1節 初めより送る言葉
少年の、普段通りと言わんばかりに慣れた手付きにより、色とりどりの様々な具材を炒めているフライパンへ向けて、溶き卵が流し込まれた。
弾くような波音を立てながら黄色い液体は、鍋に接する面から徐々に白みを含んだ固体へとなっていくと、そこへ菜箸が差し込まれ、外側から内へと固まった卵を巻き込んで掻き混ぜられる。
その後フライパンに蓋がされて数分後、蓋が開かれると中から蒸気が立ち上り、卵はプリンのように焼き固まり、色鮮やかな食材達が顔を出していた。
卵が焼き固まったことを調理をしていた学生服にエプロン姿の少年、代羽聖は確認すると、フライパンと同じ大きさの皿を蓋のように逆さまにして乗せてひっくり返し、皿に焼けた卵を移し替えると、焼けた面を上にしてフライパンに滑り込ませるように入れて裏面を焼き始める。
数分の後に、再度、皿に盛り付けると、それを包丁で8等分に切り分けると、イタリアのオムレツ、フリッタータの完成であった。
聖はエプロンを脱ぎ、出来上がったフリッタータの乗った皿を持ってキッチンを出るとそこはダイニングルーム。部屋の中央には大きなテーブルが設置されており、上には別で焼かれたフリッタータとバケット、シーザーサラダ、焼いたソーセージの盛り合わせ、カボチャのスープ、フィッシュアンドチップス、バター、チーズ、ピッチャーに入ったオレンジジュース、ブドウジュース、カットバナナが既に置かれている。
それを取り囲むようにある椅子には、10人の若い修道女と髪の短い壮年の神父が腰掛けており、聖が席に着くのを待っていた。
聖が最後の料理をテーブルに置いて、空いていた席に腰掛けると、神父――父の代羽秦が、手を合わせて組むと同時に瞳を閉じた。それに合わせ、残りの者達も同じように手を合わせて瞼を閉じる。
「――〝主よ、この食事を祝福してください。体の糧、心の糧となります様に。今日、食べ物にこと欠く人にも必要な助けを与えてください。アーメン〟」
「「「「いただきます!」」」」
聖の父が信仰する神への感謝の言葉を送ると、皆一斉に料理に手を伸ばした。
各々は好きな料理を小皿に盛り、時には代わりに皿に盛り付けていき、皆で談話をしながら楽しく食事する中、聖は少し早めに、だがしっかりと味わって咀嚼し、ジュースで食べ物を流し込んで、食事を速攻で平らげた。
「ご馳走様! じゃあ親父、姉さん達、行ってきます!」
「気を付けるんだよ」
「「「「いってらっしゃーい」」」」
秦とシスター達に見送られながら、部屋の隅にあった椅子の上に置かれた通学鞄、ブレザーを手に取って修道院を出た。
陽光と共に桜の花弁が宙を舞う歩道に出ると、傍に立つ電柱の横に栗色のショートボブに黒い眼鏡を掛けた制服姿の少女が聖を待っていた。
「果楠!」
「聖君、おはようございます」
彼女の名は留華果楠、聖の幼馴染である。彼女の両親は教徒であり、聖堂で行われるミサに度々に参加していた。しかし、当時幼かった果楠にとってミサは理解出来なかった為に退屈でしかなかった。その為、両親がミサが終わるまでの間は別行動として、同じく幼かった聖と遊んでいるのが殆どだった。そこから2人は、互いに登下校を共にするようになった。その関係は、今年から高校生になった今でも変わらなかった。
「今日から高校生ですね。これからもよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
優しい口調と表情で果楠はお辞儀をすると、聖も明るい顔をしてお辞儀を返す。挨拶を終えた2人は、喋りながら学校へ向かって歩いて行った。
「高校でもまた同じクラスか。これで7年連続だな」
「そうですね。私は聖君と一緒で嬉しいです。聖君は嫌でしたか?」
「まさか。俺は果楠と一緒にいられるのは嬉しいけども、果楠は頭良いんだから、もっと良い学校目指しても良かったんじゃ……」
「私は、聖君と一緒にいられるのが1番です」
果楠は、そう言って聖に向けて笑みを浮かべた。
放課後。新学期の高校は午前で終わった。放課後、果楠と共に下校して別れた聖は帰宅した。玄関で声を出して帰宅した事を大声で告げるも、家の中は静まり返り、人気の無い静かな空気に少年の声だけが木霊した。
「あれ? 誰もいない?」
無人の我が家に、少年は不思議がって狼狽える。聖はリビングへ向かうも、そこには誰もおらず、代わりに部屋の中央のテーブルの上に紙が置かれていた。紙に気付いた聖はそれに近付くと、表面に文が書かれており、手に取って内容を確かめるように読み上げた。
「えっと……『急用が出来たので、シスター全員と出掛けてきます。数日は戻れないかもしれないのであしからず。お昼はいりませんが、おやつのロールケーキ1本だけは貰っていきます。お父さんより』って…………いきなり過ぎだろ…………――好物のロールケーキだけは持って行くって。恩人の作ったケーキの再現がそんなに好きか」
父の突然の行動の連続に呆れた聖は、テーブルの横にある椅子に上着と鞄を置き、別の椅子に脱力しながら座り込み、テーブルに肘を突いて頭を抱えた。新学期が始まって早々に1人にされ、冷蔵庫に大量に貯め込んだ食材。今後の身の振りを呆然と考えていると、重々しい音が微かに聞こえた。
「……え? 何?」
日常生活では聞かないような異質な音。音源は恐らく裏庭からだろう――聖はそう思ったが、それはあり得ない事だった。今、聖の手にある書き置きに書かれた通り、家の修道院には誰もいない。つまり、修道院の関係者が音を立てたという可能性は0。外的要因しか考えられない。
「うっそ、こんな時に泥棒……」
不安と恐怖、そして面倒臭さといった複数の感情が込み上げる。聖は気怠さが全身に伸し掛かるのを感じるも、気を引き締めてキッチンにある勝手口へ行って武器代わりの傘を持ち、裏庭へと向かった。
修道院の裏側にある庭は、キッチンから向かった方が近道である。裏庭には、聖やシスター達が協力して作っている自家菜園がある。茄子、トマト、ピーマン、ししとう等。量で言えばそこまで多くはないが、人数の多い修道院の食費を助けるかけがえのない存在だ。
聖は庭を見渡していると、地面の端に小さくポッカリと穴が開いていた。つい最近まで見覚えがない穴を不審に思った聖は穴に近付いて、穴の中を覗き込む。
「……見えねぇ……」
穴の中には陽光は差し込むも奥底までには光が届かず、暗くて内部を確認出来ない。だが、注意深く穴の中を見詰めていた聖は暗い穴の中の代わりに、自身の足元にある、もう1つの不審な存在に気付いた。
「ん? 痕?」
聖は自身の足元の地面の色が、周りと違う事に気付く。視線を上げて跡を追うと、それは庭の隅に建っている小さな白い半透明のビニールハウスの入口の前へと繋がるように伸びる、這って出来た1本道の痕跡だった。入口のシートの端は、土のような何かで少しだけ茶色く汚れている。
何かがビニールハウスから這って出て、穴の中に入ったというのは考えにくい。とすれば、逆。何かが裏庭の地下から穴を開けて這い出て、そのままビニールハウスに侵入しているのかもしれない。
幅3m、奥行き6m、高さ2m半のホームセンターで買えるようなビニールハウス。聖は皆と協力し合ってそこで苺を育てている。野菜以上に温度管理に気を付けて栽培し、収穫した苺は、聖の父の秦の好物である苺のチョコロールケーキの材料に使用している為、手間暇を掛けた分もあり、思い入れは強い。
「まさか……訳分からねぇ……ちっ!」
予想する得体の知れない存在への混乱と脅威。理解が追い付けずに思考が停止し掛った聖は、余計な考えを捨てて意を決する。――やるしかない。
警察を呼んでいる暇もない。呼んでいる間に逃げられるかもしれない。傘を剣のように構えて強く握り込むと、ビニールハウスへ近付いて、入口の垂れ幕をゆっくりと押し退けて入った。
垂れ幕のビニールを捲って聖は中に入ると、絶句し、硬直する。聖が見たのは、ビニールハウスの苺は大半が食い散らかされ、室内の奥で依然として獣の如く苺を茎や葉ごとガツガツと食べる金髪の幼女だった。