トイレのキョウコさん
「りかちゃん、やっぱりやめようよ……」
「何言ってるの? 千恵は情けないんだから!」
私は、石川千恵。今現在、私達が通う高校の二階に来ています。ちなみに時刻は午後八時を軽く回り、もうすぐ九時に差し掛かろうと言うところ。
なぜ私達のような学生がこのような時間に夜の校舎に来ているのかと言うと、それはこの高校に語られている学校の怪談と言うヤツの所為です。私の友達の伊藤りかちゃんは、その怪談に興味津々。私は巻き添えで、りかちゃんに強引に連れて来られたと言うわけ。
「いーい、千恵? 怪談なんてものは眉唾モノばっかりなんだから、そんなに怖がらないの」
「眉唾モノだと思うなら、なんで見に来てるの? 放っておけばいいじゃない……」
「みんながくだらない噂を信じてるから、やっぱり嘘だったってのをあたしが証明してやるの! なーにが女子トイレのキョウコさんよ!」
私達の高校に伝わる怪談――それが、この『トイレのキョウコさん』だ。
陽が暮れた頃に、校舎三階の一番奥にある女子トイレに行くと、キョウコさんに会うことが出来るとか出来ないとか。
でも、キョウコさんがどんな人なのかは誰も知らない。もし遭遇したら、その人は決して帰って来れないと言われている。更に詳しく言うのなら、女子トイレの中にある手洗い場の鏡を見つめるとキョウコさんに会える、と言われている。そのため、鏡の女の子と言うことで『鏡子』、そしてなぜか親しげを込めて『キョウコさん』と呼ばれるようになったそうな。
キョウコさんの話は一年を通して話題に上ることはあるけれど、夏は特に頻繁に話に出てくる。やっぱり怪談は、夏を大いに楽しむスパイスになるみたい。私だって別に嫌いな訳じゃない。
でも、こうして実際に確認するとなると話は別だ。
私はキョウコさんに会いたい訳じゃない。怪談は怪談のまま、余計な刺激をしないであくまでも『怪談』として胸に刻んでおきたい。――単純に怖いんだもの。
だって、もし本当にキョウコさんに会ったら?
もし、本当に家に帰れなくなったら?
パパもママも、みんな心配する。いきなり学校で生徒が失踪したら、世間は大騒ぎだ。私だって普通の日常を送っていたい。
なのに、りかちゃんは「大丈夫」の一点張り。私だって本当にキョウコさんがいるなんて思ってはいないけど、万が一と言うこともある。
不安の払拭は難しかった。
* * *
なんとかりかちゃんを止めようとはしたのだけど、結局私の言うことを聞いてはくれなかった。そうこうしている内に、目的地である『校舎三階にある一番奥の女子トイレ』に到着してしまった。
夜の校舎は不気味としか言いようがない。宿直の先生はいるんだろうけど、職員室くらいしか電気は点いておらず、何処も彼処も真っ暗だ。先生に見つかったら困るから懐中電灯を使う訳にもいかないし、辺りは不気味な夜の闇が広がるだけ。りかちゃんだって一人で来るのが怖いから、無理矢理にでも私を連れて来たんじゃないのかな。怖いなら来なければいいのに……。
「さあ、千恵! ビビッてないでしょうね?」
「ビビるよ、怖いもん……」
「はあぁ……千恵も情けないわね……いいよ、まずは私が中を見てきてあげるから」
「え? で、でも……」
私が素直な感想を告げると、りかちゃんは呆れたように眸を細めて睨み付けてくる。溜息付きで。
だって、本当に怖いんだもん。りかちゃんは全く怖くないのかな。
でも、一人で行くのはやめた方がいい。私はそう思って止めようとしたのだけど、それよりも先にりかちゃんはトイレのドアを開けて中に入っていってしまった。私にしっかりと「そこにいなきゃダメよ」と釘を刺すことだけは忘れずに。
「…………」
どうしよう。
トイレの中に入るのも怖いんだけど、でもここにこうして一人でいるのも怖い。だって辺りは本当に真っ暗で、明かりがあるとすれば窓から射し込んで来る月の光だけ。他は真っ暗なんだ。時折夜風が窓を揺らすのも、今は恐怖を煽る。
スマートフォンで照らしてみようかと思ったけど、先生に見つかるのはやっぱり困る。それに、光がもしもこの世の者じゃない何かを浮かび上がらせてしまったら……そんな非現実的な考えまで頭を過ぎるようになってしまった。
正直言うと、もう帰りたい。さっきから、りかちゃんに言っていないだけで何度も思ってはいるけど、本当にもう帰りたい。
けど、勝手に帰ったら怒られるだろうし、それにりかちゃんが心配なのもある。
どうしたらいいんだろう。ドアを開けて、中を見てみる? 怒られてもいいから、先に帰る?
そんなことを考えていた時だった。
「――キャアアアアァッ!!」
「りかちゃん!?」
突然、トイレの中からりかちゃんのものと思われる悲鳴が聞こえて来た。それはもう、本当に腹の底から出たような悲鳴だ。
私はその声で、恐怖など完全に吹き飛んでしまった。りかちゃんに何かあったんだと思うと、怖がってなんていられなかったんだ。慌てて目の前のドアを開けて、トイレの中に駆け込む。
「りかちゃん、どうしたの!? りかちゃ――」
りかちゃんは、トイレの床に座り込んでいた。大きな目を、零れ落ちてしまいそうなくらいに見開いて。顔面蒼白になりながら、手洗い場の真後ろを見つめている。私もその視線を追って見てみると、そこには一人の女の子が俯いて立っていた。黒く長い髪が、なんとなく不気味さを漂わせている。
……こんな時間に、女子生徒がトイレに一人で? この子も、私達みたいにキョウコさんに会いに来たんだろうか。それとも、まさか……。
「ち、千恵っ、千恵! 帰ろう!」
「りかちゃん、どうしたの?」
「こいつヤバいっ! 絶対にヤバいよ!」
りかちゃんは我を忘れたように床を這って、私の元にやって来た。どうやら腰が抜けているみたいだ。全身が小刻みに震え、立ち上がることさえ出来ずにいる。
でも、帰ろうと必死に訴えてくるりかちゃんの様子は尋常じゃない、普段からは考えられないくらいの形相だ。一体何をそんなに慌てているのか、そう思って私はもう一人の――正体不明の女の子に改めて目を向けてみた。
「――ッ!? きゃああぁっ!」
すると、彼女はいつの間にか私のすぐ間近まで迫っていた。距離にして僅か五十センチほど。
一体いつの間に……私は情けない悲鳴を上げて反射的に後退した。背中にはトイレのドアがぶつかる。単純に『いつの間にか近くにいて驚いた』と言う訳じゃない。私が驚愕したのは、彼女――ううん、彼女と呼んで良いかさえ分からない『顔』だった。
『アナタの目、とってもキレイ……』
彼女はそんなことを言いながら、にっこりと――多分、笑った。
正体不明の彼女の顔には、幾つもの『顔』があったんだ。
顔中をビッシリと埋め尽くす様々なパーツ。額には何十個もの目、本来鼻がある場所とその周辺には、同じく幾つもの鼻。そして頬や顎にはやはり同様に何個もの口が。文字通り、顔中が様々な『顔』のパーツで埋め尽くされていた。
この子は、一体なに? この子が、トイレのキョウコさんなの!?
『みんな、ワタシのことを醜いっていじめるの……でも、今のワタシとてもキレイでしょ……?』
私もりかちゃんも、恐怖で身動き一つ出来なかった。
一歩、また一歩。音もなく静かに歩み寄ってきて、彼女の『顔』はにっこりとたくさんの笑顔を浮かべた。
『アナタ達の顔も、ワタシにちょうだい?』