“Tanto monta, monta tanto Isabel como Fernando”
失意の内に退却したフェルナンドであったが、イサベルと和解してからは少しずつではあるが発言力を持つようになった。そしてかの有名なトーロの戦いを皮切りに戦況は次第に良くなった。
彼は武将として勇敢だっただけではなく軍の指揮官として有能でもあったのだ。
そしてイサベルも再び懐妊し、トーロの戦いに勝利した1478年、無事に王子を出産した。王子はフアンと名付けられたが、フアンという名は父方祖父も母方祖父も同じ名前であった。
さらにポルトガルとの和解を目的としたアルカソバス条約によって、ポルトガル王太子ジョアンの子アフォンソ王子と、女王イサベル1世とフェルナンド王の娘イサベル王女の婚約が取り決められたのだ。
1478年から1480年までの3年間は女王イサベルの生涯を通じて最も幸せな時期であったかもしれない。
フアナ王女・ポルトガル国王アフォンソ5世がその後どうなったかが気になるだろう。
簡単に纏めると、
アフォンソ5世はトーロの戦いを含む一連の戦争で結局フランスの援助を受けられなかった事で負けを悟り、和約を結んだ翌年の1481年失意の内に崩御した。
女王になれなかったフアナ王女は結局アフォンソ5世との婚姻を無効にされた。
ポルトガル王家での立場を失ったフアナには女王イサベル1世とフェルナンド王によって2つの選択肢が用意された。1つは生まれたばかりのフアン王子と婚約・結婚して最終的には国王フアン3世になる彼の妃になる事、もう1つはカスティーリャへの帰国禁止&修道女になる事であった。
彼女が20歳近くも歳下の従弟と結婚する道を選ぶはずは無く、後者を選んで最終的にはポルトガルの修道院で30歳の生涯を閉じた。
フアン王子が生まれた翌年に女王イサベル1世は王女を出産した。後のスペイン女王フアナ1世(通称La Loca:狂女)である。
フアナと名付けられたこの王女は父方祖母のフアナ・エンリケスと同じだが、皮肉にも母方の従姉に当たるフアナ・デ・カスティーリャ(通称La Beltraneja:ベルトランの娘)とも同じだった。
一方、シチリア国王兼カスティーリャの王配という立場に留まっていたフェルナンドにも動きがあった。
父のアラゴン国王フアン2世が玉座の上で崩御したのだ。
アラゴン国王フアン2世いまわの際までアラゴン王位とナバラの実質的な支配権を手放さなかったが、最期は「最後まで期待を裏切らない息子であるよ」と息子の頭を愛おしそうに撫でる程に穏やかだったそうな
アラゴンで戴冠した国王フェルナンド2世はカスティーリャに帰還し、早速フアン王子を立太子させた。
こうしてカスティーリャの統一,アラゴン=カスティーリャ連合王国の成立と身分制議会の発足が為されたのであった。
そして対グラナダ戦、則ちレコンキスタの終結へと時代は移るのであった。