3節 愛の満ちた香りにひれ伏した
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「さあ、ここが新しい家だよ」
車から降りた秦は、そう言って手招きをする。薄暗い車中から出て来たのは、少年セイントだった。だが、その格好は失楽区域の時の様な汚れと痛んだ服とは違い、サイズに合った新品な服だった。セイント自身も綺麗になっている。
「……怖い? それとも……やっぱり嫌だったかい?」
「……ううん」
小さな声で少年は答える。
「すまないね、あのまま失楽区域に君を置いておく訳にはいかないんだ。あの騒動で隣国が介入する事を決め、大人は身寄りのない子供は孤児として引き取る事にした」
「俺は……嫌だ」
「そうだね。役人も君はテコでも動かないから困ると言っていた。だから僕は君に声を掛けたら、君は付いて来てくれた。ありがとう、僕を信じてくれて」
「…………知らない。どうしてか」
「……そうか。この話は、ここまでにしよう。他にもシスターのお姉さんがいる、賑やかに暮らせるさ。さ! これからよろしくね!!」
◇
修道院の出入り口。そこには多くの老若男女が敷地内の聖堂へと向かう。秦は、彼等を出迎えて1人ずつ挨拶を交わていく。
「はい、おはようございます~」
「嬉しいわぁ~。一番近くの教会が隣町だから、私みたいなお婆さんにはもう大変で大変でぇ~――――アラ、あちらにいる子供は?」
「ああ、息子です。引き取った子ですけども、可愛い子です。日本語は話せないですけども、勘弁してあげて下さい」
秦が続々と来る檀家達を向かい入れる中、物陰で覗いていたセイントはその場を後にする。向かったのは修道院の裏手にある花壇。沢山の苗が植えられた花壇に向かい合う様にその場で座り込んで呆然と見詰める。
「こんにちは!!」
突如、セイントの背後から舌足らずな少女の声が響いた。驚いたセイントは振り返ると、そこには男女一組の人形を手に持った、年齢はセイントと変わらない程の花弁柄のピンクのワンピースを着た少女が立っていた。
「こんにちは! 私、留華果楠です! あなたのお名前は?」
「……誰?」
「クトーくん! こんにちは!」
「ウン?」
「私ね、今日はパパとママと一緒に来たんだけどねー」
咄嗟に出た外国語で返事をしてしまったセイントの言葉を名前だと勘違いした。
「セイントー? 何処だーい?」
秦はミサを終えると、何処かへ行ったセイントを探しに呼びながら敷地内を歩き回ると、花壇がある裏庭の方から声が聞こえて来た。気付いた神父は歩いていくと、そこには花壇の近くでセイントと見知らぬ幼女が何かを話し合っており、セイントは両手を握る様に組んでいた。
一方でセイントも、果楠女児の相手を困りながらも懸命にこなしている。
「あー……手、良い?」
「うん! そうだよ、これで合ってるよ!! ちょっと貸してね」
少女はセイントの手を取ると、親指の部分に口を当てて息を流し込む。すると、セイントの手から汽笛の様な籠った音が鳴り響く。少年の手は手笛となったのだ。
「はい! 今度はあなたの番!」
果楠に促されるまま、セイントは果楠が唇を付けた所に合わせて自身の唇を押し付けて息を吹き込んだ。果楠が吹いた時と同様、くぐもった音が手の中から響き渡る。手笛が成功した事に、果楠は大はしゃぎで喜んで手を叩いた。
「出来た出来た! 凄いね!!」
「おお……」
セイントが自身の養子となって初めて誰かと交流をし、その流れで何かに取り組み、苦労しながらも成功させた姿の健気過ぎる可愛さに歓喜の涙を物陰で流していた新米親馬鹿の秦は、児童2名のやり取りに一区切りついたのを確認すると、身を出して息子の名前を呼んだ。聞き慣れた声と自分の声を聞いたセイントは、その場を離れて秦の下へと向かった。それに続いて、果楠も後を追い掛ける。
「セイントー!」
「秦!」
「神父さん!」
「やあ、お嬢さん。ウチの息子の遊び相手をしてくれたんだね、ありがとう」
「神父さんはクトー君のお父さんだったんだね!」
「クトー? クトー……ああ、誰って意味だね。この子の名前はセイントだよ」
「セイント君って名前なのね! よろしくね、セイント君!」
「お、おう……」
セイントの名前を改めて知った果楠は、再度、挨拶をし直す。突然の出来事でセイントは呆気に取られてたじろぎながらも挨拶を交わした。
「パパとママと一緒にお祈りはしなかったのかい?」
「ごめんなさい。退屈だったの」
「ハハ、子供だからね、仕方ないか。今は皆でお菓子を食べてるから、戻ると良いよ」
「お菓子!? 食べたい!! セイント君も行こ!!」
「うぇ!?」
お菓子への欲求が高まった果楠はセイントの手を引いて、建物へと向かっていた。
◇
大きなテーブルに並んで座る秦とセイント。セイントの手元にはノートと鉛筆があり、セイントはノートに、歪ながらも平仮名を書いていた。字を最後まで書き終えると、秦は笑顔をセイントを褒める。
「うん、上手上手。しっかり書けたね。この単語の意味は分かるかい?」
「あー……〝おとうさん〟?」
それを聞いた秦は思わず顔をにやけるが、歯を食い縛ってそれを耐え、表情を変えまいとする。
「あ、ああ、合っているよ。先週の三者面談でも、セイントは言葉を覚えるのは早いと先生が褒めていた。失楽区域が色んな国の国境にあるからか、初めて会った時から中国語とモンゴル語とラテン語とロシア語とカザフ語とペルシャ語を話していたからね。会話は全部をミックスさせたチグハグで分かり難かったけども……」
「日本語は、意味がよく分からない……」
「大丈夫さ、ゆっくりと覚えればいい。――……学校の子供達とは仲良く出来ているかい」
「……うん……」
「……そうか……」
◇
血相を変えた秦は、病院の白い廊下を急いで走っていた。向かった先には、スーツ姿の男性と、包帯を巻かれて椅子に座るセイントがいた。
「セイント! 先生」
「ああ、代羽君のお父さん、良かった」
「セイント!!」
セイントの学校の教師の言葉を振り切って、秦は傷だらけの息子を抱き締める。今にも崩れてしまいそうに見える小さな息子を、抱き締めて形を留めるかの様に、愛おしさから抱き締めた。
「ウチの息子が喧嘩をしたというのは本当ですか!?」
「ええ。どうやら、いじめられていた子を助ける為に手を出したみたいなんです。それで、いじめていた子が他のクラスの子達に助けを求め、助けに来た子供達にも手を出したみたいで……人数は合わせて13人、症状が軽い子は鼻血や打撲ですが、酷い子は眼窩、手足、指、アバラ骨等の骨折。急所も狙っていたみたいで、医師は言うに最悪殺されていてもおかしくなかったと。理由は分かるんですが、相手の親御さんは腹を立てて、警察の人が抑えてる状況です」
「いじめられていた子というのは……?」
「留華ちゃんです」
「あんな良い子が何故に!?」
教師の言葉に耳を疑い、秦はすぐさま質問する。だが、目の前の男は口籠らせて、申し訳ない様に、弱々しく答えた。
「実はその……セイント君は、以前からいじめを受けていたようで。外部から途中で加わった事や、日本語が通じなかった事、名前が特徴的なのが原因みたいで。仲間外れや酷い扱いをされていた中、留華ちゃんが彼の傍に付いて、護っていたんですが、それが理由で彼女もいじめの対象になっていたみたいです。留華ちゃんは事前にセイント君の机に書かれた落書きや汚れを落としたり、上履きを盗まれない様に自分で先に取ってから戻したりと、いじめられている事を無かった事にして、いじめの悪化を防いだりしてたみたいなんです。その為、私共も気付く事が出来なかったというか……そしてそれが、返って加害者側の子達を逆撫でしたみたいで……――」
狼狽えながらも何とか説明しようと必死に言葉を紡ぐ教師の後ろから、秦の名を呼ぶ2つの声が廊下に反響する。
「「秦さん」」
「留華さん!!」
聞き覚えのある声からの呼び掛けに、秦はすぐさま反応した。声の主は、果楠の両親だった。駆け寄って来る2人に秦は、急いで近付くと、すぐさま頭を下げて腰を折り曲げた。
「お二方、申し訳ございませんッッッッ!! ウチの息子が果楠ちゃんにご迷惑を――」
「いえ、こちらこそ。セイント君が娘を護ってくれたみたいですし、私の方からもお礼を言わせて下さい」
顔馴染みの神父の全身全霊の謝罪を諫める果楠の母は、同じく自身も頭を下げた。すると、セイントは小さな声で尋ねる。
「果楠……は……?」
少年の問いに、果楠の父親は困りながら答えた。
「セイント君、果楠は大丈夫だ。でも、今は安静にさせた方が良いから、会うのは――――」
「セイント君ッッッ!!」
父親の言葉を遮ったのは、セイントが想う愛しい人の声。セイントは声の方向を向くと、身体の各部に湿布を張った果楠だった。娘の姿を見た父親は声を荒げて静止させる。
「果楠ッッ! 部屋にいなさい!!」
そんな制止を無視し、果楠は駆け出してセイントの下へ。セイントも同様に果楠の下へ駆け寄った。
「セイント君!!」
「果楠!!」
再開に喜ぶ2人は抱き合う。
「果楠、ごめ――」
「セイント君、ごめんなさい!!」
「ッ!?」
果楠の突然の謝罪に、セイントは困惑する。驚いて離れた少年が見たものは、明らかに見て分かる、無理矢理作った笑顔でいた果楠だった。
「私が情けないばっかりに、セイント君に迷惑、かけちゃったね。ごめんね、ごめんなさいね……」
果楠の引き攣った笑顔の目尻から僅かに流れる涙。セイントは静かに嗚咽し、小さく否定の呟きをしながら首を横に振りる。一方で果楠は弱々しく笑った。今にも崩れてしまいそうな笑顔を、無理矢理抑え込んで保とうとして――――。




