2節 愛しい声を聞いた
(過ぎた事だろ……忘れよう)
聖は頭を振って意識を切り替えた。すると果楠が心配そうな顔を浮かべて話し掛けて来た。
「何かあったんですか?」
「え?」
「聖君、顔に出るタイプですから」
「あー……――まあちょっと。――世の中、思い通りにはいかないなーってさ。でも良いよ。過ぎた事だからさ。……ご飯食べるよ」
「……分かりました」
果楠は笑みを浮かべて言葉を返すと、聖は胸が締め付けられる様に痛んだ。隠し事で、しかも生死に関わる事に黙っている、偽っているという自覚からの罪悪感を感じてしまっているのだ。反対に果楠も同じ様な事を考えていた。自分の知らない間に何かあったのだろう。
そして聖はそれを自分には打ち解けてはくれない。それは聖に何かしらの考えや理由があるから言わない、言えないのかもしれない。つまり聖が抱える悩みには、果楠は関われず、助けてあげる事が出来ない。理由があっても、自分では解決出来ない事に対する自身への無力さを呪い、悔やんだ。それは度合いであれど、聖が聖地奪還で感じた、人を殺せなければ守れないという現実で、人を殺す覚悟が出来ずに何も出来なかった故に何も守れなかった事実に似たものであった。
両者共に、心の中で他人への関わりへ踏む込む事に躊躇い感じながら歩みを進めると、気が付けばキッチンへと到着していた。
「聖君とアナちゃんは座ってて下さい。私が食器とか出しますから」
「ありがとう……」
「うむ、感謝する」
キッチンの中央にある、ステンレスの鍋が置かれたテーブルの横の椅子に座る聖と、よじ登って腰掛けたアナ。果楠は昔から修道院に遊びに来ていて食事もした事があるので何処に何かがあるのか知っているので、慣れた様子で室内を動き回ってコップやどんぶり、箸といった食器を取り出してテーブルの上に置き、ピッチャーに水道水と氷を入れて飲み水を用意した。
「じゃよそいますね」
果楠は鍋の蓋を開いた。蓋が開かれると、仄かな温かみの湯気が香りと共に、重く甘いまろやか香りが広がった。蓋が完全に取り払われると、中には色取り取りの具沢が入った黄色味を帯びた白いスープが入っていた。
「シチューだ! 聖、カボチャのシチューだ!!」
久しぶりの食事に反応してか、アナは先程から一転した高いテンションで外見年齢相応にはしゃぎ始める。
「――ん? シチューなのに煮干しと味噌と醤油の香りがするぞ?」
アナの疑問に、聖が静かな声で答える。
「これ……〝ほうとう〟だよ」
「ほうとう……?」
「はい。甲州味噌っていう、麦と米の麹を使った味噌を使った山梨の郷土料理なんです。お母さんが山梨の田舎の方の出身なので。子供の時にシチューに憧れて、知らないお祖母ちゃんにせがんだそうです。でもお祖母ちゃんシチューが分からないからご近所さんに聞いて回ったら、分かったのは牛乳使ったドロドロした煮物って事だけ。
だからほうとうに牛乳入れてそれっぽくして。最初はお母さんもほうとうだと文句言ってたそうですけど、食べたら美味しかったから気に入ったそうなんです。それから上京して私が生まれてからも、良く作ってくれるんです」
「たまにお裾分けしてくれるよね。ミサとかでも、終わった後に来てくれた人や修道院の人達とかにも作ってくれて。美味しかった。これもおばさんが?」
「いえ……これ、私が作ったんです」
「果楠が?」
「はい。家の人が皆、家にいないって言ってましたから他に作ってくれる人がいなくて、退院明けで料理するのは大変じゃないかと思いまして」
そう聞いたアナは一瞬考えた。
(確かに大変だったな。人を傷付けたデジャブでの結果だが。しかし、寝方と良い、聖の事を良く知っているな。――スラム生まれ……――は知ってなさそうだな)
アナはそう思った。だが果楠が聖の行動を予測してくれたおかげでほうとうにありつけるので、感謝の思いがこみ上げて来た。
「だから消化に良くても沢山食べれて、栄養がしっかり取れる食べ物で何か考えたら、このほうとうが思い付いて。でもお母さんにお願いする迷惑ですから、私が作ったんです。」
「そっか……迷惑掛けさせちゃったね。ありがとうございます」
心配してわざわざ料理を作ってくれた果楠に聖は、お辞儀をして感謝を述べると、果楠は慌てた態度で手を振った。
「そ、そんな大した事じゃありませんよっ! お、お母さんが作った方が断然美味しいですしっ」
慌てた様子ながらも果楠は菜箸とお玉を使って手際良くほうとうを2人分盛り付けて、聖とアナの前に並べた。
「果楠は?」
「私は家にお母さんが作ってくれたのがありますので大丈夫ですよ。さあ、召し上がれ♪」
笑みを浮かべながら返すと、果楠は椅子に座って聖達を優しく眺め始めた。先に食事を食べる事に後ろめたさ感じる聖に対して、アナはお構いなしにほうとうの平麺を啜り始めていた。乱雑に音を立てながら麺を吸い込んだ事で口にはほうとうの黄色い汁が唇を縁取る様にこびり付いていた。口いっぱいに頬張って咀嚼し、麺を全て噛み砕いて飲み込むと――。
「――うむッ、美味いっ」
少女は天に向かって、満面の笑みを浮かべて叫んだ。
「柔らかな麺に絡んだかぼちゃの甘味を、味噌の旨味と塩味が味を引き立てる。とろみのある汁故に味の濃さはより増して、そしてそれらを牛乳のまろやかさが馴染ませながらも纏め上げている事あっさりとした味わになっている。
かぼちゃの芳醇な香りと味噌と煮干しの香りが鼻腔を通り抜け、同時に料理が喉を通って胃袋にずしんと来る。これ程食している事を認知し、楽しみ、それを受け止める幸福に満ち足りた瞬間があっただろうか。
この感覚……そう、まさに、隕石が落ちて来るかの様!!」
そう言ってアナは残りの具材と麺を口に掻き込んで咀嚼して汁を啜ってあっという間にどんぶりを空にすると、身を乗り出しながら果楠に食器を突き付けた。
「おかわり!」
突如の味の解説と早食い、そしておかわりの要求に唖然となった果楠は、戸惑いながらもどんぶりを受け取って再度料理を入れて手渡した。
「ア、アナちゃん……もう少し、ゆっくり食べましょ?」
「うむ! そうだな!!」
先程よりも元気で力強い声を上げながらアナは、今度はゆっくりと噛み締め始めた。一方で聖も、果楠同様に見た事もないテンションの高さで呆気に取られて唖然として箸が止まっていた。アナに視線を向けていた聖は、自身に視線が向けられている事に気付いてその方向を見る。果楠が顔を完全には顔を向けず、目配せしながら見つめていたのだ。それは聖に訴え掛けるような、待っているような、期待しているような目をしていた。
「――あ、ああ、食べるよ。頂きます」
聖は我に返った様な態度で応えた。アナが勢い良く食べているので忘れていたが、今手にしているほうとうは、本来は自身に食べさせる為に作ったものなのだ。その為果楠は、聖が食べるのを待ち、食べてほしいと目で訴えていた。
聖はどんぶりに口を付けて汁を一口飲んだ。かぼちゃの甘味と味噌のしょっぱさが口に広がり、それを馴染ませる様に来る牛乳のまろやさかが、ほうとうの味を優しくしていた。幅広の麺を箸で掬い上げて啜ると、うどんとは違う、柔らかな触感が顎を通して脳を刺激し、ぼちゃと小麦の濃い味わいが口内を満たしていく。
崩れたかぼちゃと肉も食べて味わうと、ホロホロと砕けてとろけるかぼちゃの甘味が、まだ残る汁の甘さをより強め、肉の旨味と食感が甘さに深みを与えていった。そのまま他の食材の葱や椎茸、人参を口に運んでは咀嚼すると、具材から染み出た旨味でほうとうの味はどんどん変化していくのを感じ取る。
「――うん。美味しい。ありがとう」
決して誇張することなく、確かに身体に栄養を与えてくれるその料理は、聖に重く伸し掛かる疲れを包み込む様に抑え込んでくれたのを実感した。張り詰めてるような感覚が、満腹になった事で穏やかになっていく。重く伸し掛かる、気味の悪い倦怠感と余分な力が抜けて、温もりが代わりに身体へと染み込んでいくのを実感した。
穏やかな気分にしてくれたほうとうに、そしてそれを用意してくれた果楠に感謝を込めて、もてるだけの力を込めて笑顔を出して感謝した。
「ふぇっ、え、え、え……っうぁ……あ、ありがとう、ございます」
期待していた言葉が聞けた事に抜けた声が上がった果楠は驚きながら顔を赤くし、それを聖に覚られまいとそっぽを向いて頬に両手を抑え出した。突然の果楠の挙動に聖は焦り、果楠を心配して身を乗り出しては心配の言葉を投げ掛けると、一方で果楠は、『果楠は大丈夫です』と言って聖の顔が近付いて自分の顔が見えない様により一層、聖から顔を遠ざけ背けた。しかし大丈夫という人間の行動とは余りにもかけ離れているので、聖は理由を問い詰めるも、果楠は何度も嫌なのか嬉しいのか分からない口調で『何でもない』と返事を返した。
それを傍目からアナはほうとうを食べながら眺めていた。ほうとうを食べた事でエネルギーを補充出来たアナは、目の前で起きている2人の状況を内部に持つ無線LANで検索してみた。――状況に該当する単語が37つ。うち閲覧数が多い言葉が2つあった。
〝もうお前ら結婚しろ〟
〝末永く爆発しろ〟
(……仲が良いという事か……)
様々な体験を経験しても尚、聖は変わっていないのだとアナは確信し、安堵した。そう思って啜った麺は、麺同士がくっ付いていた。
どんぶり1杯分を食べた聖と、鍋の4分の3を食べたアナ。聖は残りは翌日の朝食へと持ち越すので鍋の中身を容器に移すと、鍋は洗って果楠に返すと、玄関まで見送っていた。
「果楠、ありがとうね」
「いいえ。食べて下さってありがとうございます」
「美味しかったぞ。今度も何か作って食べさせてくれ」
「はい、皆で食べましょうね」
「アナ、お前は……」
アナの遠慮なしの貪欲さに飽きれながら、聖自身も果楠の料理をもう一度食べたいと思えてしまったのでそれ以上強くは言わなかった。すると果楠が、力強い目線をしながら果楠は聖に声を掛ける。
「ひ、聖君……」
「ん、何?」
「あ、えっと……」
少年と面と向かって一瞬躊躇う様に畏縮する少女だが、鍋の取っ手を握り締めて身体に力を込めて奮い立たさせると、顔を上げて聖の顔を見詰め返した。
「っすぅ……――私、人よりも得意な事が多いって訳ではありません。でも、人が困ってたら、助けになれるのならなりたいんです。――聖君だったら、尚更です。だからその……――もし私が出来る範囲での事だったら、私も手伝います。寧ろ頼って下さい。聖君1人で背負い込まなくていいんですよ、私がいますから」
「――へ?」
当然の助力への申し出は、聖にはいきなり過ぎて話が見えず理解し切れなかった。不意に変な声が漏れ出た聖と、自分の思いを伝えるも、充分に伝わってなかったからか途端に恥ずかしさを感じて赤面する果楠。
「ふぇ、あ、え、て、えって……ご、ごめんなさいっ! 変な事言ってしまって……その……」
鍋を上げてで顔を隠す様にする少女を、少年は少し見詰めると同時に記憶を思い返す。聞き取れた言葉をの意味を調べ、解釈し、果楠が何を言っているのかようやく気付く。
「……――果楠」
「ふぇ、あ、はい……」
「……今はさ、休んでた分のノートと勉強……教えて貰っても、いいかな?」
「――ッ! はいッッ! じゃあ今すぐ!!」
「いや明日で良いです」
果楠は何度もお辞儀をし、アナと聖の見送りを受けながら修道院を後にした。果楠は走った。駆け足気味で帰路に付きながら、昂る感情を抑え込む様に両手に持っていた鍋を抱き抱えていた。
「ふえええっ、ああ……ぁぁぁあああああああ」
(どうしよう。聖君が元気無いみたいだから気になっちゃってからって、勝手に変な事言っちゃった!
変に思われてないかな? 迷惑に思われてないかな? 最初言われて反応鈍かったし、先走ったみたいで恥かしいッッ!!! でも、それでも聖君が頼ってくれたのは嬉しいなぁぁ~~)
「えへ、えへ、えへへへへへっっ…………――でも……」
走っていた足が、脳裏に過る推察を優先するかの様に次第に遅くなっていく。重く静かな聖の言動と、何処か寂しげそうな雰囲気が、長年付き合いのある果楠には引っ掛かった。
(聖君……本当に何があったんだろう……。聖君、1人で抱え込んだりしちゃうから……――私、さっきみたいな事しちゃうから尚更頼りなく思えるて迷惑だろうけど、出来ればもっと、聖君の手助けが出来たらいいな……聖君は元気な方が私も嬉しいよ……)




