4節 彼等は新しく歌い始めた
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暗い廊下に佇むセイントは、目の前にある極細の縦長の光の隙間から中を覗き込んでいた。光の奥には、背を向けて椅子に座り、携帯電話で誰かと会話している父親の秦がいた。
「――――ああ、そうだね。今の所は、療養という事で休学扱い――もとい、保護観察だね。被害者側の親御さんからは『転校させろ』という声があるそうだけども、法的権限はないから聞く必要はなければ、当事者達も自己判断がしっかりしていない子供達だからね、一時の迷いって見方をされている。セイントは以前からボランティア活動とかで人柄や、事の発端も助け合って庇った結果の事だから、情状酌量の余地は十分さ。まあ、場合によっては相手側が勝手に転校してくれるさ」
秦は朗らかな口調で喋る一方、何処か詰まり気味に話す。子供ながらにセイントにはそれが異様だと、すぐに気付いた。
話が一区切り付いた時、秦は溜息をつく。
「はぁ……――僕は、父親失格かな。息子の変化に気付けなかった。いや、それどころか檀家さんである、いじめの被害者の女の子は僕に相談をして来なかった。近しい立場から迷惑を掛けたくなかったんだろうけども、人に信用されない、心を開き難い神父なら、僕に何の価値があるのだろう? ――……いや、それでもだ。フォローしてくれるのはありがたい。けど摩耶、組織から逃げる様に離れて多くの敵を作った中でも君は昔馴染みだからとこうして協力してくれるのは嬉しい、だが君も旦那さんが亡くなって女手1つで子供を育てている最中なのに、僕は君に手助けを求めた。情けない事なんだよ、これは……」
秦は項垂れる。少しして、また話す。
「名前が理由だってさ。代羽セイント……これが可笑しいんだってさ、酷い話だ。帰国子女もそういう名前だろうに。子供は無邪気だから、悪い事をしている自覚はないだろう。テレビで出て来る、変な格好の芸人を何気なく笑ってる様なものかもしれないね。こう思うと……怖いものだよ……」
◇
日が差し込む事務室で、秦は書類に目を通していた。そこに入室して来たセイントは、自身の考えを告げる。
「え!? 名前を変える!!?」
顔のパーツの間隔を全て引き延ばしたかの様の仰天する父親の顔に、セイントは思わず引く。それ程も迄に、セイントは自身の提案が大事なのだと自覚出来た。
「その名前は、大事な友達から貰ったものじゃないか!」
「でも、この名前で迷惑を掛けるならいい」
「迷惑な訳がないだろう! なに、時間が経てば問題は無くなるさ。少しの辛抱だよ」
「その少しが、怖いんだ……――セイクリッドとホーリーは死んで、俺は生きてる」
「…………」
「ホーリーがいなくなって少しと、失楽区域が焼かれた一晩。ほんの少しの出来事だった。それが怖いんだ。……何も、出来なかった」
嘗て味わった地獄の体験。それは、突然故に深く心に残り、陰に巣喰うかの様に蝕んでいた。分かっている、分かってはいるのに――壮絶に生きた、尚且つ脆い子供には重荷であった。
「それに…………皆で“聖人〟になると約束した。凄くなれば、苦しい思いはしないと思った。でも、2人は死んで出来なくなった。名前を貰った俺だけじゃ意味はないんだ。果楠だって、助けられなかった」
自己嫌悪――秦はセイントが抱いているであろう感情を理解した。何も為せず、出来ない自分が、せめてでも役に立とうと。それと同時に、無力な自身と決別したがっている事にも。
秦は意を決する――。
「分かった、名前を変えるのを許そう。どんな名前が良いんだい?」
「お父さんが決めて」
「え!?」
「子供の名前は親が名付けるのが〝普通〟なんだって。だから」
「お、おう……そうか……」
息子の言葉に秦は戸惑う。子供は親に名付けられる――この考えに、セイントはどれだけ苦しめられた事だろう。名前によっていじめられる理由が、ただ単に奇抜さだけではないのだと秦は考える。それは息子の生い立ち、生き方――人生そのものを蔑ろにされたと言っても過言ではない。
〝聖人〟を目指した名から、新たな名前。本来ならば、時間を置いてじっくり考えるべきなのだろう。だが、秦にはふと、脳裏にある名前が浮かび上がった。
「……〝聖〟、かな……?」
「ひじり?」
「日本語で……聖なるものって意味」
「そのまんまじゃ……」
「良いじゃないか、大切な友達の名前を、やはり捨てるべきではないのだから。君が本当に友人を大切してるのなら、否応でも大事にすべきなのだから。それに聖って名前はね、聖人って意味でもあるんだ。大陸宗教なら、特に偉い人の事を言う。他には太陽を信仰する聖人の事も言う。太陽の様な、明るい人になっておくれ」
「それセイントの時より凄いんじゃ……」
「凄いさ。そして君なら、凄くなれる。いや、もう既に凄くなっている。君は大切さを知っている。哀しみも、後悔も、反省も知っている。誰よりも痛みを知っている人は、誰よりも優しくなれるのだから」
秦は笑う屈託の無い万遍の笑みは、文字通り太陽の様だった。セイントは――聖は、釣られて思わず笑った。




