね、成人男性に記憶を植え付けることはできないのですが、夢で見させるくらいならば……」
「それでいいわ、ぜひお願いします」
記憶バンクは、人の記憶を貯蔵するデータバンクである。
近年、子どもを対象に、他人の記憶を使って教育を施すサービスが開始された。だが、まだ実用に耐えうるか懸念する声もあり、伝手のある人間にだけが利用するに留まっている。
自我が確立した子どもであれば、他人の記憶に飲み込まれることなく、受け止めることができる。もちろん、全ての記憶を引き継いだら小さな頭がパンクしてしまうので、重要な部分だけをダイジェスト化している。精神に負荷がかからないように、少しずつ記憶を移していくのだ。
自分ではない、誰かの記憶。それは、多くが前世の記憶だと認識した。
アイデンティティの根幹ともなる記憶だが、さて、その記憶がどうして自分のものだといえるのだろう?
初投稿です。そのうちシリーズ化したいと目論んでいます。