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天の星、地の星  作者: 滝川蓮
血潮の真紅
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波乱に満ちた幕開け

 日が暮れて、人々の動きがひと段落した頃を見計らって、こそこそと町の共用畜舎から俺とキリの沙駒を連れ出し、見張りの手薄な町の裏手側にある通用門から外に出た。見つかると困るため、老師とファーランとは家の玄関先で別れたから、見送りもいない。

 俺の前を、シェルマと相乗りのキリが進んでいく。砂が入るのを防ぐため、ズボンはトレンカ状になっていて、靴を半分近くも覆っている。夜明けの空みたいな色をしたスカーフを緩く首元に巻いていて、その先っちょが風に遊んでいる。夜の間はこの辺の風は追い風だから、外套のフードを被っておく必要はない。勿論、砂嵐の発生しにくい場所を選んでいたというのもあるけど。襷掛けに背負っているのは、やや小ぶりの弓。騎乗したまま使用するに適した、ここよりも東に広がる草原地帯で生きる遊牧民が使っているようなやつだ。護身用の短刀と一緒に、実家から持ち出してきたんだと。一方の俺は、ハルサに住むようになってからずっと一緒の沙駒の背中の上で、不審に思われない程度に周囲を見渡していた。ずっと愛用している元・青灰色のスカーフを口元にまで引っ張り上げ、顔の下半分はそれで隠していた。一般に旅装束は、胴着の上は長袖の上下で、あったとしても上に一枚羽織って、外套の長衣を着て終わり。通気性を確保しなきゃなんねぇからな。俺の場合、ズボンの裾は靴の中に入れ、手の甲と手首を覆うガントレットを付けているのは旅慣れている奴に多い格好だから別にどうって事もないんだが、長袖のシャツの上に、フード付きで幾つもポケットの付いた袖無しの長衣を着て、そんで外套を着ているって点で普通とは違っていた。しかもその長衣、砂漠を旅する人の間ではあまり見られない、渋い赤褐色なんだ。でも俺がそれをずっと使っているのにはそれだけの理由があるから。思い入れの強い服なんだよ。貧乏性とか言われても、これだけは譲れない。で、持ってきた武器は、軽く弧を描く長剣が一振り。いつでもすぐに構えられるよう、腰からぶら下げている。

 ポクポク呑気に歩いていた沙駒が、何かに気付いたのか耳を立てて顔を上げた。その場で立ち止まって、せわしなく辺りを見回している。ちなみに今更だが、こいつらはこの国じゃ旅人の足として重宝されている生き物だ。粗食でも平気で、水分と栄養分を体に貯蓄しておけるから、乾燥した大地を進むのに適している。おまけに機動力にも優れているから、追手がかかった時でも問題ない。乗り慣れるまでちょっと時間がかかるのが玉に瑕だけど。でも息の合ったコンビになると、縦横無尽に小回りを利かして動く事のできる、いい相棒になる。

 …にしても、こりゃいるな。しかも近い。

 沙駒よりかは少し遅れたが、俺もすぐにそいつの気配に気付いた。

「キリ、ちょっと止まれ!」

「どうしたんですか?」

 ふいに足を止めた俺に、キリは怪訝そうに首を傾げた。でもシェルマは分かったらしい。キリに二言三言声をかけると、彼女も納得した様子でそいつのいる方へ視線を走らせて、小さく一つ頷いた。

「分かっているだろうけど、フェルネスがいる。逃げるしかないから、これから振り切りにかかる。まぁそう簡単にはいかねぇだろうから、二手に分かれる。いいな?」

「でも二手に分かれるって…。リーヴェさん一人で大丈夫なんですか?」

「心配すんな。…シェルマ、お前らは先に行け。俺があいつら追い払っている間に、極力町に近付いておけ。中に入れたら、安宿の確保忘れんなよ。それと、二人ともバレるなよ。…行け」

 何か言いたげにキリが口を開くよりも早く、手綱を握ったシェルマが強引に町の方へと沙駒の向きを変えて駆けて行った。上空にいたフェルネスも、それに気付いて一直線に急降下してくる。正直、飛行している奴相手にするんだったら射手がいた方が相手しやすいんだが、戦闘経験皆無なキリに今のこの状況はちょっと厳しいと思ったんだ。そりゃいつかはあいつも実戦を経験する事になると思うよ。この道中、一筋縄でいきそうにないのが目に見えているからな。でもまだ今のうちは、俺一人で相手しておこうと思うんだ。…殺し合いは、やっぱそれを知らない奴を簡単に巻き込んでいい世界じゃないからな。

 にしても何か妙なんだよな。奴らは今、月をバックに飛んでいたんだが、夜に空を飛んでいるって事は人型、つまりわざわざ捕食形態をとっているって事だ。鳥はほら、鳥目だからさ。梟とかでない限り、鳥の姿のままで夜行動するのは無理だ。だったら何でわざわざこんな時に、こんな所で、そんな格好でいるんだよ、って疑問が生じてくる。ただの巡回なんだとしたら、人型をとってこんな時間帯にする意味が分からない。逆にこっちに目を付けていたんだとしても、妙に手際が良すぎるんだ。ま、互いに相手の手の先を読み合うしかないんだし、こうやって明らかに逃げていたら何かあるって向こうに伝わるだろうしな。今はとりあえず、この場にいる奴をどうするかって話だ。

「…何者にも囚われずただあるがままを生きるモノよ、彼の者を穿て」

 細く鋭くなった針を思い浮かべる。小声で呟いた言葉の通り、一陣の風が吹き抜けた後、先頭切って飛んでいた奴が首から血を噴き出して落下した。3、4羽程度の小さな集団はキリ達を狙っていたから俺の事は気付いていなかったらしく、急所がガラ空きだったんだ。おかげで狙いは付けやすかった。でも、多分こっちに標的が変わった。

「お前らの相手はこっちだよ。…さぁ、次はどいつを狙ってやろうか」

 挑発する笑みになっているな、と鏡を見ないでも分かった。こっちもこいつらには普段散々な目に遭わされているから、その仕返しをするいい機会だった、ていうのもある。こういう奴をおちょくれる機会ってそうそう無いんだよ。

 単純な鳥頭だから、頭に血が上った奴らはこっちに急旋回してきた。俺はそれよりも先に沙駒で駆け出していた。物言わぬ相棒は、こっちが大して手綱を引かなくても言う事をよく聞いてくれる。奴らのスピードがちょいと速すぎんのが難点だが、相手できない速さではない。限界さえ超えなければ、精霊術で十分相手できる。…俺は、精霊術で扱う八つの属性全ての適性があって、しかもどれも最高ランクのよさなんだ。つまり簡単な話、基本的に何でもできる。下級の精霊がその場にいれば、の話だけど。しかもここは荒野だ。攻撃にはもってこいの連中が多く住んでいる。…ついでに言っておくと、属性によって性質も違うから、得意不得意も違う。大雑把に分けると、光・大地・木の連中は守りに適している。闇・炎・雷は攻撃型で、風・水は全般的にどっちもできるな。まー術師の技量とか使役の仕方によって変わるけどな。いかに労力の少ない技で効果を出すかは、個人の腕の見せ所。…なんて考えながら行動しているけど、実際のところ、全然余裕じゃない。ダルムンベルクへ向かう街道からは大きく外れているから、とっととケリを付けねぇと荒野のど真ん中で倒れてそのまま死ぬしかない。それに、相棒の沙駒‐名前はタァンだ‐が疲れて動けなくなる。俺が倒れるよりも前に、そっちの方が心配だ。俺に気付いている下級の精霊達は寄ってきているしなぁ。

 とにかく、一体ずつでも減らさなきゃ。

「星と共に生き常に生まれ変わるモノ、何者にも囚われずただあるがままの生きるモノよ」

 相手に狙いを定めるために振り返ると、全部で三羽いる相手は口を大きく開けていた。…幻覚を使うつもりだ。あいつらは音にならないけど聴覚を変調させる特殊な波長を出して、それを耳にした奴に耳鳴りを発生させて、その隙に感覚を乗っ取るという一風変わった手法を用いて攻撃してくるんだ。どういう仕組みなのかはさっぱり分からんけど。

「…怪しの夢に現の牙を向け!」

 フェルネスが幻影を発動させるのと、俺が叫んだのはほぼ同じぐらいだった。だからそれなりに面白いものを見る事が出来た。

 炎を纏った風が渦を巻いて相手にぶつかるのが、普段この技を使った時に現れる光景。でも今回は、軽く幻影もかかっていたから、炎が巨大な鳥の姿をとった。

 物語の中に出てくる、不死鳥の姿だったんだ。風はそれに付き添う隼の姿。そいつらがフェルネスに正面から突っ込んで、本当に牙をむいていた。逃げようとする奴も退路を塞がれて炎と風の舌に絡めとられていく。

 思わず見とれていたら、急にタァンが暴れだしたから慌てて手綱を引かなきゃならなかった。どうやら俺は上手いこと精霊術のおかげで幻影の効力が薄れていたんだが、タァンはしっかり幻影に囚われているらしい。落ち着け、と宥めようとしても言う事を聞かない。こっちに気付いていないんだ。…これを解決するための最も手っ取り早い方法は、幻に囚われている奴により大きな衝撃を与えてやる事。どうせフェルネス達も傷付きはしたものの死んでいないから、あの技を使ってもいいだろ。止めは、やっぱ刺しておいた方が後々安全だし。ただ問題があるとすれば、空に雨雲が無いって事だ。元から雷雨を降らすような雲があるとは期待してなかったが、普通の雲すら無い。どこまでも満天の星空が月と共に夜空を覆っている。そんな状況で使うのはちょっと難しいけど…。でもここは何度でも言うけど、荒野なんだ。荒野には、雷は炎と共にいる事が多い。しかも俺はついさっき炎の精霊を使役したばっかりだ。ならば、呼び出せんこともないかな。

「暁と黄昏の中に身を潜め仮初の夢を見るモノよ、我はその天の鉄槌を乞う!」

 瞬間、景色が白に染まった。目を護るために相手に背を向けて目を閉じていたが、それでも眩しい。強引に至近距離で落雷を発生させたもんだから、俺達自身も軽く帯電してしまっている。タァンも目を回したのか、足を止めて目をぱちくりさせている。衝撃のあまり、更に暴れられなかっただけでもありがたい。フェルネス達は、見事なまでにこんがり焼き上がっていた。というか、黒焼きに近い。殆ど黒焦げ、炭化寸前だ。炎に焼かれた上に雷が直撃したら、そりゃこうもなるか。ちょっとやりすぎた気がしない事もないけど…。体に違和感が無いから大丈夫だな。力の使い過ぎの心配はしなくてもいい。

 お呼びのかからなかった属性の精霊達は、やっぱり軽く文句を言うみたいにチカチカ点滅していた。こいつら、子供みたいな上に焼きもちいっちょまえに焼くから、宥めるのが大変なんだよ。かといって、全属性を同時に併用していくのは無理な相談だ。俺がバテちまう。特定の属性の適性しか持ってない、ってんならこんな事にもならないんだろうけど、何の因果か全部持っているからなぁ。上手い事やってくしかないだろ、と全然助言になってない助言しか周囲は言わないし…。やれやれだ。

「…さて、あいつらに合流するか」

 タァン、行こう、と声をかけて、とりあえずは街道を目指して進んでいった。


 二人に追い着いたのは、ダルムンベルクより一歩手前にある小さな泉のほとりだった。この辺りは荒野だから耕作には不向きな土壌なんだが、地下水脈が幾つも通っているから泉は探せばすぐに見つかる。だから集落ごとに灌漑をきちんと整備すれば穀物を生産できるんだ。地表は乾燥していても、地下は湿潤なんだと。

『もう終わったのですか?』

「ていうか強制的に終わらせてきた。…中に入っておけって言ったのに、わざわざここで待っていたのか?」

『いえ、どのみち開門はまだ先ですから、それよりも仮眠をとっておいた方が良いかと思いまして。主が思ったより早かったのは予想外でしたけど。とりあえずお疲れ様です』

 岸辺に生えている灌木の横で、シェルマが焚火を突きながら不寝番をして待ってくれていた。おかげですぐに二人を見つける事ができた。キリはいきなりこんな事になって疲れたのか、自身の乗っていた沙駒にもたれて座り込んだままうとうとと居眠りしている。シェルマの言った通り、さっさと行動しても町の門が開くのは日の出の後だから当分後だし、吹きっさらしの門の前でじっとしている事を思えば、こんな所で休憩している方がずっといい。だから俺もキリの事はそっとしておいてやることにした。

「…ちょいと不利っぽかったけど、もう大丈夫だろ。全滅させてきたから」

『でしょうねぇ。…これで、ますますマークがつくかもしれませんけど』

 半笑いを浮かべているシェルマに、ヒョイと片眉だけ挙げて疑問符を投げかけてやると、あっさりとした答えが返ってきた。

『あれ、見えていましたよ。夜空を割く紫がかった稲光』

「え、見えちゃってたの?」

『ええ、ばっちり見えましたね。あれを受けては、むしろ生きている方が不思議ですよ。ここでも結構大きな音が聞こえてきましたよ。…キリ嬢はそれでも眠っていましたけど』

 肝が座っているんだか何なんだか…。お嬢様にしては、ちょっと浮世離れしなさすぎというか。こんな環境でぐーすか寝ていられるんだもんなあ。普通の隊商にいるような女性達でも、ここまで無防備に男に寝顔を晒しはしなかったしなぁ。お嬢さんならもっと男に対して免疫が無いと思っていたが…。こいつに限っては、それは当て嵌まらんらしい。

『それよりも主、あのように大きなものを発生させて、体の調子はおかしくありませんか?ラグナー老師の所でも大技使っていたようですし。あまり無茶はなさらないで下さいよ』

「分かっているって。俺だって気を付けているし、極力労力が少なくて済むようにしているって」

 精霊術にもやっぱり対価が必要で、それは術師の体力というか気力というか、要は術師の持つエネルギーなんだ。だから使いすぎるとそれが不足して、ぶっ倒れて二、三日は寝込む羽目になる。本当にヘマをしでかすと寿命が縮んだりするらしいが、その辺はよく分からん。で、対価はやっぱり複雑な命令を下すごとに大きくなるから、術師は目的に合うように、簡単な命令だけで使役できるようにしなきゃいけない。つまり、対価の払い過ぎで倒れるのは、若手に多い失敗だって事だ。

 一息つこうと思って、砂避けに首に巻いていたストールを外し、火照ってどことなくジャリジャリな顔と頭を洗おうと泉に頭を突っ込んだ。わしゃわしゃと簡単に洗って適当に水気を払ってから、再び砂塗れになる前に荷物の中から乾いたタオルを取り出して乾かしていく。荷物を降ろしてもらったタァンも、隣で静かに水を飲んでいた。

 水面に移る月が波のおかげで揺らめいている。静寂に満ちた夜だ。

『…あら、こんな時間にお客様とは珍しいこと』

 唐突に第三者から声をかけられて、水を飲んでいた最中の俺はむせてしまった。

『夜分遅くに、お騒がせしてしまい申し訳ありません』

 むせて咳き込む俺の背中を軽く叩きつつ、シェルマがにこやかにあいさつをしていたのは、中級の水の精霊。中級にしてはちょっと力が強そうだから、多分この泉の主だ。そこそこ妙齢のご婦人、といった感じの見た目。実年齢は分からん。知りたくもないし、聞きたくもない。そもそもこいつらは半端なく寿命が長いから、年齢という概念がそれほど重要視されないんだよ。あいつよりかは年上だけど、何年生きているかなんてさっぱり、といった感じか。

『お気になさらないで下さいな。私共をその目に映せる方の訪れは久し振りですから、つい。しかも知っている気配が一緒にあったものですから。…お久し振りですわ、シェルマ=ヴィ=カルディ様。お元気そうでなにより』

『こちらこそご無沙汰しています、星空の姫君。ですがあなたが外へ出てこられるとは、珍しい事もあったものですね』

『あら、あなた様のような古い精霊を共にする人の訪れの方が、遥かに珍しい事ですわよ』

 こう言って笑っている彼女は、泉の中央にポツンと出ている岩に腰かけていた。だからよく見えたんだが、腰から下は鱗に覆われて尾鰭が付いていた。俗に言う人魚の姿だったんだ。つってもそれなりにきちんと服は着ているから、刺激的なものは何も無いけれど。銀の髪が月光の下で煌めいている、すっごく大人な女性って感じの人だな(だから人間じゃあないんだって)。深く澄んだ蒼の双眸が印象的だ。

 昔話に出てくる、人によく似た姿をした生き物‐人魚やハルピュアやその他諸々‐は、実際には高確率で中級の精霊の事らしい。昔は今よりも、精霊も彼らを見る人も多かったから、そういう話も多かったんだろ。

「シェルマ、この人ってここの主なのか?」

『はい。水の精霊の一族の中でも古株の方ですね。昔ちょっとご縁がありまして』

「そっか」

 だから彼女は、シェルマがいても慌てる事無く至って普通でいられたんだな。中級と上級の間って果てしなく大きな溝があるから、どうしてこうも平然としていられんのか謎だったんだよなぁ。人間社会みたいに厳しくはないが、こいつらにもやっぱり力量差というか身分による上下差はある。例えば、シェルマは年経て力もあるから、同族の中での地位は、本当はすんばらしく高い。でも精霊ってあんましそういう事に興味を示さないから、身分でのトラブルって発生しないんだ。本人達も、上・中・下の等級の差ぐらいしか意識してねぇんじゃねぇのかなぁ。

『あなたがシェルマ様の今の主ね?お初にお目にかかります。名は特にありませんが、皆には星空の姫君と呼ばれておりますわ』

「こちらこそ、初めまして。リーヴェと言います。…あの、失礼ですが、こいつの事何で知っていたんですか?昔ちょっと縁があったからだってシェルマは言うんですけど、信用ならなくって」

 一応納得したけれど、回答は集められるだけ集めておきたいのが俺。というか、悲しいかな、情報ってジャンクも含まれているから多方面から集めておかないと偽物掴まされたりするんだよな。

 シェルマは、すみませんね、と軽く苦笑を浮かべたが、彼女は、気にしないで下さい、と笑っていた。でも二人とも顔を見合わせて、ちょっと複雑そうな表情だった。…まるで、何か隠し事でもしているみたいに。

『シェルマ様は、水の一族の中では古参中の古参、水の帝に近しい方として有名なのですよ。長く生きている者ならば、大抵の者はその事を知っている筈ですよ。大戦の時も、当時の主と共に参戦されていますし。我々の中では人気のある方の一人ですね。私もそれなりに年を重ねて通り名を頂いておりますので、シェルマ様がご存じでもおかしくないですわ』

『…なんて彼女は言っていますが、本当は少し違いますよ。確かに私も彼女も、同胞の中じゃある程度名が通っています。ですが、私はそんなにすごい者ではありませんよ。それに、彼女とはこれが初対面ではありませんから。過去に何度か、その時の主と共にここを訪れた事があるのですよ。その時に知り合いになっただけです』

「…ふぅん」

 半眼気味に胡乱げな視線を向ければ、本当ですってば、信じて下さいよ、とシェルマは妙に必死になって主張した。でも、こいつは女たらしだからなぁ。何かあったんだとしても、何の違和感も無いんだけど。でもそんな俺らを彼女は面白そうににこやかに笑いながら眺めているから、多分本当に何も無かったんだろうな。ま、今回は信じてやるか。

「…じゃあ、そういう事にしておいてやるよ」

『主…』

 項垂れ気味に困った時の八の字眉をしてみせるシェルマに、気色悪い芸をすんじゃねぇ、とデコピンをしてやった。

『仲がよろしいのですね』

「まぁ小さい時から一緒ですから。今更気を遣っていられないっていうか、何か気の置けない親友って感じですね。あんまり主従関係は意識してないですから、余計に仲よく見えるんだと思います」

『でもそれはいい事ですわよ。本来、人と精霊は友のような関係だったのですから。いつの頃からか、主従として認識されていますけどね』

 そう言って優しく笑っている様は、遠い昔に離れ離れになってしまった母を思い出させた。温かくて慈しみに満ちていて。静かにこっちを見守ってくれている、…そう、彼女の通り名の通りなんだ。星々も黙ってこっちを見守ってくれているけど、彼女の笑みもそんな感じなんだ。

 彼女が腰かけていた岩から、俺達のいる岸辺へと移ってきた。水に浸かったのに服も髪も濡れていないのは…、多分水が自分の周りだけ避けるようにしているのか、そういう風になるように元々なっているのかのどっちかな。俺にはよく分からんが。

 ちょっと小首を傾げて俺の事を見つめていた彼女が、唐突に片手を俺の頬に添えた。人の手より冷たい手がふいに触れたもんだから、びっくりしてしまった。普段なら仮に驚いてもそこまで驚く事はないのに。過剰に反応し過ぎたんじゃないかと思うぐらい、体がびくっと震えたもんな。彼女はそんな俺にはお構いなしに、黙ったまま俺の事をじっと見つめていた。彼女の瞳に映った、困惑した表情の自分自身が見えてしまうぐらい近かった。

「…あの?」

 声が引っ繰り返っているのが嫌でも分かった。頼むから起きてくれるなよ、と心の中でキリになぜかそう願っている自分がいるのも、他人事みたいだったが分かった。

『…“天の愛し子”なのですね』

「え…?」

 独り言みたいに呟いて、長い睫毛を伏せて悲しく寂しそうな目をして、彼女はすい、と俺から離れた。説明してくれる訳でもなく、むしろそれ以降は俺の方は見向きもしないで、シェルマと二言三言だけまた話して、水底へと帰って行ってしまった。何があったのか、彼女が俺に何を思ったのか、俺には何も分からなくてただひたすら困惑するだけだった。どうしてあんなに笑顔の美しい人が、急にコロリと表情を変えて寂しそうになったんだろう。シェルマの方を向くと、こっちはこっちで押し黙ったまま彼女が姿を消した水面を見つめていた。

「…なぁシェルマ」

『…はい、何でしょうか』

 一瞬だけ奇妙な間はあったが、こっちを向いた時にはシェルマはいつも通りの人好きのする爽やかな笑みを浮かべていた。だから俺は言いたい事や聞きたい事は色々あったけど結局こう聞いただけだった。

「…“天の愛し子”って、何だ?」

『あれ、ご存じありませんでした?』

「あぁ。悪いけど、知らない」

『ではご説明しましょうか。…そうですね、簡単に言えば、自然界の全てのモノ達から愛される人、とでも言いましょうか。主はこのような話を聞いた事はありませんか?八帝全ての適性を持ち、例え相手が下級で力の無い精霊であっても自然と心を通わせ意思疎通ができ、複雑な使役文を唱えずともいとも簡単に精霊達を使役して様々な事を行い、なおかつ彼らが常に傍らにいて常に彼らに守ってもらえるような人の話を』

 うーん、そのまんま俺自身の事を言われているような気がするのは、気のせいかな。実際問題、どこで迷子になっても結局は誰かが、何かが正しい道を示してくれたから帰る事が出来たりするし。見えない何かに、頼んでもいないのに助けてもらったって事も何度かあるかもな。いつだったかは忘れたが、家の屋上ぐらいの高さの崖から落ちた時も、掠り傷と軽い打撲だけで済んだもんなぁ。…でもそういう話が、語り部が語ってくれる昔話の中にあるのは本当なんだ。ごく稀なんだが、そういう例が無い訳ではない。“天の愛し子”という呼び名は今まで聞いた事がなかったが、確かにシェルマの言ったような奴が出てくる話は耳にした事がある。

『“天の愛し子”は、我々がそのような、帝全員から祝福され愛されている人を呼ぶ際に使っている言葉ですね』

「つまり、俺はそれだと」

『そういう事になりますか。…主はこのような事に興味を示されませんし、知った所で何かが変わる訳でもありませんので今まで黙っていました。申し訳ありません』

「いや、誤らなくていいよ…」

 むしろ、冗談じゃねぇよ。そんな事俺の知った事じゃねぇし、だからどうしろってんだ、っていう方が強い。知った所で本当に何もどうしようもないんだ。あぁそうですか、で終わりだ。

『…まぁ、だからそれが何なのだ、と言われておしまいなのですけどね』

 ちょっと苦笑交じりに俺が思っていた事をそのまま言われてしまい、俺は何も言い返せなかった。シェルマもそれが分かっていたのか、軽く固まっている俺小さく笑いかけただけだった。

『主が今まで幾度か、精霊の自発的な働きにより助けられたのもこの影響があるからだと思われますが、本当の事は私でも分かりません。帝の方々の考えなど、雲の上の話すぎて掴み所がありませんから、我々上級の精霊でもさっぱりなんです。それに、主はただ単に精霊から好かれやすいだけなのかもしれませんしね。本当の事など誰にも分かりませんから。深刻に受け取る必要はありませんよ』

「そりゃそうだろ。この世界が誰かの意思によって動かされているゲーム盤だなんて、俺はそんなのはまっぴらごめんだね」

 そんな事をぬかす奴がもしいたら、躊躇なく張り倒してやる。俺は会った事はまだ一度も無いけど、自然界のあらゆるものを司る者としてそれぞれの帝は存在するし、その手下としてあれこれ影響を与えている精霊達も確かに存在する。だから、こういう目に見えない連中がこの世界を動かしていると考えるのも分からないでもない。だけど、帝達の頂点に、何人もいる帝を統括するために“八大帝”と呼ばれる帝達がいるけど、あの人達は共同作業で他の帝を統括しているだけ。それぞれ帝の司るものについては、何も口出ししていない。どっちかというと、班長みたいな役割を担っているだけ。この世界を動かしているんじゃない。“大いなる意思”とかそういうものの下にこの世界は構成されているって言う人が特に哲学者の中に出てくる事が時々あるが、俺はそんなのは信じたくない。そりゃ個人の考えは自由だけど、俺個人としてはそういうのは否定したい。今、自分が必死になって考えて悩んでいる事さえ、誰かが生み出した筋書き通りだなんて、信じたくない。死んでも認めたくない。かといって運命や必然性を否定しない辺り、何か矛盾になってそうでちょっと心配なんだけど。でも俺の意思は俺だけのものだ。他の何でも、誰のものでもない。それは今も昔もずっと同じだ。誰かの言いなりになる人生はゴメンだ。

『主は自立心が強いというか、自分で納得しないと気に入らない人ですし、知らず知らずのうちでも他者に流される事を嫌いますからね。今回も、ラグナー老師の頼みに対して軽くゴネていましたよね』

 笑いながらそう言われて、これまた返答に困った。確かにあの時、素直に答えずに回答を翌日に先延ばししたんだ。そん時も、逃げ道の無い、半ば強制的な話だったから抵抗があったんだよな。頭の中では、この世界は偶然よりも必然とかそういう次元で決まっていて、なるべくしてそうなっている事の方が多い、ってのは分かっているんだ。でも、どうしても、自分の生き方ぐらいは自分でどうにかして選びたいって思っちまうんだよな。老師は、例え定められたものでも、自分の意志でそこを進むならそれは立派に自分で選んだ道だから、何かあっても自己責任だ、って言っていたけど…。

『ま、すぐに答えが出るような問題ではないですし、私が口をはさむようなものでもありませんから、偶然と必然については自力で考えて下さい』

「…思いっきり他人事として放り投げんなよ。こっちはすっげぇ悩んだんだぞ」

『悩めるうちに大いに悩んでおいた方がいいですよ』

 そういって爽やかに人のいい笑みを浮かべられてしまっては、何も言い返す気にならなかった。これ以上問答をする気にもなれず、俺も仮眠をとることにした。今の季節は夜が短いが、思ったよりダルムンベルクの近くまでサッサと来られたから、まだ半時ぐらいは町の開門まで時間がある。眠らなくても、体は休める時に休めておかなきゃならんからな。

「…シェルマ、開門と同時に町に入っても怪しまれるだけだから、暁の星が昇りきったら起こしてくれ」

 そのまましっかりと外套を着こんだ上で、キリや沙駒達の隣で座り、剣を抱えるように、右膝だけを立てて視点にして体を丸め、目を閉じた。思いの外疲れていたのか、睡魔はすぐにやってきた。

 眠りに落ちる寸前、シェルマお得意の半笑いを浮かべた『やれやれ』が聞こえた気がしたが…。ま、いっか。


 日が昇った後。軽い行動食を食べた後、商人の幌馬車や旅人とかに交じってダルムンベルクの町に入った。荷物置き場を兼ねて、前払いできる安宿に部屋を一つ確保した俺達は、キリが朝食をちゃんと食べたいと言い出したので、仕方なく町の大衆食堂に行く事にした。あんまり人目に付きたくないから、食材を手に入れて自炊するか、弁当を買って部屋で食べるのが一番いいんだけど。…俺って意外と他人に甘いのかな。気を付けねぇと。

 そして俺は、今回の経費に占める食費の割合が一体どれだけになるんだろう、と二人の口から飛び出してくる会話を聞き流しながら、茫然と思案する羽目になっていた。

「頼むから、二人とも注文は程々にしてくれよ。予算は有り余るぐらい大量にある訳じゃないんだからさ」

 いくら補填が可能だとしても、開始早々それをお願いするような事態に陥るのは嫌だ。恥ずかしいじゃねぇか。この三人の中で唯一まともに財布を持っているのは俺だけだから、もしそういう事になれば、自動的に俺の金の使い方が荒いっていう風に誤解されるからな。俺としては、それは困る。一応手持ちの現金は全て持ち出して、防犯上シェルマに頼んで精霊石の中に収納してもらっているけど…。

「キリ、物珍しいものがあっても欲しいもんを欲しいだけ注文するんじゃねぇよ。みっともねぇし勿体無いだろ。それと、シェルマは限度ってもんを少しでも考えろ。いくらお前が一人で満漢全席行けるような奴でもちったぁ慎め。…ったく、何で俺だけ一番安い定食で我慢しなきゃいけねぇんだ」

 注文係の人を呼ぶ前に二人を窘めて、どうにかして量が多くて値が低い、学生の味方な定食を頼むように誘導した。キリの場合、外の世界が珍しいから同じに食いもんも珍しいと思うんだろ。そう思うのは当然だから、あれもこれも食べてみたいと思う気持ちは分からんでもない。問題はシェルマだ。こいつ、本当は水さえあればどこでも生きていけるんだが、人間界の料理を食うのがすんばらしく好きなんだ。おまけに、痩せ型の優男なのに、涼しい顔で幾らでも食べ続ける事の出来る、底無しの胃袋を持った大飯ぐらいなんだ。燃費悪すぎだと思うんだけどな…。生きていくのに必要な活力を食事に置き換えているんだとしても、その比率はなんかおかしい気がする。

「よう兄ちゃん。ここには観光で来たのか?」

 近くのテーブルでたむろしていた他の客が、物珍しそうに俺らに声をかけてきた。チラリと横目で見れば、シェルマとキリの二人は、やり取りの全権を俺に勝手に押し付け、自分の朝飯を食うのに専念してやがった。

「ん?んー、まぁな。親戚の兄弟二人がこの町に連れてってくれってうるさく言うから、仕方なくだ。何でこんなデカいガキ二人のお守りをしなきゃなんねぇんだか」

「そうかい、年も近そうなのにご苦労なこった。…しかし、厄介な時に来ちまったなぁ、お前さんら」

「…どういう事だ?」

 厄介な時期、と言ったおっさんに、険しくなり過ぎないよう努力した上で怪訝そうな表情を浮かべて聞き返すと、何だ知らなかったのか、と言いつつも教えてくれた。

「二、三日前から、この町に“闇の愛し子”がいるって噂が流れているのさ。実際、目撃情報もあるしな。何でも、一人で町外れの家の屋上とか塀の上とかに立っているだけっていう、妙な話なんだけどな。本当は、そいつは仮面を被っただけの人間だ、っていう噂もあるな。…そういや親方ぁ、親方もあれ見たって言っていたっスよねぇ?」

「おう、見たぞ。もう何遍も言ったと思うが、それがどうかしたのか」

「いやぁ、この坊主があの事知らねぇでここに人連れてきちまったらしくって。ちょいと話してやって下せぇよ」

 奥のテーブルから椅子ごとこっちへ移ってきたのは、筋骨隆々のハゲ親父だった。腰にぶら下げている荷物袋から考えるに、大工の棟梁かそんなとこだろ。

「こんな時期になぁ。坊主、そこの非力そうな二人は、お前さんの連れか?」

「あぁ。…なぁ、おっさん。今ここで、何が起きているんだ?」

「さぁな。だが、確かに俺はこの目で見たさ。黄昏時に、町外れの楼閣の上に命綱もなしで立ってやがった。顔はよく見えなかったが、多分ありゃあ仮面被っていたな。紐を両耳に引っ掛けるものではなく、祭りの縁日とかで売られているような、仮面の両端を結んだ紐を頭に引っ掛けるもんだろうな。んで、年の頃は…そうさなぁ、25、6ってとこだろうな。全身黒尽くめでなぁ。しかも信じられるか。そいつの後ろにな、ぼんやりとだが炎でできた巨人が立っていたのさ。そん時一緒にいた奴は、“闇の愛し子”しか見なかったと言うんだが、ありゃぁ陽炎じゃねぇ。もっと別のもんだった」

「なるほど…」

 本来ザディスは常に集団で、最低でも二人一組で行動するから、単独行動することはあり得ない。奴らは命令に忠実な人形だから、各自の意思なんて持ち合わせていないしな。だからそいつは、ザディスのふりをした誰かだと考えられる。仮面を外して服も着替えておけば、普通に町の中に溶け込めるしな。本物のザディスは顔面に刺青をしているから、人間がそのふりをするのなら仮面を使う必要もあるだろうしな。おまけに、おっさんが見たものが本当なのだとしたら、相手には炎の精霊の適性があるって事になる。巨人を引き連れようと思ったら、それ相応の力が必要。つまり、相手の力は相当なもんだって事だ。…こうなると、下手な事はしない方がいいな。警戒し過ぎて怪しまれても困るが、目立つ事をして密告されんのも困る。いつどこに一般人のふりをしているそいつがいるのかも分かんねぇんだ。町の外に出たら全てが自己責任だが、町の中でも大半は自己責任になるからなぁ…。…何事も無ければいいんだけど。

「とりあえず、二人も守らなきゃならんなら、さっさとこの町を出るか、あるいは一人ぐらい護衛として雇った方がいいと思うぞ」

「そうだな。教えてくれてありがと。気を付けるよ」

 礼を言ってから二人の方に向き直ると、シェルマは難しいツラに、キリは不機嫌そうなツラになっていた。無視していたようで、俺らの話はしっかり聞いていたらしい。という事は、今の話を説明しなおすという面倒な事をしなくてもいいという訳で、今後の対策を手っ取り早く練れるって話だ。…ただし、不機嫌そうな態度をとられる原因は分からない。


 でもそれは、宿の部屋に戻ったらすぐに分かった。役立たずのガキ扱いされたことが、大変嫌だったらしい。

「…誰と誰がリーヴェさんの親戚の兄弟で、非力なんですか」

「非力だって言ったのは、俺じゃないからな。そこは間違えるなよ。…お前ら二人を兄弟扱いしたのは、単に似ているからじゃない。どっちも金持ちの家の子みたいな雰囲気があるし、その分兄弟だって言っても違和感無さそうだからさ。…だから、怒るなって」

「怒ってなんて…。あんまりな言いようだ、と文句を言っているだけです」

「…やっぱり怒っているじゃねぇか」

 いらん所で気の利くシェルマは、俺ら二人を部屋に置き去りにして、一般人の姿に化けて市場に繰り出していた。情報収集にでも行ったんだろ。だから、幾ら求めても助け船は来ない。話を途中で切り上げて逃げ出そうもんなら、この後の道中がどうなるか、わかったもんじゃない。気持ちよく行程を進めるためにも、キリの機嫌をここで直しておかなきゃならない。

「…あのな、キリ。俺達の旅の目的は、他人に知られるわけにはいかねぇんだよ。だから情報を集めるためには、それなりに適当な嘘をでっちあげるしかない。ついでに、そのウソがばれないように、それらしく振る舞わなきゃならない。俺は即興で演技するのに慣れているが、お前はそうでもないだろ?…こう言っちゃ悪いが、お前は今まで、壁に守られた街の中だけで平和に暮らしていたんだからな。…それを悪いと言いたい訳じゃないがな。ようは、経験値の問題だ、って言いたいんだよ。まぁそんな訳で、あの時それらしく嘘をつこうと思ったら、あぁ言うしかなかったんだ。おっさんらの話に合わせなきゃならなかったし。だから、文句言うのもいい加減にしとけ。一々反応していたら、疲れるだけだぞ」

 溜息混じりにだが、どうにかして説得しようと試みる。相手の機嫌をこれ以上損ねる事無く、かつ納得してもらえるように話すのは、相手がどんな奴であっても難しい。特に、こういう不慣れな状況下にいる奴を相手にする時ほど、難易度は高くなっている気がする。おかげでこっちの眉間の皺はどんどん深くなっちまう。説明を受けたキリは、というと、まだ心持ち不機嫌そう…。頭では分かっているが、素直には認めたくないってとこかな。

「だとしても…。…確かに、リーヴェさんはお仕事柄、今回のような話はよく分かっているって、私でも分かります。任せておくのが一番だ、とも。自分が世の中を知らないのも、旅に不慣れなのも重々承知しています。…それでもどうにかならなかったんですか?」

「あー…。…分かった。次からは善処する」

 本当ですか?と目で聞き返されたが、俺は無視した。


 シェルマが戻ってきたのは、それから少ししてからだった。頃合を見計らったかのように帰って来るんだもんな。しかも情報はちゃんと仕入れてくるし。何をどうやったら、こんな短時間で十分仕入れてこられるんだか。…ま、情報源の約9割は、井戸端会議中のおばさま方だろうけど。地味な一般人に頑張って化けても、それでも見てくれはとことんいいからな、こいつ。

「で、何か分かったか?」

『食堂で聞いた話と、大差ありませんでしたね。これといって、特別な情報はありませんでした。一応目撃情報を纏めてみますと、目撃時刻は全て夕刻。主に町の城壁近くの、背丈のある建物の上に立っているところを見られています。ただし、それ以外に場所に関する共通項はありません。…証拠は、と言われると困りますが、伺った話を基に考えますと、今回の噂の主は恐らく人間でしょう。本物のザディスではありませんね。相手の年は20代の半ば程、格好は一般的なザディスのものと同じく黒装束だそうですね』

 夕方は、狭間の時間帯だ。人と精霊の多くが生活する日中から、魔物や一部の精霊が活動する夜へと移り変わる時だからな。だから、変な奴の現れる時間帯でもある。昔話とかで、人が人ならざるモノの住む世界に入り込んじまうってのがあるが、それも夕刻の話だ。今回の騒ぎを起こした張本人も、そのことを知っていてわざと夕方に姿を現しているんだろうな。

 …て事は、用事は日中に済ませて、夕暮れ時が近付いたら宿の中に引っ込んどいたほうがよさそうだな。相手に怪しまれなかったらそんでいいんだが、それでも見つからないに越した事はない。それに、慎重に事を運びすぎても、逆に相手に違和感を与える事の方が多い。その匙加減をどうするかは、難しいところ。

『それと、一つ奇妙な話がありましたね』

「奇妙って?何か、今回の話に関係しそうなのか?」

『関連性は不明ですが、最近この町で、原因不明の小火や不審火、それに伴う火災などが相次いで報告されているようです。ただし、発生個所に共通項は見受けられないとのことです。…いかがなさいますか。一度町を出ますか?』

 俺達が用があるのは湖の方だもんな。だから、わざわざここに拠点を作る必要はない。元はと言えば、相手の目を躱すのが目的だったし。敵側の人間がいるのなら、さっさと引き上げた方がいい。

「そうだな…。じゃあ、日が傾き始める頃にはここを出ようか。今からだと、地獄の荒野に突入することになるからな。湖の後どこに行くのかは、その時にでも決めよう」

『私は構いませんよ。ただ、ずいぶんと行き当たりばったりな行程だとは思いますが…』

「仕方ねぇだろ、手掛かりが一個も無いんだからさ。…キリ、どうした。何考え込んでいるんだ?気になる事があるなら、早めに言えよ。」

 静かに話を聞いているな、と思っていたら、難しい顔で黙り込んでいただけだった。俺に言われてはっと気が付いたのか、ずいぶんと慌てていた。

『気にする事はないですよ。何かあれば仰って下さいね』

「えっと…じゃぁ、一つだけ。…ザディスって、人じゃないんですか?」

 あー…。やっぱそうきたか。これもよくある質問だな。…てか、出発する前に何も教えてもらってなかったのか?

「人じゃねぇなぁ。人そっくりの、人ならざるモノ。確か…魔物とはちょっと違うんだよな?」

『えぇ。人に害をなす、という意味では同じですけど。こちらは、個々の意識を持っていません。あくまでも命令を完遂するためだけに動く、自動人形ですね』

「いくら攻撃してもケロッとしているからな。その分フェルネスとかダラックの方がいいよ。あいつらは、あれでも一応生き物だからな。攻撃すりゃ傷付くし、死んでくれるし。ま、どちらにせよ会いたくはねぇなぁ」

「…ダーレス側に属している連中の中で、特に会いたいと思う人もモノもいないと思いますけど」

「…そりゃそうだ」

 至極もっともな意見に、俺らは全員で頷いていた。

「そうだ、キリ。お前、こっから先野宿続きになっても大丈夫か?」

 野宿続き、と言われて奴の口元が引き攣ったが、そこは予想の範囲内だ。だから無視できる。まともに旅に出た事がない奴が、いきなり男二人と荒野の中で当分の間寝食を共にするんだ。結構心理的に辛いものがあってもおかしくない。ちなみに、こっちはとうの昔に慣れている。あっちこっちほっつき歩いている時は問答無用で野宿だったからな。それに、傭兵団に所属していたら色んな奴を護衛する事になるから、女の付き添い、なんてのもあったし。もっとも、あそこでの普段の生活は、野郎ばっかり数十人っていう厳しいものだったけどな。…あれを経験したら、どんな奴と行動しても大抵は問題ないかもな。

『キリ嬢、どうかなさいましたか?』

「いえ…。…そうよね。必ずしも宿に泊まれるとは限らないよね…。…はい、分かりました。あ、それと。私、野宿の経験が皆無なので、何をすればいいか全く分からないんですけど…」

「あー、それはまたぼちぼち指示出していくから。今のとこは、飯が作れたらそんで十分だな。慣れたら少しずつ仕事増やしてくし。そんでいいだろ?」

 ただし、食えるものを作ってくれねぇと困るが。…たまにいるんだよ。どんなゲテモンでも平気で食えてしまうから、自分の料理が悲惨な事に気付かず、自分は料理ができるんだと勘違いして他人にすんばらしく被害を与える奴って。…俺はどうなんだって?俺は、上手ではないが、少なくとも下手でもない。ぼちぼちってとこだな。

「分かりました。足手纏いにならないように努力します」

「あぁ。気張りすぎるなよ」

 部屋の小さな窓から外を見ると、太陽が南中するまでにはまだ暫くかかりそうだ。夏季に近付いているから、その分日中の時間が長くなっているからなぁ。…日暮れまでここにいるとしたら、ちょっと町をぶらついても文句言われないかな。

「…うし、んじゃ俺はちょっと市場に行ってくるから。シェルマ、留守番よろしくな」

『分かりました。…キリ嬢、どうでしょうか。ついでについて行ってみては?当分町の市場に行く事もないでしょうし、外の世界がどのようなものかを知る良い機会かと』

「確かに、それはいい考えかもな。この町なら、そんなに変な奴に出くわす事もないだろうし。…良いぜ、大通りぐらいなら案内してやるよ。大人しくしてられるんなら、一緒に来い」

「はい!」

 市場に繰り出せるとなって喜ぶ辺りは、やっぱ年相応の女子なんだな。


 食料のストックはあるので、今のところ買い足しておく必要はない。だけど、干し肉や干し果物は、多めに持っていても問題ない。それに、ここの葡萄酒が手に入れば言う事なし。その他、キリの防具とかも一応見繕っておきたいし。射手として十分な威力を発揮してくれりゃそれでいいが、肉弾戦に持ち込まれたら護身刀一本では対処しきれねぇ。でも、戦闘を仕事としていない奴にいきなり色々と持たせんのは無理な相談だ。ま、とりあえず市場をぐるっと一周してから考えるか。

 荷物番のシェルマを部屋に残し、俺たち二人は宿からすぐの市場へ足を運んだ。日差しを避けるためにアーケードが作られた道の両側に、様々な品物を扱う店が立ち並ぶ。人も多いから、逸れないようにしつつ周囲を見て歩くのは大変だ。

「気になる所があったら、黙ってないで言えよ。声張り上げんのが恥ずかしいなら、俺の服でも引っ張りゃいいし。とりあえず、一人で勝手に行動するなよ。いくらここが比較的安全な街だとしても、一本路地入るだけで何が起こるか分かんねぇからな。変なのに絡まれたら、それこそ面倒事の大安売りだ」

「…分かっていますよ。そこまで馬鹿じゃないですって」

「俺もそうだと信じているよ」

 でもキリよ。お前さん、内心でははしゃいでいるのが丸見えなんだよ。本当に俺の言った事分かっていんのかね、とこっちは力無くこっそり溜息をついた。俺達はあんまり人目に付いたらまずいからなぁ。でもこっそりとだけど服の裾を掴んでくれているところを見る限り、言いつけは守ってくれているらしい。仮にも族長の娘で、伝承者の孫娘で、今回の騒動に放り込まれるんだから、阿呆でないのは確かだろうからな。こっちも多少は信用してやらねぇと。

 そして、市場の中で足を引っ張ったのは、何気に俺の方だった。あっちこっちから声をかけられまくって、そのたびに足を止めたり立ち話になったりしたからなぁ。…たまに無視してやった奴もいたが。そういうのは厄介事を振りまいているような奴だから、極力関わりたくない。

「…こんな所で。一人でどうしたんだい?」

 背後で耳慣れた声がしたと思って振り返ると、ちょっと俺から離れてしまった隙に、キリが若い男に絡まれてしまっていた。丁度交差点の辺りなので人通りは多いが、客引きの声はちょっと落ち着いている。相手が一人なのも幸いした。パニック起しかけているキリも、周囲を見渡して俺を見つけたのか手を振ってきた。

「お前なぁ、はぐれんなって言っただろ」

「…すみません」

「まぁ、いいけど。お前が無事ならそんでいいし。それに、相手もこいつなら何の問題もない」

「ひどいなぁ。久し振りの再会なのにその言い方はないでしょ、リーヴェ君」

 そう言って笑っているのは、長い前髪で顔の右半分を隠した若い男。二重瞼でちょっと眠そうな目なのが特徴。

「うるせぇよ、ロッティ。俺はお前に会うためにここに来たんじゃねぇ。これでも仕事中なんだっつーの」

「相変わらずだなぁ。…という事は、この子は君の連れか。悪かったな」

 本当に悪かったと思っていんのかどうかは分からん。こいつは人を口車に乗せたりするのが得意だったからなー。暇さえあれば、変装して人混みの中で女の子引っかけたり、嫌いなおっさんを騙して遊んだりするような奴だったから。でもそれは遊びであって、真面目な時はきちんとした人間関係を築いていたっけ。

「連れって程でもねぇがな。…紹介するよ。こいつはロッタリオ。情報屋みてぇな事やっているが、俺の昔の同僚だ」

「うわ、なんて適当な紹介してくれるのさ。…初めまして、ロッティと呼んでくれたらいいよ」

「…キリです」

 笑顔で軽く会釈を返したロッティだったが、その後は妙に何かを考えているようだった。口元に片手を当てて黙り込むのは、こいつが考え事をしている時の癖だったが、それは今でも健在らしい。キリは何かまずい事でも言ってしまったか、あるいはやってしまったのかとこれまた心配そうにしていたが、家名まで言わなかったから正体がバレる事はない筈だ。…とすると、何が引っ掛かっているんだろ。

「ねぇ、リーヴェ君。この子って女の子か?」

「そうだけど。それが何か?」

「…僕の記憶が正しければ、君は例え相手が仕事の客でも、女の子と二人で市場を歩くような事はしなかったと思うんだが?」

 どうやらこっちの心配は杞憂に終わったらしい。話し方とかから、とりあえずキリが女子だってとこまでは導き出せたってとこだろ。

「そう…かな。覚えてねぇけど。でも仕事やっていたらいつかはそんな日が来るだろうし、とりたてて何か驚く事でもないと思うがなぁ」

「昔の君なら、そういう風に言う事すらなかっただろうよ。…ずいぶんと変わったね、やっぱり」

「そっちこそな。…そうだ、この際聞いておきたいんだがな、最近この町に“闇の愛し子”が出没しているって本当か?」

「うーん、そういう話は耳にするけど、僕はまだ見てないなぁ。あ、でも一昨日だったかな。ルディリアさんに会ったよ。相変わらず一人で何かやっているぽいけど」

 それはまた、珍しい人が。あの人は、あの時以降は行方をくらませて、殆ど人前に姿現さなくなっちまったもんなぁ。それ以外で生き残りの奴も、大抵があの事件よりも前に結婚とかで足洗って団を抜けた連中だし。だから昔の知り合いに出くわす事はなかなかに無いんだよな。…ロッティはダルムンベルクに行けば必ず会えるという、変わり種だけど。

「で、お二人さんはまだここに滞在するのかい?」

「いや、先を急ぐから今日中にここを出るよ。今はその前の買い出し。ついでに、こいつが市場見たいって言うからその案内」

「だったら、迷惑かけて足止めさせちゃったお詫びだ。僕が奢るよ。収入はあるから、そんなに貧乏じゃないし。君らの買い物に付き合うぐらい、どうってことないよ」

「ならお言葉に甘えさせてもらおうかな。…よかったな、キリ。こいつならいい店とか知っているから、欲しい物があったら遠慮せずに言えよ」

「え、でも…。人に奢ってもらうのに我が儘言うのって…」

「あー。僕の財布なら、本当に気にする必要はないよ。安心して」

 ま、キリが悩んでいるのも分からんでもないか。それに、長旅の持ち物として邪魔にならない者なんざ限られてくる。あんまり金目のものだったら、ロッティの財布を心配するよりも前に、街を出た瞬間から自分の命の心配をする羽目になるしな。装飾品は重くて荷物になるだけだし。…いざって時に換金する目的で持っておくのも一つの手だが、そのためにわざわざ購入するのはお勧めしないな。

 それにしてもロッティの奴、相変わらず女性達からの献上品が山のようにあるのかな。諸事情で前髪を伸ばしているが、基本的に見てくれはいいので女性から好かれやすいんだ。んでロッティ自身は欲しがる素振りを見せないんだが、向こうは何やかんやと、事あるごとに貢ぎ物をあいつの元に自主的に持って行くんだ。まー、ロッティは来る者は拒まずって性格だから、貰える者は全部貰っちまうので、ますます献上品が増える事になって。んで、昔は一つの町に長期滞在している時には、時々だったけど修羅場が発生して。俺達他の団員はそれ見て面白がっていたっけ。娯楽の乏しい生活だったし、当事者じゃなかったらこういうのは楽しんでられるからな。おかげで、ロッティをからかい過ぎて追っ駆け回される阿呆もいたけどな。ちなみに俺はそんな目に遭わないようにして、ロッティをいじっていた。

「それじゃあ…スカーフが欲しいんで、どこかお薦めのお店に案内してもらえますか?」

「ついでに、こいつに短剣を一本持たせたいから、いい店知っていたら教えてくれ。護身刀と短弓は持っているんだが、少し心もとねぇからさ」

「いいけど…。…使い方分かるの?それと、そんなに危険な道中なのかい?」

 君達、一体何やっているのさ、と真剣に心配するようでいて不審がっているような目を向けられた。キリも驚いたように俺の事を見つめていた。そりゃ俺の独断で決めた事だもん。ていうか、やっぱりこいつには怪しまれたか。

「先を急ぐし、かなり訳アリなんだ。だから詳しく話している暇はねぇ。…悪いが、手を貸してくれねぇか。頼むよ、ロッティ」

「いいけど…。…僕まで巻き込まないでよ。こっちは今の生活に満足しているんだし、今の僕じゃ昔みたいに戦えないの、君もよく知っているよね?」

 俺は返事をする代わりに小さく頷いた。ロッティは団の中では実力派に数えられる程に有能な奴だったんだ。それなのに団を抜けないといけなくなった理由を、俺はよく知っていた。あれは忘れたくても忘れられない、忘れようのない出来事だったから。

「あの…。旅に出る前に自分の身を守る術は一応一通り身に付けたんで、短剣ぐらいは使えます。…御迷惑でなければ、お願いできますか?」

「……分かったよ。お詫びに奢るって言ったんだし、付き合うよ。…そうだ、二人とも荷物はどうしているんだい?」

「宿に部屋一つ取って、そこに留守番と一緒に置いてきた。だから気にすんな」

「よし、ならまずはお嬢さんの頼み事から片付けようか。こっちにいい店があるんだよ。手頃な値段でいい物が手に入る店がさ」

「本当にロッティはそういうのを見つけ出すのが上手いなぁ」

 褒めているんだよね?と半眼で聞き返され、これのどこが貶しているように聞こえんだよ、と軽く頭を叩いてやった。そんな俺らを、キリはちょっと羨ましそうに見ていた。

 軽くじゃれながら、ロッティの案内で市場を進んでいく。昔と変わらずに黒々と光っている、束ねた長髪の先が道案内の旗のように揺れている。ロッティも長身な奴なので、人混みの中でも俺らはその目印を見失う事無く道を歩けた。曲がり角では、あいつもこっちの事を待ってくれるし。そのたびに先でヒョイヒョイと猫ジャラシよろしく揺れているポニーテールも、凪いだようにぴたりと動きを止める。暫く会話も特に無く、持っていた貴重品をスラれる事もなく、市場を案内された先に会ったのはこぢんまりとした露店街だった。アーケードの中に店を構えない、もしくは構えられない店、つまり行商人達による期間限定の店や、個人で制作した商品をチビチビ売るような店の集まりだ。掘り出し物が安く手に入るため、実は買い物をする時の穴場でもある。ただ、大抵の場合は裏通りに自然発生的に生まれて、いつの間にか消えて別の場所に移動するという、何とも言えない不便さもあるため、幻みたいなもんでもあるな。場所も場所だし、一人だけで行くのはやめておいた方が身のためだし。何かあっても基本的に見て見ぬ振りをされるから、自分の身を自分で守り抜けるという、腕に自信のある奴ならどうぞ。だから俺もわざわざアーケードの市場に足を運んでいたんだ。金はかかるが、そっちの方がまだ安全だからな。

「ここなんだけど」

 露店街の中でも中央付近、色とりどりの布で中が溢れかえっている店があった。

「店の人がいい感覚の持ち主でさ。ついこの間買い付けから帰ってきたばっかだから、まだ掘り出し物も残っていると思うけど」

 おばちゃーん、いるー?と奥に声をかけて布の山の向こうに入っていくロッティに続いて、俺達も砂埃を持ち込まないように服を叩いてから中に入った。店の中は露店にしては広く、掘っ立て小屋にしちゃやや立派。ここの古参かそんなのなんだろう。でないと、いくら現れては消えていく市場だとしても、中央付近に店を構えられないよ。

「あらあらロッタリオ、どうしたんだい、急に店に来て。私が店に戻ってからすぐに来てくれたのに」

「知り合いがスカーフで何かいいのないか探しているっていうからさ。まだ在庫ある?」

「あるわよ。…探し物があるのは、どちらかしら?」

 ここの女主人は、恰幅がよく面倒見の良さそうな雰囲気のおばちゃんだった。襟足の辺りで髪をお団子状に纏め、小花柄のスカーフを被っていた。

「あ、私です。砂避けに首元に巻くスカーフが一つ欲しいなと思って」

「分かったわ。在庫を取ってくるから待ってらっしゃい。あなた達も好きに見ていていいわよ」

 そういって、おばさんはまた荷物置き場に引っ込んでいったけど…。…好きに見てもいいと言われても、欲しい物なんか無いけどなぁ。

「なぁロッティ、あのおばさんがここの店長でいいんだよな?」

「そうだよ。あの人一人で全部切り盛りしているんだ。ちなみに、買い付けで留守にしている間は、僕がここの留守番やっているんだよ」

「人のよさそうな人だよな」

「うん。僕がここに落ち着く時も、あれこれ手伝ってくれたし」

「…道理で、あの後ここに居ついたお前と会った時に、すっげぇ変わったなって思った筈だ」

「あの頃はねぇ。確かに荒れちゃっていたからねぇ」

 思い出し笑いは、二人とも苦笑いでしか出てこない。まぁ…笑えるようになっただけましかもしれない。あの事件のあった頃は、俺たち団員全員が、それはそれは荒みきっていたからな。ルディリアさんが行方をくらませたのも、ロッティが団を出る羽目になった事件の少し後だった筈だし。…団自体が消滅したのも、丁度その頃だった筈。理由が何だったのかはなぜか覚えてねぇけど。


 あの当時俺達は、団長の知り合いかそんなからの断れない依頼を受けて、辺境地帯を転々としていたんだ。指示があるたびに長距離を移動していたけど、当時は辺境地帯の治安は今以上に悪かった。おかげで、三日に一度のペースで小競り合いに巻き緒まれたりして、団員は疲れ切っていたんだ。さすがの団長もうんざりしていたもんな。どんな依頼だったかは忘却の彼方に吹っ飛んでいるが、あれほど依頼を引き受けた事を後悔している団長は見た事なかったなぁ。で、そんなある日の事だった。とある峠道を通っていた時に、雇い主側に裏切り者がいたらしく、待ち伏せされた挙句に挟撃されたって事があったんだ。まぁそれぐらいでへこたれるような団ではなかったが、疲れていてかつ山道で形勢は不利ときた。とっさに俺はシェルマを呼ぼうとしたんだが、実は仲間の前では一度も呼び出した事が無かった事に気付いて、一瞬動きが止まっちまったんだ。その隙を背後からつかれそうになったんだが、そんな俺を体当たりで強引に助けてくれたのがロッティだった。だから俺を狙った刃は、ロッティの顔の右側に大きな傷を与える事になった。浅かったら何も支障は無かったんだが、ザックリやられたから視野は半分欠けてしまった。俺達にとってそれは命取りになりかねない。だから、皆に惜しまれながらもロッティは団を去らざるをえなかった。…俺のせいなのに。俺が悪いのに、誰も何も言わなかった。ロッティも、俺に気にするなよと言って、責める事はなかった。でも俺は、誰が何と言おうと自分のせいだって分かっていた。だから、あの日の事は決して忘れない。…今は笑って接していられても、だ。


「…でも、君も少しずつ変わっていると思うよ」

「俺が?例えばどこだよ」

 心当たりは一つも無いんだがな。そりゃ多少は適応するために変えた所はあるが、基本的なとこはずっと変わってないと思うんだがな。

「そうだな、少し明るくなったかな。何やかんや言って面倒くさがっても、結局は相手の事を考える、そういう面倒見の良さは変わってないみたいだけど」

「……俺、そんなに思いやりっていうか、面倒見のいい奴に見えんのか?」

「あれ、自覚無いの?」

「ねぇよ。少なくとも、自分の事をお人よしだと思った事は一度たりとも無いぞ」

 きっぱりと否定したが、ロッティは納得してくれていないようだ。何とも言えない微妙な笑みを浮かべたまま、軽く首を傾げてこっちを見ている。

「お人よしって訳じゃないけど、君は自分で思っているよりかは周囲の事を気にかけていると、僕なんかは思うけどな。まぁリーヴェ君がその事を全くもって自覚してないのも、想定内だったけど」

「だったらわざわざ指摘するなよ。うっとうしいだけだ」

「…それもそうかな」

 気を取り直すように、棚に並べられた布地に目を向けた。店先に置かれているのは全て布地の束や見本ばかりで、形になっている物は無い。さっきも裏から在庫を取ってくるって言っていたから、もしかしたら、布地を買い付けてきて客か注文を受けて物を作る、というやり方なのかもな。一応急ぎの客とかのために既製品は用意しているけど、基本は手作りという感じか。

「お待たせしましたね。滅多にこういうのは仕入れないから、探し出すのに手間取っちゃってねぇ」

 小さな一抱えの箱の中には、デザインの差はあれどキリが言った条件を満たすスカーフが少しギッシリ気味に入っていた。…売れ残りでないと信じたい。

「スカーフは棚の中にある布からも作れるから、時間に余裕があるならそこから選んでもいいわよ。男女兼用だから、あんた達もよかったらどうぞ」

「ありがとう。…だってさ。ついでだし、リーヴェ君も一つ買っとく?ていうか、いつまでこいつを使うんだい?」

 首元にやや緩めに巻いているスカーフの端を引っ張られた。軽くちょいと引かれたぐらいだが、首が締まるだろうが、と大げさに反応する。勿論こんなのはおふざけだ。その証拠に、俺もロッティも笑いながらこのやりとりをしていた。女将さんには、何馬鹿な事をやってんのかね、と呆れられたけど。キリは我関せずと、品物選びを決め込んでいた。

「確かにこいつ、何年物か思い出せねぇもんなぁ。かといって手放したくねぇし…」

「…珍しいね。いつもならそんなに物に執着しなかったのに」

「大事な人からの貰い物とか、思い出のある物だけ残すんだよ。だから基本的に俺の使っているのって、誰かのお下がりとか何かの記念品だなぁ。自分で何か買う事ってあんまし無いかも。元々頓着しない性格だったし」

「そうだったね。…あぁ、そういう事か。そりゃ心残りがあって手放したくないって思うか」

 何か納得したような呆れたような、ちょっとばかし苦笑混じりのような口調でこう言われた。うるせぇ、と言ってそっぽを向いてやる。でもこのスカーフが大事な物なのは本当だ。この元々は青灰色だったスカーフは、傭兵団に所属して初めての誕生日かなんかで、当時の団員皆が合同でくれた、誕生祝いだったんだ。汚れが溜まっては洗濯して、という扱いを受けたおかげで、今じゃすっかり砂っぽい灰色みたいな、訳分かんねぇ色になっちまったけど。青色がかっていた面影なんて、どこにも残ってない。生地自体は丈夫で厚手のものだから、まだ当分使い続ける事が可能。よって、今でも延々と使い続けちまっている、って訳だ。

 ぼーっと腕組みをしながら、それにしても質のいい布が多いなぁ、と感心して棚の中身を見ていたら、くいと服の裾が引っ張られた。振り返れば、キリがスカーフを一つ握りしめて、お伺いを立てるみたいにこっちを上目遣いで見てきていた。

「どうした。決まったか」

「はい。でも、一応これでいいか、とか値段とか確認しておいてもらいたくて」

「なるほどな。ま、そんじゃ一回試着…、おかみさん、試着させていいですか?」

「いいわよ。真剣な顔で決めていたからねぇ。いい選択をしたと思うよ」

 そりゃまぁ…。質のいい物に触れる機会は多かっただろうから。必然的に目は肥えているだろうし。っていうか、何で俺に最終確認を求めるかなぁ。奢りなんだから値段は気にしなくていいんだし、ずっと使うんだから自分が気に入った物にしておかないとただひたすら辛いだけだろ。

「えっと、こんな感じです」

 縁飾りも何も無い、本当にただの布みたいなスカーフ。幅もそれなりにあるから、ストールとしても使えるな。長さもあるから、二重三重に巻いても使えるだろうし、広範囲を覆うのも可能かな。色は蜂蜜色だから、砂まみれになっても大して気にならねぇか。…使う人にもよるがな。

「いいんじゃねぇか?似合っているし、使い勝手もよさそうだけど。気に入ったんならそれにしとけば?…どうせ悩んでいる時間は無いんだし」

 日暮れまでにはここを出る事は伝達済みだしな。最後の一言をボソッと、キリには聞こえるぐらいの低さと音量で呟くとあいつもそれが分かっているからか、ちょっと首を横に傾けて悩むそぶりを見せたが、結局は首を縦に振った。

「おばさん、これ下さい」

「これでいいんだね?妥協も心残りも無いね?」

「はい。これがいいんです」

 “が”をやや強めに言ったのは、本当にそれでいいのだという意思表示。…言葉って難しい。

「あんた達は何も要らないのかい?」

「僕はまたいつでも来れますし、今日は案内で来ただけなので」

「俺も今回はちょっと遠慮させてもらいます。…んじゃロッティ、会計よろしく。奢ってくれるんだろ?」

「分かっているよ。…おばちゃん、支払いは僕がするから」


 そう言って、二人が奥の机で会計のやり取りをしている間だった。ふと店の外を吹く風の匂いが変わった気がして、俺は様子を見るために少しだけ外へ出た。太陽は既に天頂を通り越しているが、夕暮れまではまだまだだ。周囲は、見たところ特に何か変わった様子もない。精霊達もいたって普通だ。

 気のせいかな、と思って店内に戻ろうとした時、いきなりそいつは姿を見せた。店の中に戻ろうとするまでは誰もいなかったのに、俺が道に背を向けた瞬間に、真後ろに何者かの気配が唐突に表れたんだ。思わず剣に手が伸びて臨戦態勢になっていた。

「そう、怖がらんでもええよ」

 いきなり現れたのは、しわしわの笑みを浮かべた小さな婆さんだった。多分背丈は俺の腰ぐらいあるかないかってとこかな、と思いたくなるくらい小さい。しかもそこそこ大きくて重そうな袋が一つ、傍らに置かれていた。彼女一人で運んできたにしちゃ、ちょいと大きすぎる。しかも、もしそうだとしても、この婆さんはちっともバテてない。…そもそも何者だよ、この人。

「あれ、オババ様。どうしたんですか、びっくりしたじゃないですか」

「ちょっと用があってね。この若者を驚かせるつもりはなかったんだよ」

 そのまま何事も無かったかのように袋をひょい、と持ち上げて中に入っていってしまった。俺は辛うじて剣を抜かずに、手をかけただけで済んでいたが、それでも柄から手を引っぺがすのに苦労した。よっぽど驚いていたらしく、体が強張っているもんな。…あー、でもあの婆さんが敵なら、今頃死んでいたな。反省しなきゃ。

「……おい、何者だよ、あの人。滅茶苦茶焦ったぞ」

「それはこっちが言いたいよ。急に君の殺気が流れてくるんだ、一体何があったんだ、って焦ったら…。あの人はいつもああなんだよ。いきなり音もなく現れてくるから。僕も初めて会った時はびっくりしたなぁ」

「俺なんか背後取られたんだぞ。びっくりじゃ済まねぇよ。本気で何なんだって思ったぞ」

 会計も途中だっただろうに店先に飛び出してきたロッティは、何があったのかが分かってホッとしているようだ。こういう事があるなら先に言っておいてくれ、というのがこっちの本音。この町へは何度も足を運んでいるけど、こんなのは初めてだ。心臓に悪いったらありゃしねぇ。

「確かに、リーヴェ君の殺気、ものすごい勢いで噴き出してきたもんなぁ。火山の噴火みたいだったよ。…とりあえず、中に入ろうか。あの人は用があって来たらしいし、あったからには紹介しておきたいからさ」

 そう言われては仕方がない。

 ロッティと二人で店内に戻ると、女性陣三人はお茶を飲んでいた。ものすごく和やかに。ていうか、キリよ、お前はなんでそんなにすんなりと馴染んでいるんだ。お前には警戒心というものが無いのかよ。…そう思ってから、もしかしたら本当に無いのかも、と思ってしまった。旅の経験は皆無らしいし、今までの生活環境を考えればありえない話ではない。人付き合いに関する感度は高いが、生存に関する感覚は鈍い、もしくはそもそも無い、っていうのは、都市の中でずっと生きてきた奴に共通して多く見られる特徴だからな。

「じゃあ二人は会うのは初めてだから紹介するね。オババ様は、この辺りの住人の中では最古参のお婆さん。ちょっと人間離れしているし、本名も年齢も全くもって不明だけど、皆の知恵袋として頼りにされている人でもあるし、僕らに色んな情報を、どんな情報機関よりも早く提供してくれる人でもある。少なくとも、悪い人ではないよ」

 とロッティは説明してくれたけど。年齢不明の婆さんって、それ、殆ど人間かどうかも怪しいってのと同義だろ。

「…そういやオババ様、用事って何ですか。こんな荷物まで持って来て」

「荷物の中身についてはまた別件じゃ。本題とは関係ない。ワシがここに来たのは、知らせを一つ持ってきたからじゃ。…ダーレスに与する者達の動きが活発になってきておる。内通者には十分気をつけよ。特に今は“闇の愛し子”に扮する者が来ておる。奴は恐らく、与せぬ者を見つけ出すために送り込まれた者じゃろ。密告されればひとたまりもないぞ。じゃから、今は時を待って、息を潜めておいた方がよい」

 って事は、俺らが噂を基に導き出した答えは合っていたって事か。この婆さんが一人でこれだけの情報を集めたんだとすれば、収集力は相当なもんだ。でも、今もう既に盗聴されていたら注意しても意味ないよな。逆に言えば、この婆さんは確実に敵に聞かれないと分かった上で話しているって事だよな。どこからともなく情報を集めてきて提供してくれるような人だ、受け渡しの時まで考えておくのが普通だし。よっぽどの密室とかでない限り、普通に話している声を他人から聞かれないようにしようと思ったら…。結界張るのが一番手っ取り早いかな。だとしたら、俺が感じたあの風の違和感も納得がいく。この辺の空気…風を散らしておけば、この場で発生した音は周囲の点でバラバラな方向に行くから、意味を成す音として他人の耳に届く事はなくなるんだと。

「じゃああの噂が真実だとすると、爆発騒ぎは炙り出しですかね。反旗を翻している者やその予備軍を見つけ出すため、わざとこちらを煽っていると?」

「そういう事じゃろうな。その辺はやはり、元々は戦いに生きておっただけあるの。よく分かっとる。…そちら側にも気の短い者はおるじゃろ。後は上手く皆を纏めておくれ」

「分かりました。……で、オババ様、今更ですけど、部外者が二人もいるのに何でそんな話を?」

「この者達ならば、聞かせても問題ないからの。…我等とは少しばかり異なる方法で、同じものを目指しておるから敵ではない」

 一瞬の沈黙。そして、騒然となる。キリは俺に向かって、自分は何も言ってないと必死に訴える。ロッティは俺とキリに、特に俺に向かって、一体何やっているんだと不思議そうに尋ねてくる。俺は婆さんに向かって、何でその事知っているんだよと食ってかかる。おかみさんは、多少は驚いたっぽいけど、キリの事を偉いねぇと褒めていたのでノーコメント。騒ぎの種を放り込んだ張本人の婆さんは、そんな騒ぎなどどこ吹く風でのんびりしている。しわしわの笑みを浮かべたまま、黙ってお茶をすすっている。

 ひとしきり互いに口々に質問をぶつけあって気が済んだか、少ししたら騒ぎは落ち着いた。と言っても、疑問符はまだ各自の頭上を飛び交っていたがな。

「えーと、じゃあつまり、リーヴェ君達も打倒ダーレスのために動いているって事か?」

「そういう事になるかな。どういう形でそれを成し遂げようとしているかは、絶対に言わねぇけど」

「何でだよ」

「天秤にかけて誓ったんだ。守らねぇとまずいだろうが。…ていうかお前の方こそ、いつの間にそんな事考えていたんだよ」

「元々セルベン領は四旗の駐屯地が無い事から分かるかもしれないけど、ダーレスに対して早くから従っている領地なんだ。それはここが実力主義の遊牧民の地だっていうのが大きく関係していると、僕なんかは思うんだ。その分下剋上とか反乱も発生しやすい。…君は、何でこの領内だけがよそと比べて取り締まりが緩めなのか、考えてみた事があるかい?」

 ロッティは戦闘力も高いが、学力も相当高い。本人は、学校には行けてねぇよと言って笑っていたが、あっちこっちから話を仕入れてはそれを蓄積していたおかげで知識量は相当なものになっている。応用力もあるから、知識を外に出して活用する力も仲間内では秀でていたっけ。

「…反乱を事前に阻止するため、わざと規制を弱めてたってか」

「そういう事。だから、僕らも秘密裏に動けているんだけど。…勿論わざと緩められている訳だから、反乱を企てたら相手の思うつぼかもしれない。ていうか、絶対そうだと思う。だけど、今この機会を逃したら、好機はもう来ないかもしれない。だからこっそりと反対勢力を集めているって訳」

「今じゃなきゃならねぇ理由って?何かあるのか?」

 俺らの理由は、王城の封が解けたからだけど…。これも言っちゃいけない情報の一つだからなぁ。

「…つい先日、ダーレスがある発表をした。一年後、奴はこの国を統治し始めて500年になるんだと。その記念式典を、昔の王城でやるそうだ。でもまだあそこは、本当にダーレスの手に堕ちたわけじゃない。そのせいで、あいつは王城を占拠するために戦力をあそこに集結させつつあるんだ」

「……お前らの狙いが見えてきたぞ。つまり、この動乱に乗じて勢力を拡大し、式典の時に一気に国を引っ繰り返すってとこか。お前なら一年もあれば根回しをして十分な戦力を確保できるだろうしな」

 問題は、何でここまで自分の手の内を見せてくれたか、だ。俺は天秤の事があるから言えないと突っぱねたが、ようは手の内を見せたくないって言ったのと同じ事だ。目的が同じでも味方とは限らないし、どんな奴でも計画は伏せておこうとするもんだ。…常識のある奴なら。ただ…ロッティって頭がいいから、策士でもあるんだよな。手の内を見せたんだから手を貸せ、って言いかねない。強制的に味方にしようとしたら、そうするのが手っ取り早いからな。相手の感情を利用する訳だ。俺はそこまで感情に振り回されないようにしているし、俺がそうならないように行動しているのもロッティは知っている筈だ。…余計にこいつの本心が分からなくなってきた。

「さすがだね。僕が言わなくても、ちゃんと分かってくれたよ。だったら、僕が助力を乞う事も予測済みかな?」

「そうなる可能性が高いだろうな、とは思っていた。ついでに言うなら、お前が助力を乞うてくる可能性が高いと俺が予測していた事も、お前には折込済みだったんだろうな。俺が予想できたのは、そこまでだよ」

「それでこそリーヴェ君だ。でも、僕は君をこちらに引き入れようと思ってこの話をしたんじゃないよ」

 にこりと笑ってこう言われ、逆に俺の表情は引き攣ってしまった。ロッティが笑顔でこちらの予想と逆の事を言ってきたら、それは要注意の標識だ。話題の裏にまた別の話題が隠されていたり、何かの罠が仕掛けられていたりするからな。策士の笑みは人を油断させる働きもあるから、余計に気を付けねぇと悲劇になっちまう。なんつーかな、実害が無かったとしても、面倒事に巻き込まれたりするんだよな。今はこれ以上ごたごたに付き合ってられないから、面倒事はゴメンだ。

「…じゃあ、何で」

「オババ様が話しても大丈夫だ、って言いだしちゃったんだし。それに、君は僕の事を売るような人じゃないって知っているからね。…今この場で初めて聞く話なのに、君が僕らの仲間になってくれるなんて、最初から期待してないよ。一応知っておいてもらいたかったのと、聞かれた事には正直に答えようと思っただけ。納得してくれた?」

「じゃあ、俺らを何かに巻き込んだりしないな?こっちも時間が残ってねぇんだ。他の事にまで手が回らねぇんだよ」

「大丈夫、それは約束するよ。…オババ様、本題ってあの知らせ一つですか?」

「そうじゃな。この荷物は、知らせを伝えるついでに、お若いのとお嬢さんに手渡そうと思うてな」

 袋の中には石が入った籠が二つ三つ、それと護身具みたいなのとか刀剣の類とか。あれだな、泥棒の隠れ家に合ったお宝の袋をそのまま一つ頂戴してきたって感じだな。俺も昔に一度だけ討伐隊の手伝いをしたから知っているが、本物のはもっと荷物で一杯な袋だけど。パンパンに膨れっちまって、裂ける寸前みたいなのもあったなぁ。

 しげしげと見てみると分かるけど、ここに入っているのは全部本物だ。しかも、かなり良質の物だらけ。まがいもんとかビーズとか、場合によっては劣化品を素人に売るってのはよくある手法だけど…。今回は売りに来た訳じゃねぇから別にいいのか。盗品ではなさそうだけど、妙に引っかかるんだよな。

「リーヴェ君、どうかしたのかい?眉間に皺寄っているけど」

「ん?あぁ、別に何でもないよ。…あの、これって全部本物ですよね」

「お若いのは、物を見る眼があるのぅ。…そうじゃよ、これは全部本当に大地の下より出てきた物じゃ。わしが今までせっせと集めとった物じゃが、さすがにこのおいぼれには不要になったんでな。役立ててくれる誰かに貰ってもらおうと思うてな」

 そう言ってけらけら笑う婆さんは、歯は結構無くなっているし、見てくれもしわしわで確かに宝石なんて必要なさそうな人だ。…失礼。別に婆さんを馬鹿にしている訳じゃねぇよ。…うーん、でもこれ、多分全部売り払うなりして換金したらかなりの額になるんじゃないかなぁ。

 キリは、袋の中から好きな物を持って行っていいよと言われたので、熱心に物色している。店の中でこんなやりとりをされている布屋のおばさんは、どうせ他の客は来ないんだから、と思ったのかどうかは知らんが、キリと一緒に袋の中身を見ていた。一方の俺達二人は、完全に暇潰し目的で中身を見ていた。俺達にとって、こういうのは重いけどあったら何かと便利、だけど正直邪魔でしかない、という風にしか感じられないんだ。使う機会が無いからな。持っていても、相場のいい所で即換金だし。

「あの、これ貰ってもいいですか?」

 キリが手に持っているのは、一振りの短刀。鍔が無い形なので、鞘に収めているぶんには、ただの棒状の物に見えない事もない。隠し持っておくにはぴったりな奴だ。ただ、こいつは鞘に一つだけ、黄緑色で透明な石‐多分、ペリドット‐が嵌め込まれていた。装飾用の刀剣にはそういう加工をされている物が多いので、実戦用かどうか確認するために手にとってみれば、しっかりと重かった。抜いてみれば、十分実戦向きの仕様になっている。女が使うには十分な大きさだし、重すぎでもない。文句の付けどころは無いし、これでいいと思うんだけど…。でも何で石が嵌っているんだろう、と思ってよくよく見れば、中で何か動く影がある。

「リーヴェさん?どうしたんですか?これ、だめですか?」

「いや、刀自体は十分役に立ちそうなんだけどな…。…婆さん、この鞘に嵌め込まれている石、これって精霊石じゃねぇのか?」

 えー?!と大げさに叫んだのは、ロッティ。店のおばさんは、あら…と言ったきり呆然としている。キリは驚いているけど…、ちょっと反応が薄い。これもそうなんですね、ってむしろ興味深そうにしている。

「いかにも、そうじゃ。よく分かったの」

「前に別の石を見た事があるから。…これがそうだと知っていて他人に譲ろうと、この袋ン中に入れていたのか?」

「本来持つべき人へ渡すためじゃよ。ここで嬢ちゃんがそれを手に取ったのも、必然というもの。わしはただ単にこの中に全て放り込んでおいただけじゃい」

 あっさり肯定されてしまった。それにしても…、集めた物は中に何かいてもいなくても、縁のあった人にあげようなんて、普通の人のやる事じゃねぇ。そもそも、普通の奴はこんなに集められない。でも、この婆さんが人間じゃないとするのも、無理があるんだよなぁ。精霊は同胞を売るような真似はしないからさ。だから、奴らは主持ちの精霊石で、契約待ちの石に出くわしたら、中にいる奴を解放しようとする事が多い。相手が外に出るのを拒否した場合は、その石はそのままその場に置いておくかな。誰かへ渡すような事は、まず無いな。それに、あいつらは人界に自ら進んで干渉しないタチだから、情報提供云々っていうのも、結構怪しい。本人に聞くのが一番手っ取り早いんだけど…。俺の背後を取れた理由も知りたいしなぁ。

「…そうか。そういう事なら、キリ、ありがたく貰っとけ。どーせ短剣の事も考えなきゃなんなかったんだ、丁度いいだろ。で、ロッティ、そういう訳でそっちの案内はもういいよ。ここの支払いだけお願いな」

「…もう済ませたよ。本当、君ってそういう所は変わんないんだねぇ」

「うっさい。……なぁ婆さん。もし違っていたら謝るが、もしかしてあんた、本当は風か大地の精霊なんじゃないのか?」

 これには、婆さんが笑い出しちまった。そうか、わしの正体まで見破ったか、こりゃ面白い、って。大口開けての大笑いだ。俺は、やっぱりか…、と溜息をついたが、残り三人は思考回路がマヒしているのか、パニック一歩手前なのか、揃いも揃ってポカンと間抜け面を晒していた。面白い見世物ではあるんだが、それを楽しめるような気分じゃねぇ。

 …たまにいるんだよなー。常に実体を取って生活して、時々同胞から嫌がられるような事も平気でやって、本当に見分けがつかないぐらい人間になりきっている精霊って。でもそういう奴って珍しいから、俺でも会った事は片手で数えられる範囲内でしかないけどな。そん時はシェルマが一緒にいたりして、俺が尋ねなくても正体が分かっていたんだけど。ちなみに、何でこんなのがいるのかは不明。個人の価値観の問題だろう、と俺は思っている。本当の事は知らねぇが、知るのも面倒だ。個人的には、実体を取られると気配が精霊のものじゃなくなるからすぐには気付けないんだよな。

「いやいや、こんな面白い事は久し振りじゃい。確かに、わしはこの地に根を下ろして久しい風の精霊じゃよ。お若いのの背後をつけたのも、いずこからともなく情報を手に入れられるのも、全てはそのためじゃ。石をこのように溜め込んだのは、単なる趣味じゃがな。わしを見つけた者や正体に気付いた者に宝を与えるのは、そこから派生した楽しみ、といったところかの。まぁ今回は、偶然にも同胞の眠る石を見つけた事じゃし、希有な気を持つ旅人‐お主らの事じゃ‐が訪れておる事じゃし、いっそのこと預けようかと思うてな。…いやぁ、今ではわしみたいに人間に交じって生きる同胞も、わしみたいなのに気付く人間もおらんようになっておったから、そろそろ潮時かと思うておったが。長生きはしてみるもんじゃな」

 いや、一人で面白がられても困るんですが。本当に何の知識もないであろう店のおばさん含め、一般人三人に説明するなんて、俺には無理な芸当なんですけど。もしもーし、婆さーん、周りに気付いてくださいよー。それと、せめてロッティだけでもいい、誰かさっさと正気に戻れ。

「…そうっスか。だったら俺がふいを突かれたのも仕方がないですね。風は気配を消すのが得意だから、諜報活動に向いているんだ、って昔聞いた事があるんで」

「待て待て、勝手に話を進めないでよ。オババ様、こりゃ一体どういう事なんですか。リーヴェ君も、どうしてそこまで平然としてられるんだよ」

 願いが通じたのか、ロッティが真っ先にこっちに戻ってきた。少し遅れてキリが現実に戻ってきて、店のおばさんに自分の持てる知識を総動員してどうにか説明しようとしている。が、おばさんは完全に思考が吹っ飛んでいるみたいで、話を半分も理解しているかかなり怪しそうだ。

「一体どういう事かといわれてもの。あたしゃ本当に精霊だよ」

「でも、足元に影伸びていますよね?」

「人に紛れて生きる精霊は、実体をとっている。つまり、俺達生身の人間と殆ど変わんねぇって事だ。当然、足元に影が伸びる。なおかつ精霊としての力はあるから、超長生きだ。この人の場合属性が風だから、神出鬼没にもなるか。そもそも、婆さんが精霊の姿のままなら、精霊をその瞳に映さない奴らは気付けねぇよ。…と、こういう事でいいですよね」

「そうじゃな。…若き反乱軍の指揮官よ、この事は内密にしておくれ。我らは人と共にある事は望むが、争いに巻き込まれる事だけは避けたいんじゃよ。強大過ぎる力は、無駄な争いしか生まんからの。構わんかね?」

「……分かりました」

 おばさんも黙っていて下さいね、と声をかけたロッティは、事情を説明しろ、と言わんばかりに疑念たっぷりな目で俺を睨み付けてきた。…狸のおっさんの所でも思っていたけど、反乱分子の連中は誰が敵で誰が味方かが分からんから、かなり警戒心が強くなっているのだよな。しかも婆さんはロッティの事を、反乱軍の若き指揮官って呼んだ。つまりロッティは反乱組織の上層部に属していて、組織維持のためには昔の仲間でも倒す必要があるならそうする、ていうかそうしなきゃならない立場にいるって事だ。こいつは一度やると決めたらとことんまでやる性格だから、俺を殺すと決めたら本当に容赦しないだろうし。ここは、自分は敵じゃないと主張して場を切り抜けるべきだな。

「俺は単に精霊が見えるってだけ。知識があるのは、見えてしまうからには対処法を身につけなきゃならんからな。必要に迫られて覚えたって訳。お前ら、反ダーレスの旗を掲げる連中と争う気は毛頭ねぇよ」

「…本当だろうね」

「何度でも言ってやるよ。俺は用事があるから、お前達の味方になるのは無理だ。でも、俺は個人的にダーレスが嫌いだ。だから奴らの味方にもならない」

「どちらの勢力下にも入らないって事かな」

「そういう事」

 じっと俺の目を見つめていたロティだったが、はぁ、と大きく溜息をついた。仕方がないか、とボヤきつつ諦めた様子で苦笑を浮かべている。ひとまず納得してくれたようだ。

「君の頑固な所は、相変わらずだね。…あ、はい、キリちゃん。これ、どうぞ。大事に使いなよ」

「ありがとうございます。…御迷惑をおかけしました。おばさんも、ロッタリオさんも、どうかお気をつけて」

「丁寧にありがとうね。お嬢さんも、道中気を付けるんだよ」

 ロッティがスカーフの入った袋をキリに渡して、結局何が何だか、後半よく分からないままお開きになってしまった。

 おばさんに見送られる形で店を出た俺達だったが、婆さんも一緒についてきた。…そういや、荷袋の中身もうやむやなままだな。

「…二人とも、こっちへおいで」

 案内されて、近くの裏路地に入る。人気が無いのは、人払いの結界のおかげか。

「さっきの話だけどね。お嬢さんが手に取ったんだ、あんたがあの短剣を使うといい。わしの感じた稀有な気の持ち主は、お若いの、お前さんみたいだけどねぇ。…名前、なんていうんだい」

 こんな所で真名を言う訳にもいかないよな…。

「…リーヴェと言います」

「……なるほどね。あんたが、そうなんだね。噂には聞いていたけどねぇ。…よし、あんたにはこれをあげよう。中身はただの石だが、道中の役に立つだろうよ。後は、好きなだけ持って行きなされ」

 手渡された小袋には、大体人の親指の半分くらいの大きさで、よくあるように楕円形に成形された石がごろごろ入っていた。重いし荷物にはなるが…、くれると言うんなら貰っておこう。ごそごそと大袋の中も漁って、幾つか追加してから上着の隠しに入れた。

 帰るぞ、とキリに声をかけたが、なぜか今更ながら少し困ったような表情になっていた。

「どーした。日が沈み切る前にここを出るなら、もうそろそろ帰らねぇといけねぇんだけどな」

「分かっています。…あの、本当に私みたいなんが、精霊石なんて持っていていいんですか?」

 悩んでいたのは、そこか。

「んー…、別にいいんじゃねぇかな。たまたまそいつと縁があったって事だろうし。それに、向こうがお前の事を拒絶してたら、お前はその石に触れる事ができねぇからな。時に何も起きないって事は、お前がそれを持っていても大丈夫って意味だと思っとけ。ま、何か困ったら手を貸してやるぐらいはできるだろうから、いざって時は遠慮なく言え。それ以外は、基本的に自力でどうにかしろよ」

「安心しぃ。あんたみたいに素直な子は、わしらにとっちゃ一番ありがたい存在じゃ。何も悪さをしなければ、誰も取って食いやせん。それに、精霊を友に持つのに、身分なんぞ関係ない。気に負う事はないよ」

「そう…なんですか」

「そうだよ。そうと分かったらさっさと行くぞ。俺達は、いつまでものんびりしてらんねぇんだよ」

「…他人事だと思って。…これ、大事にします。お婆さん、ありがとうございます」

「二人とも、気を付けての」

 旋風が吹いたかと思うと、婆さんはまたどっかへ消えていた。


 その後、俺はキリを連れて大通りに戻ろうとしたが、途中で諦めた。道が人でごった返していて、通れるような状況じゃなかったんだ。

 市場の騒々しさとは違う意味で騒がしい。怒号と悲鳴が入り乱れている。ケンカ…にしちゃ騒ぎが大きすぎる。皆同じ方向から逃げてきているしな。それに妙に空気がきな臭い。

 そう感じた時だった。

 どっからともなく、火柱が何本も同時に上がった。視界にその火柱が入ってきた瞬間には、俺はキリの手を引いて裏通りを走り出していた。宿は市場に近い裏通りの傍で、街の小さな通用門の近くだから、そこにしておいてよかったと心底思っていた。

「シェルマ、マズい事になった!ズラかるぞ!」

 宿からはあの移動する火柱の先っちょが見えるかどうか、といった感じだが、シェルマはこうなると分かっていたかのように、沙駒に荷物を括りつけて宿の玄関先で待ってくれていた。婆さんから貰った物は荷袋に捻じ込み、沙駒ごとシェルマに預ける。

「狙いが俺らなのかは不明だが、逃げた方がいい。ありゃどう見ても自然現象じゃねぇからな。…シェルマ、キリの事、暫く頼むな」

「え、ちょっと待って、じゃあリーヴェさんはどうするんですか?!」

「心配すんな、後から追っかける。あれぐらいの規模なら…、俺一人ぐらいなら、巻き込まれても大丈夫だから」

「何ですか、その間は…。ここに来る前もそうだったけど、どうして自分一人で解決しようとするのよ…」

「つべこべ言っている暇はねぇんだって。狙いが俺らなのかは分からんが、見つからないに越した事はねぇ。おれも、仕掛けているのが誰なのかを確認したら、すぐに追っ駆けるからさ。…シェルマ、そういう訳で、“湖”で待っていてくれ」

 表情が心持ち強張ってはいるが、さすがは長年の付き合いがあるだけはある。こういう事態への慣れがあるからな。相手がザディスなのかはさっぱりだが、急がないと門はすぐに人と物で溢れて通行不可になっちまう。あいつもそれが分かっているから、渋るキリを半ば強引に引き連れて去っていった。

 さて、と。あいつらは逃がしたし、俺も相手の顔をちょっと拝んだら退散するか。もし本当に俺らの敵だったら、また対策を練らなきゃならんしな。


 火柱はあっちこっちで上がっているが、全体としては町の中央部から周囲を囲む城壁の方へと、徐々に広がってきている。大きな炎が上がっているが、それはただの見せかけで、爆発自体は大したこともなさそうだ。となると、仕掛けてきた奴はまだどっかに隠れていて、ネズミがかかるのを待っているってとこかな。

 周囲を見渡すと、近くにいた町の人はあらかた外へ避難した後だった。…いや、外に追い出された、という方が正しいかもな。無人に近い状態にする事で、何かあっても無関係の人間を巻き込む確率は低くなるからな。相手にもそんぐらいの思慮分別はあるって事か。…それか、邪魔が入るのを嫌がったか、だな。どっちにしろ、俺には関係ない。多少罠が張られていたとしても、それも知ったこっちゃない。死ななかったらそれだけで十分だし、相手の顔が確認できさえすればいいんだから。

 通りは他の所から逃げてきている人でまだごった返している。俺は家の屋根の上を走っていこうかと思ったが、爆風やらなんやらのせいで足場がかなり悪くなっていた。どのみち、人目に付きやすい。仕方がないから、路地裏を走って火柱が描く円の中心に向かう。ま、障害物だらけでごちゃごちゃしている路地裏とか貧民・流民街は、俺にとっちゃどの町にあるものだろうと古巣みたいなもんだ。小さい頃は追手を撒くために、よくこういう所を駆けずり回っていたっけ。おかげで、逃げ足とか咄嗟の判断力は上がったけど。だから傭兵団に所属する事になった時も、大して困らなかった。あの頃は制服を着て多分こういう所へは近寄らなかったけど、やっぱ追手を撒く事はあったからな。そういう時は、昔の勘が大分役に立った。

 で、火元を探そうと走っているのはいいんだけど、いざって時の逃走経路はどうしようかなぁ。地上は黒煙と炎があっちこっちから立ち上っているし、通行不可な道もあるだろう。…この町なら、地下の水路使えばいいか。となると、用水路か何か、地下への入り口を探さなきゃなんねぇんだが…。もう町の中心部が近いんだよな。しかも、目の前では塀が行く手を阻んでくれている。多分これ乗り越えた向こうは行き止まりじゃないと思うんだが、どうすっかな…。

「よう」

 あーでもないこーでもない、そもそも火元は何なのかとか、誰が何のためにとか、噂との関連はどうなのかとか、いろいろ考えながら塀をよじ登る術を考えていたが、頭上から投げかけられた一言で動きが止まってしまった。ギシギシとぎこちなく声の主のいる方へと顔を向けるが、表情が硬いのは隠しようもない。

「どうしたよ、こんな所で。まるで幽霊でも見たみてぇな、引き攣ったツラしてよ。こーんな危険な時に何やっているんだ」

「…ルディリア先輩。先輩こそ、こんな所で何やっているんですか」

 器用に姿勢を保ちつつ、全く気配を感じさせずに左斜め後ろの家の屋根の上に立っていたのは、昔傭兵団で一緒だった先輩だった。刈り込んだ褐色の髪に明るい茶色の瞳、どこにでもいるような平凡な見た目のおかげで、見る人に何の印象も抱かせない。あまりにも普通でありすぎて、記憶に残りにくい。そんな人だけど、今は、その額にかけられた、顔の上半分だけを覆う形の仮面が異彩を放ちまくっていた。真っ白に塗られた顔は無表情で、目の部分は漆黒に塗り潰され、紅で目尻が彩られている、という奇妙な物だ。目尻に紅を付けるのは、遠い異国では呪術者の証とされている、とどこかで聞いた事がある。でもこの国では、それはそんないいものじゃない。この国で同じ事をやっている奴がいれば、特にそれが刺青になっていたら、そいつはザディスなんだ。奴らは滅多に人前に姿を見せねぇが、目尻の紅と、蒼白で無表情な顔に底知れぬ闇のような目、という不気味なツラのせいでよく目立つ。だから初めて奴を見たという人でも、すぐに正体が分かるんだ。

「…何で、そんな仮面つけているんですか」

「仕事だよ」

 ロッティは、一昨日ぐらいにこの人に会ったって言っていた。一人で何かやっているっぽい、とは言っていたが、この仮面については何も言っていなかった。あん時の様子からして、あいつが嘘をついていたとは考えにくい。そもそもあいつはそんな奴じゃねぇし、どっちかっつーとこの人とは仲が悪かったから庇うような事もないだろう。だから、ロッティと会った時にこの人が一般人の格好をしていたのは疑いようがない。じゃあ噂は?噂では、ザディスの面を付けた若者が一人、夕暮れ時に出没しているって話だった。年の頃は25、6って聞いたから、丁度先輩と同じぐらいか。それに炎の巨人が陽炎のように立ってたってのも、この人がその噂の若者なのだとしたら説明がつく。

「…先輩、もしかして最近この町で噂になっている、ザディスの格好をした若者って、あなたの事ですか?だとすると…、仕事は、ダーレス配下として働く、という意味ですよね」

「よくできました。いやぁ、暫く会わなかったけど、随分と落ち着いて考えられる子になってくれていて、先輩としては嬉しいな」

「俺は褒められても、嬉しくも何ともないですけど。というか、なぜこんな事を?何か目的でもあるんですか?」

「目的、ねぇ…」

 この様子だと、ダーレス側はまだ俺達の存在に気付いてなさそうだ。そういう動きがある、とは気付いていたかもしれないから、ちょっと泳がせているだけなのかもしれないけど。…でも、どっちにしろマズい事になった。この人が敵なのは確定だけど、真っ向勝負を挑んだとしても、俺には万に一つも勝ち目が無いんだ。のらりくらりしているように見えて、ロッティと並ぶ双璧、つまりあの団の中じゃ団長を除けば一、二を争う腕前の持ち主なんだよ、この人。おまけに、俺と同じで精霊術が使えるし、それを堂々と使ってくるしな。こんな所でも躊躇わずにぶっ放してくるに違いない。

「本当は、この辺りにいる反乱分子とか、不穏な動きをする奴らをどうにかしてこいって仕事だったんだけどなぁ。…なぁ、お前さ、こっち来ねぇか?いい所だぞー。来る者は拒まねぇし、実力主義だから俺らみたいなのは優遇してもらえるし、欲しいもんは何でも手に入るしな」

 そういって笑っているけど…。昔から先輩は、時々濁った眼をしていたし感情も読み取りにくかったが、今じゃ完全に死んだ魚の目をしていた。怠惰に、流れに身を任せて世の中を生きているだけ、それでいて自分の欲望には忠実に生きている奴の目にそっくりだ。強い力の下にいるのが一番だってのがこの人の持論だが、それは俺の主義とは相容れない。俺は、そんなのは嫌だ。

 何よりも、俺はダーレスを憎んでいる。

「…そんな生き方で本当に楽しいんですか?」

「何だって?」

「強大な庇護者の下、安寧の約束されたぬるま湯のような生活なんて、俺は大嫌いです。自分が本当に欲しいもんは、自分で掴みに行きます。それは誰かから与えられる物じゃない。賢く世の中を渡り歩くのが先輩の主義でしょうが、残念ながら俺はそうは思いません。なので、その申し出はお断りさせてもらいます」

 さぁ先輩に喧嘩を吹っかけちまった。これで俺も、獲物として認識されただろうな。実際問題、先輩の口元はニィ、と吊り上がっている。獲物を前にした時の、肉食獣の笑みだ。恐怖で体が竦むが、気にしたら負けるどころか殺されてしまう。ここからは生き延びる事を最優先事項として行動しなきゃならねぇ。

「ついでに言っておきますが、俺はダーレス側ではありませんし、反乱分子側の人間でもありません。何か情報を引き出そうとしても無駄ですよ」

「だとしても、だ。正体がばれちまったからには、おまえを倒さなきゃなんねぇんだな。まー、お前が相手になるとは思ってもみなかったがな。…容赦しねぇから、そのつもりでいろよ」

「俺も、まさか先輩と本気でやり合う日が来るなんて思ってもみませんでしたよ。それに、先輩が手加減を全くしてこないのは、昔もそうだったじゃないっスか」

 団にいた頃は仲間の前では結局一度も使わなかったが、こうなったら使うしかない。周囲に目を走らせて何が近くにいるか確認していると、連中もこっちに気付いたのかワラワラと寄ってきた。先輩はこんな俺を見てほんの少しだけ驚いて、それからどこか羨ましそうな、そんな目を一瞬だけして見せた。

 でも、それは本当に一瞬だけだった。

「…星と共に生き常に生まれ変わるモノよ、薙ぎ払え」

「…ッ。あらゆるものを内包し静かに眠るモノ、絶えず移ろい留まる事を知らぬモノよ、我を助ける守りとなれ!」

 こう言い終わるや否や、俺の立っている辺りを炎の帯が呑み込んだ。爆発炎上で、日干しレンガ造りの弱い建物はあっちこっちで崩れていってしまっている。全壊だけでも何棟あるやら。被害を受けちまった家の人、すみません。

 それにしても、先輩は火の適性だけは抜群にいいんだよな。とっさに内容を見切って防護壁作ってなかったら、今頃消し炭になっていただろうよ。だから爆発炎上系は、通常より短い文句で、なおかつ通常より威力がデカいと思っておいた方がいい。でないと、巻き込まれたりして死んじまう。

「おいおい、まさかこれ一発でくたばったんじゃねぇだろうなぁ」

「…んな訳ねぇっスよ。一発目であれは、ちょいとキツいっスけど」

 地面からせり上がってきた壁を取っ払って、外に出る。多少煤けたが、そんなのは問題ない。火傷したりしてないから、運が良かったんな。…シェルマに頼らねぇで、どこまで対応出来るかな。あいつの存在は、不用意に他人に知られたくない。先輩もあいつの事は知らない筈だし、何よりも敵側の人間だ。何よりも知られたらマズい人だ。となると、自分自身の能力に頼るしかない。

「つーかさぁ、何でそこまでこっちの陣営に入るのが嫌なんだ?傭兵やるなら、力のある奴の下にいる方が安定した職も手に入るし、いいと思うがな」

「先輩には、そんな事はどうでもいいじゃねぇっスか。俺は、嫌なもんは嫌だ、ってだけです。だから、あなたに何と言われようと、死んでもダーレスの味方にはなりません。それ以上でもそれ以下でもねぇっス」

「お前って本当、昔から頑固だったよなぁ。一度こうと決めたら、てこでも動かねぇっつーかさ」

 そう言う先輩の背後では、何か大きな気配が渦を巻き始めていた。ハッとして先輩を見ると、ニヤニヤと本当に気分が悪くなりそうな嫌な笑みを浮かべている。…噂の若者の後ろには陽炎みたいな巨人がいたって、食堂で会ったおっさんが言っていたけどよ。昔のあの噂も本当なのだとしたら、先輩、あいつを従わせているんだよな…。

 俺の脳裏に記憶の底から出てきたのは、団の中での先輩の二つ名と、その由来に纏わる噂話だった。確かこの人は、炎の上級精霊の中でもとびぬけて最強な奴と主従関係を結んだって話だ。そいつは精霊石を必要とせず、いつも先輩の後ろに控えているって。姿は俺も見た事がないが、常に妙な気配があったのも事実だ。それと、シェルマがこの人と、その後ろの気配にやけに敵意抱いていたんだっけ。んでまぁ、炎でバカみてぇに強いってところからか、“スルト”ってあだ名がついて。先輩も火の適性はいいから、炎を扱わせればアホウみたいに強い人だったから、何の違和感も無かったんだ。だけど噂が本当なのだとしたら、スルトは伝承に出てくる炎の魔物だ。下手な事しなくても、死んじまうのはこっちだ。

 そうなる前にどうにかしなければ、と焦ったのかもしれない。

「絶えず移ろい留まる事を知らぬモノ、何者にも囚われずただあるがままを生きるモノよ、戒めの鎖となり彼の影を捕らえよ!」

 だけどニヤッと笑った先輩が懐から取り出した物のせいで、下級の奴らは皆足止めを食らって標的へ行けず、泣く泣く俺の所へ跳ね返ってきた。…そう、精霊術って防がれたり失敗したりすると、術師に術が跳ねかえってきちまうんだよな。負荷もその分かかるし、ケガだけですみゃあいいけど時としてそうもいかないから、失敗は禁物なんだ。でも…精霊封じの護符を出されちゃ、どうしようもないか。

「どうする?俺とお前じゃ、剣の腕は話にならねぇぜ」

 分かっている。しかも咄嗟に跳ね返ってきたのを腕で防いだから、軽い切り傷が一杯なんだよな。逃げるが勝ちだが、その機会が無い。後ろにいる奴の威圧感が半端じゃねぇ。

「…アンリ・ミラ・クェル、ソ・プルナ・ディノ・フェノール(我が呼びかけに答え、冥府の扉は開かれん)」

 空気中に、精霊とはまた別の、何か異質なものが混じってきた。集まってきていた連中は、中級に近い奴らまで尻尾を巻いて逃げ始めている。でも俺は、人の形を成してきているその気配に目を奪われて、一歩も動けなかった。

「ラ・アルサ・ミラ・オーソ・バール・ヴォーフェ(盟約に基づき我が望みに応じよ)!」

 “スルト”は、火の中でも炎に属する精霊の一人で、同族の中では最も強く恐ろしい奴だとされている。強大過ぎるが故に人の世への自由な出入りを禁じられ、冥府の牢に閉じ込められた魔物とも呼べる存在だ、と伝承には書かれている。それが、いま俺の目の前にいる…。大人の男性の二倍ほどある背丈にがっしりした体つき、褐色の肌はそこはかとなく輝いている。黄金の瞳に、後ろへ撫でつけられた紅の髪。纏っているものと言えば、七分丈のズボンに、ベストを羽織っているだけ。正直言おう、俺もとっととここから逃げ出したい。あんまし恐怖を感じないタチだが、目の前にいる巨人から溢れ出している気は十分に俺に恐怖を与えていた。どうやったらこんなアホウみたいな奴を従わせられたんスか、先輩。見つけるだけでも一苦労じゃねぇっスか。

 …こうなっちまったら、シェルマを呼び出しても勝算は無い。そもそも、力の差がありすぎる。とっとと地下水道への入り口見つけないと、町の外に出られなくなるぞ。

 腰に下げていたポーチの中に手を入れれば、望みの物にすぐに指先が触れた。ここから脱出する分ぐらいは、十分にあるな。ポーチは外套に隠れているし、指先の感覚だけで中を漁っていたから、先輩らからしてみれば、俺が腰につけている何かに手を伸ばしているだけにしか見えねぇだろう。それにこの人の性格なら、多分召喚してすぐに攻撃してくる。

「スルト、あの餓鬼を片付けろ」

 思わず眉間に皺が寄った。が、ここで余計な事をしては計画が狂う。

 スルトは、少し考えろよ、とでも言いたそうに眉をピクリと動かしたが、主の命は絶対らしく文句は一つも言わなかった。シェルマなんて文句言いたい放題だから、全然違うな。

 ある精霊が自分の属性の力を扱う時、大抵は下級の精霊を使役するよりも自分が持っている力を使うから、術を発動させる際には無言になる。だから攻撃は、唐突にやって来る。今も、熱気を感じたと思ったら、左右から炎でできた鎌が挟み撃ちしようと迫ってきていた。俺はすんでの所でポーチから取り出した丸薬をその鎌へと投げつけ、指を耳に突っ込んで、この騒ぎのせいで壊れてしまった塀を爆発が発生すると同時に乗り越えて、手近な所にあった路地に逃げ込んでいた。投げつけたのは煙幕と閃光玉、それと単純な火薬玉で、どれも威力の大きいものだから、多少は目くらましになってくれる。それに、上から見られているにしても、今走っているここは両側に建っている家から張り出した物干し台やら何やらで、死角だらけになっている。だから、当分は大丈夫かな。でも、あっちこっち煤けたり焦げたりしているし怪我している所も応急処置したいが、今は立ち止まっていられない。

 …地下に降りる入り口を探すなら、やっぱ手っ取り早いのは汲み上げ場を探すべきだろうなぁ。この辺は町の中心部に近いから、大きな汲み上げ場があってもおかしくない。そんな所で暴れるのは、個人的には避けたいんだけどな…。

 この国では、上水道は地下水で賄われているため、地下水道が町の地下に張り巡らされていて、町の外に通じている水路もある。だから、水路を抜け道として利用できないこともない。水路は各家々の下を通って、水の汲み上げは家ごとにある井戸で行うのが普通だ。ただ、このダルムンベルクの町は少しばかり事情が違う。実は、この町の地下には水脈が通ってないんだ。だから山から水を引くための人工水路を作って、地区ごとに水を地表近くまで汲み上げて家々の井戸まで水を流している、という仕組みになっている。でも噂では、豊かな水のある町としてここが栄えてこられたのは、人工水路だけでは無理がある、本当は地下に巨大な湖があるからだ、って言われている。…本当の事を知っている奴はいねぇけどな。そういう訳で、汲み上げ場を破壊したら、そこの地区の人全員に迷惑をかける事になる。先輩が相手だと、迷惑をかける危険性は十分に高くなる。だから、とっとと古い水路まで下りて、そこから町の外に脱出するのが理想…なんだけどな。

 どっからともなく、場違いに明るい音色の鐘の音が聞こえてきた。町の中央広場にある時計台と鐘楼のうち、鐘楼の鐘だろうな。鐘は主に時報として鳴らされるため、自動で鳴るような装置が作られている。だから、こんな状況でも呑気に鳴るって訳だ。……そうか、あそこなら汲み上げ場に行かなくっても地下に降りられるな。どっちも動力は水力だから、濡れるのを覚悟しておきさえすれば地下の水路に入れる可能性はある。整備用の抜け道がある筈だしな。そうと決まれば、どうせ人もいないから誰かに咎められる心配もない、と、半ば開き直って、他人の家とか色んな建物の中を道代わりに通り抜け、一目散に広場へと走った。時計台と鐘楼の周りをグルリと回ると、ありがたい事に鐘楼内部へ通じる扉がすぐに見つかった。カギをこじ開けて扉を開けるのも面倒なので、蝶番がぼろくなっているのをいい事に全力で蹴っ飛ばして蹴破り、地下へと降りる階段を殆ど飛び降りるようにして駆け下りていった。…近いな。湿った空気の匂いがする。

「絶え間なく先を示すモノよ、闇を進む標となれ」

 水の力を利用しているからくりは、大量の水が滝となって落ちる際に発生する力を歯車で上へ上へと伝える、というもの。だから光の弾に照らされ、地下にぽっかりと口を開いた空間には、ギシギシ音を立てる歯車の横を爆音立てて流れ落ちる滝、というかなり変な光景が広がっていた。…確かに、荒野の中でこんだけの水、どこから確保しているのか気になるなぁ。海沿いならまだしも、ここ内陸だもんなぁ。内心首を傾げながら辺りを照らすと、俺が下りてきた階段はまだ下へと続いていた。でも、階段の先から水の気配は感じられない。その代わり、古くて細いが、滝の水が流れてくる水路に通じる道を見つけたので、迷わずそっちへ走って行った。想像以上に通路が脆くなっていたから、踏み抜きそうでビビったけど。

 水道代わりの地下水路は、地下に降りるほど古くなっている。水路がぼろくなるたびに、古い水路の上に新しい水路を積み重ねるようにして作り直しているんだと。しかも古いのと新しいのとが上下で並行しないようになっているから、地下の空間は立体的な網目状の迷路になっている。古い水路は整備されずに放置されるが、一応一つ上を通る水路との連接路が何ヶ所か設置されている。稀な大雨で井戸の水量が多くなり過ぎた、とかで水路の水量を調節しなきゃならん時に、古い水路に水を流し込む事で調節するからな。んで、水路の横には歩道も一応ついているから、追いかけっこできんこともない。でも健全な子供なら、まずこんな所で遊ばないだろうな。明かりは無いし枝分かれも多いから、迷子になろうもんなら餓死確定だからだ。

 適当に下への連接路を通り、二つ程古い水路へ降りた時だった。

「…みぃつけたぁ!」

 天井ぶち破って、先輩がやってきた。水の流れている最上階から順にぶち抜いてきたのか、水が天井から流れ込んできている。でも水量は大したもんじゃねえから、まだ大丈夫かな。

「俺から逃げきれるとでも思ったか?大人しくする方が身のためだと思うがな。それに、今更この状況で何ができるっていうんだ」

 前は先輩、後ろにはスルト。挟まれちまったか。…この人、敵に回すと厄介なんだよな。なんせ性格最悪だから。情けって言葉を知らねぇんだよ。おまけに、さっきすぐそこの道から降りてきたところだから、この近くにもう一つ下の階に通じている道は無いよなぁ(連結路は、上下にしろ左右にしろ、ある程度の間隔がとられる。誤作動防止のためだ)。となると、どっちかの横をすり抜けるしかねぇか。

「…諦めなければ何とかなる。やるべき事は自分で決め、そうと決めたら最後までやり通す。長いものには巻かれず、精一杯、例え見苦しかろうが、それでも足掻いて生きていく。俺はそう教わったし、今までそうやって生きてきました。これからもそうやって生きていくつもりです。…誰にも文句は言わせません」

 そう言うと、水の枯れた水路へ飛び降りて、前方へと全速力で駆けていった。先輩は慌てて俺を止めようとしたが、すばしっこさでは俺の方が上だ。それに、地下で爆発させたら、下手しなくても敵味方問わずに生き埋めになっちまう。さすがにそれは避けたみたいだ。…でも、スルトの熱気のせいで、地下水路は崩壊し始めているんだよな。ただでさえも土は乾燥気味なのに、更に乾燥が進む事になるからさ。

 先輩を振り切った後、光の精霊に辺りを照らしてもらいながら、とりあえず最下層まで下りた。下りたはいいものの、どこかの汲み上げ場の真横に出てしまったらしく、目の前は行き止まりだ。戻って一つ上から別の道に行こうにも、上もそのもう一つ上も、崩落とかで通行不可になっているのは確認済み。勿論今いる道も、反対側は少し行った先の道が無くなっていた。一番古い水路だから天井も足元も、あっちこっちヒビ入っているし。水を汲み上げている時の圧力はかなりなものの筈だから、目の前の壁を破壊したら負荷が空間にかかりすぎて、この辺全部崩落、もしかしたら地上付近から一気に破壊、なんて最悪な事態も考えられる。

「…で、何で光ってんだ?」

 既に足元に幾つか開いている穴からは、大量で綺麗な水を湛える水面が見えていた。その割には水の精霊がいないから、多分これは天然の地下湖じゃない。…で、なぜかその水が青白く光っていたんだ。光の精霊には礼を言って帰ってもらったが、それでもぼんやりと光っているからこれは光の反射じゃない。あえて言うなら、水が発光している…んだけど。そんな訳がないなぁ。…うーん、俺はまだ何もしてねぇぞ。水が何かに反応しているんだとしても、自主的にあれ、使えんのかな?

 どっかで煉瓦の崩れる音がした。俺の頭上も、天井が嫌な音を立てているし、細かい砂や瓦礫が落ちてきている。天井にできた隙間から吹き降ろしてくるのは、もわっとする熱風。…先輩、強引に水路をぶち抜いてくるつもりだ。一体何層ぶち抜くつもりだよ。しかも各水路の間には只の土の層があるんだし…。とか思ってこっちが顔を引き攣らせている間に、熱のせいで物理的風化が一気に進んだ天井が崩れ、壁や足元にも幾つもヒビが入って、ボロボロ崩れていく。

 砂とかと一緒に落ちてきた先輩は、少々疲れ気味で砂塗れだった。

「スルト、やっちまえ!」

 こりゃ本気であの力使ってみるしかねぇかも。先輩がこの空間の違和感に気付いていない事に、とりあえず感謝。…この人、頭に血が昇ったりすると、目の前の事しか認識できなくなるんだよな。すっげぇ鈍い人だし。

 主に対して本当に物申したげだけで、この状況に何か感じているらしいスルトだったが、真っ直ぐ俺の頭めがけて炎球を投げてきた。俺は勿論それをかがんで避け、それ以降もどうにか避けていく。回避された弾は、俺の後ろを通っている汲み上げ用の水路の壁にあたり、そりゃもうものの見事に壊れたそこからは水がものすごい勢いでこっちに流れ込んできた。ヒビの入りまくっていた水路は、おかげで同時多発的に崩れていく。先輩はスルトをひっこめたけど、もう遅い。水路はおろか、歩道まで完全に水没していた。

「悪かったですね。この勝負、俺が貰います」

 どういう事だ、と先輩は言おうとしたが、俺を見て何やら愕然としている。それが何でなのかは俺には分からんし、知る気もない。それよりもこれからやろうとしている事の方に神経を集中させていた。崩壊のせいで足元が揺れる中、まだ無事な壁に手をついてどうにか姿勢を保ち、押し寄せる波に掬われないようにして、腹を括った。…もうどうにでもなれ。

「…レメダ・ギレッツォ、ラ・マンティア(誇り高き水よ、裁きを与えよ)!」

 あっちこっちから噴き出した水が俺の後ろに集まり、何か大きな異形が大口開けている形になって、ビビッて腰が抜けた先輩へと襲い掛かった。でも俺の足元の地面が、完全に消えた。手をついていた壁も只の瓦礫に成り果て、天井も崩れた。俺は水の作った巨大な咢に呑まれていく先輩を視界の端に映したまま、真っ逆さまに下に広がる湖に落ちていった。

 不思議と俺の周りだけ水が落ち着いていて、全く苦しくなかった。まるで…そこだけ水が無かったかのようだった。


 狭い暗闇の中を水に流されたが、ぽんと広い空間に出た。光が差し込んでいるのか、一ヵ所だけぼんやりと明るい所がある。それを目安に上下を確認して、ひとまずそこを目指して水を掻いていった。

「…プハッ」

 明るかった所は、水面だった。外に顔を出せば、いつもの砂混じりの空気がそこにはあった。どうやら無事に外に出られたらしい。頭上には夜明けの星が輝いている。真っ暗な中にいたから分からなかったが、思った以上に長く水の中にいたって事だな。現在地がどこなのかが全く分からんのが悩みだが…。とりあえず、岸に上がるか。

 普段泳ぐ機会なんて無いもんだから、バシャバシャと慣れない動きで岸へと向かい、丁度草の茂みがあったの、その陰に隠れるようにして陸に上がった。グッショグショに濡れた服を絞ろうと思ったが、その必要はなかった。理由は分からんが、少しも服が濡れてなかったんだ。持っていた小物とか剣が濡れないですんだのはよかったけど、これは…何でなんだろうな。やっぱ、アレのせいなのか?

 んな事よりも先に、シェルマを探そう。話はそれからだ。…何よりも、俺は空腹なんだよ。

 -…シェルマ、どこにいる。これに気付いたら反応してくれ。俺は無事だ。悪いが迎えに来てくれ。町の外の水辺、草の茂みがある水辺にいるから-

 まだ軽く波が立っている水面に右手で軽く触れて、目を閉じてそう念じる。これは念話とかそういう類じゃなく、自然界に存在する水を媒介にして遠くにいる奴とやり取りをする、というもの。一般的に“水耳”って言われているけど、視覚・聴覚の代用と、それを応用しての会話ぐらいはできる。まー、これを人間でできる奴は珍しいらしい。俺も専らシェルマと別行動になった時に使うぐらいだ。

 ぱしゃん、とどこかで水の跳ねる音がした。向こうも気付いたんだ。という事は、じきに迎えに来てくれるかな。

 朝靄が辺りにぼんやりと立ちこめている。夜明け前の、もっとも寒い時間帯だ。濡れていないけど体は冷えているから、外套をしっかりと体に巻き付けて、可能な限り体を丸めて体温が逃げないようにする。こんな所で体調を崩したら、アホだからな。

 …それにしても、あの力を自分の意思で使えたのは初めてだな。切り札として持っていたけど、あれ発動する時っていっつも意識持ってかれるし体への負担は大きいし、でいい事無しだったんだよな。訳が分からんからシェルマにも言えてねぇし。…あいつの事だから、何か勘付いているかもしれねぇがな。精霊術使える事をあいつに知られたのは、あいつの目の前で使っちまったってだけの話だし、修行させられはしたが説教は無かった。でもこの訳分からん力はどうなのか、さっぱり予想できない。使わんに越した事はないんだがなぁ。

『…こちらでしたか。一瞬どこにおられるのだろうと思いましたよ』

「悪い。地図はお前に預けた荷物の中だから、現在地が全く把握できなくってさ。…お迎えご苦労さん。助かったよ」

『いつもの事ですから。怪我は…やっぱりしていますね。戻ったら手当てしましょうか』

「そうだな」

 迎えに来てくれたシェルマに連れられて行ったのは、水辺の反対側。灌木とかの茂みで、日光も人目も遮られる、休憩にはぴったりの場所だった。キリは自分の乗っている沙駒にくっついて爆睡中。タァンは、俺に気付いたのか、半目を開けて軽く耳を動かした。沙駒は自分の主人に忠実で律義で賢い奴が多いんだ。泣きたくなるぐらいにいい奴なんだ。だから主が帰ってきたら、こうして目を覚まして反応しちまう。…寝ていていいのに、といつも思うんだけどなぁ。

『まったく、一人だけになった途端に無茶をするのはやめて下さいと、何度も申し上げている筈ですよ』

「忘れている訳じゃねぇよ。何があったのかは後でちゃんと話すから、小言は後にしてくれ。…ていうか痛いって!少しはそっとしてくれよ!」

『静かにして下さい。迷惑ですよ。それに、ダラックに切られた所も治っていないのに、新しく傷をこしらえた主が悪いのですよ。多少消毒液が沁みるのは、我慢して下さい』

 幸いにも怪我したのは、術の跳ね返りが当たった両腕だけ。火傷が無くて本当に良かった。擦り傷はもはや怪我でも何でもないから、数の内に入らない。…とか言ったら、シェルマのお小言はお説教へと変化しちまって、その分時間も延長されて面倒なので、黙っておく。

「でもダラックに切られた所、特に痛くも何ともねぇんだけどなぁ。動きもいつも通りだし、違和感無しって感じ?」

『だとしても、傷口は開いちゃっていますよ』

 ほら、と無情にも消毒液を含ませた脱脂綿が傷口に触れた。勿論わざとやっているんだよ、こいつは。付き合いが長いせいか、こういう主を主と思わねぇ態度っていうか、結構ひどい事も平気でやってくるんだ。…ちやほやされるのも遠慮したいし、気心の知れた仲の方がいいから、それはそれで、今のままで十分だけどな。

「…だから痛いって!何でお前はそう躊躇なくやれるんだよ!」

『主がアホウだからですよ。それと、キリ嬢が起きるので静かに…。あぁ、起きちゃいましたか』

 爆睡していた筈だが、気付いたら上体起こして、寝起きのぼーっとした表情でこっちを見ていた。…起こしちまったか。

『すみませんね、騒がしくしてしまって。まだ横になっていて大丈夫ですよ』

「……気にしないで下さい。いつも、朝はこれぐらいに起きているんで」

『それはまた随分と早起きですね。まだ夜明け前ですよ?』

「家の中じゃ下っ端なので、その分仕事も多いんです。…天空族の神殿も、掃除するのは私の役目でしたし。仕事を全部こなそうと思ったら、どうしても早起きになってしまうんです」

 あれ?と少し首を傾げた状態でキリの動きが止まった。その時には、俺は包帯とかも巻き終えて、服も着替えていた。

「リーヴェさん、いつの間に合流していたんですか?」

「今さっき。お前が目ェ覚ますちょっと前。それがどうかしたか?」

「いえ…。…あぁ、だから薬の匂いがしているんですね。納得しました」

「んなもんで納得するなよ…。とにかく、全員起きたんだし、メシ作るぞ。俺腹減ってしょうがねぇんだよ」

 そう言いながら、手は調理の用意を進めている。日中は太陽のせいで暑いが、夜は放射冷却のせいで寒い。だから、体を簡単に温められるスープとかがあると嬉しい。野宿では水の利用量がどうしても制限されちまうが、ここならすぐそこに水場があるし使いたい放題だ。水を入れておく革袋も満杯にしておいた上で調理用の水を汲んだとしても、全く問題が無い。

 焚火を利用した簡易コンロで湯を沸かす間に、具材となる乾燥野菜を細かくしておく。ちなみに本日の朝メシは、乾燥野菜と塩のスープ、それと干し肉に固パン。市販の“旅行食”って奴は、緊急時のどうしようもない時以外は食べたくないから、基本的にいつも市場で調達する干物を利用しての自炊になる。行動中のおやつとかも、全部自分で選んで市場で調達。袋詰めで旅人向けに食材が売られているっちゃ売られているが、あれって素晴らしく無味か素晴らしくマズいかの二択なんだよな、一般的に。たまに当たりもあるが、そういうのは耳の早い人らにごっそり持ってかれるため、滅多に手に入らない。ちなみに究極の二択だが、無味の方を選んだ方がまだマシだな。

「できたぞー。お椀持って来なー」

「あ、私がよそいます。何も手伝わないでご飯だけ食べるの、好きじゃないんで。…ご飯屋さんに行った時は、それはまた別ですけど」

「んじゃ任せた。もし余ったらお代わりにすればいいから、無理によそいきろうとしなくてもいいからな」

 用意している間に顔を洗ったらしく、すっかり寝起きのぼんやりした空気は消えていた。それなら手元も安全だろうと思って、キリの前にお椀を三つ並べ、それらを見て改めてキリが金持ちの娘なんだと実感する事になった。俺とシェルマのは、単純な木彫りの椀。それこそ塗りも絵も何も無く、ただ単に木を削って形にした物の表面に油を染み込ませて防水処理をしただけ。それなのに一緒に置かれているキリのは、小ぶりながらも高台付きで朱塗りの椀だったんだ。塗りの椀が作られているのは、ここから海を渡って東へ行った島国とその周辺の地域だけ。塗料とする樹液を採取できる木が、その辺にしか生えていない固有種だからなんだと。大抵は商人がもっと内陸の方へ転売するために買うか、金持ちが買うかのどっちかだ。んで、族長っていうのは基本的に金持ちだ。そんな家出身なので、キリが塗りの椀を持っていても、ありえない話ではない。…こんな所に持ってくる物じゃないとは思うけどな。

『いい器ですね』

「ありがとうございます。…はい、二人の分もよそえましたよ」

「ありがと」

 一口飲むと、温かいのが体の中にじんわりと広がっていくのがよく分かった。俺、よっぽど空腹だったんだなぁ。それか、それだけ体が冷えていたか。多分前者だと思うけど。それと、我ながらだけど、今回も上手くできたな。

「…おいしい。このスープ、すっごくおいしいです」

「そりゃよかった。作り方が単純な分、失敗したかどうかがはっきり出るからなぁ。…熱いから、ゆっくり食えよ」

 自分が作った物を食べて喜んでくれる人がいると、作ったこっちも嬉しくなる。諸事情により旅の同行人になっている奴が相手であったとしても、だ。飯の時ぐらいはのんびりさせてくれ。

「あの、リーヴェさんって、ご両親から料理を習ってんですか?」

「んー、基礎は親に教えてもらったけど、むしろ所属していた傭兵団の先輩達に教えてもらった事の方が多いな。あの中じゃ俺が最年少で、なおかつ最も新入りだったから、飯の手伝いもしょっちゅうでさ。あそこは班別に行動するから、飯もその班ごとに作るんだけど、たまによその班に手伝いとして送り込まれたり、って事もあったな。献立は全体共通だったけど、それぞれの班の調理担当者によってレシピは違ったさ、手伝いに行くたびに色々教えてもらって。そこから自分なりに工夫して今に至るってとこかな。まぁあれだな、うまい飯を食いたいから料理を覚えたってのが一番の理由か」

「そうなんですか。でもいいですね、そういうの」

「そうか?ま、俺の飯を気に入ってくれる奴がいるなら、覚えたかいもあるってもんさ」

 そう答えて二杯目を貰おうと思って鍋を見たら、いつの間にか残り少しになっていた。しかもお玉を持ったシェルマが、鍋に手をかけている。十中八九、こいつが犯人だ。

「ちょっと待て。テメェそれで何杯目だ」

『次で…』

 恐る恐る挙げられた指は、3本。それを見た瞬間、俺はシェルマの頭の天辺に拳骨を落としていた。奴が痛さで手を離したすきに、お玉と鍋を奪取するのも忘れない。

「アホの三杯汁って言葉知らないのか、このバカ!俺もキリも、まだ一杯ずつしか飲んでねぇんだよ。お前ひとりで勝手に飲み切るな!っとに、いつの間に二杯目を平らげていたんだよ、この異次元胃袋。…あ、キリ、二杯目いるなら言えよ。俺のよそうついでに一緒によそうから」

「だったら…お願いします」

 器用に鍋を傾け、少しも余らせずにきっちりと二人で残りを分けきってやった。三杯目を食いそびれたシェルマは、仕方なさそうに干し肉を固パンに挟んで食べていた。…最初からそうしときゃよかったんだよ。

「本当に仲がいいんですね」

「喧嘩するほど仲がいい、の典型だとは思わねぇがな。少なくとも仲が悪いと感じた事は一度も無いかな」

『仲がよくなければ説教もしませんよ。その時は、何も言わずに放置しますからね』

 それもそれでどうかとは思うが。

 食事の後片付けやら何やらをやっているうちに、東の空の端が白くなってきた。もうそろそろ日の出だな。群青色からだんだんと、赤や橙の混じった色になっていく空を眺めるのは、何気に好きなんだよな。…なんていうのは秘密だ。

 …うーん、何があったのか話して計画を練らなきゃなんねぇんだけど、今ここで話していたら、確実に昼のクソ暑い中を行軍する羽目になるよなぁ。それだけは嫌だな。他人連れている時は、特に。倒れられたら困るし、いつも以上にその確率が上がるしさ。

「シェルマ、ここって何かありそうか?」

『特に何も。生きているモノの気配が全く無いのは、それはそれで怪しいですけどね。ここが自然にできた場なら、それは不自然な事です。逆にここが人口にできた場なら、それは理屈が通っています。しかし、それならばここは何のための場なのか、という謎も出てきますが…それは今は関係ないですね』

 という事は、俺の立てた仮説は当たっていたんだな。という事はここは空振りになるから、長居する必要性は無い。次の目的地を決めなきゃならねぇな、と思って地図を広げたが、この近辺に目立ったオアシスは無い。水辺もある程度覚えているけど、それもここからはちょっと距離があるんだよな。どうしようかなぁ、と地図とにらめっこしながら、この近辺で他にある怪しい場所を思い浮かべていくが…。セルベン領って変な話に事欠くんだよ。

『主はここについてどう考えていますか?』

「んー、空振り。ダルムンベルクの地下湖と通じていたから、多分ここは貯水池か調整池として作られた人工湖だな。だから、ここには何もいない。何も無い、空虚な水辺になっている。そんなとこだろ」

『なるほど…。…ちょっと待って下さい、なぜ地下に通じていると分かったのですか?』

「全部話していたら、お日様昇りきっちまうぞ?炎天下の中、人間二人も守れるか?それができるんなら話してやる」

『…分かりました。その話は次の休憩の時にでも聞きましょう。主がキリ嬢と共に市場へ行かれ、その後ここに戻ってこられるまでの間に何があったのか、全て教えてもらいますからね。…ですが、少しだけ時間をいただけませんか?ずっと気になっていたのですが、キリ嬢と共に同胞の気配がしています。何かあの町で変わった物でも手に入れられましたか?』

 やっぱバレていたか。水の帝を親とする精霊、つまり属性が水の精霊達は、同胞の気配や術の気配に敏感な奴が多い。シェルマもそうで、おかげで俺も離れた場所にいるからと大技を使ってはそのたんびにバレて怒られたもんなぁ。

 どうしたらいいだろう、とキリが首を傾げてこっちを見てきたから、見せてやれ、と小さく頷いてやった。それを受けて、キリは持っていたあの短刀を取り出した。最初は、只の短剣のようですけど…と呟いていたシェルマだったが、あの石を見つけてなぜか眉間に皺を寄せた。こいつがこんな表情をする事は、あんまり無いんだ。いつもは基本的に、何だかんだ言いつつも笑っていて、たまに怒るというか小言を言うぐらいなんだけどな。不機嫌っていう感じの表情を浮かべる事は少ない。黄緑色の石の中をじっと覗き込んで何かを見ているみたいなんだが、何を見ているのかはよく分からん。後ろから覗き込んでみたが、奥の方で何かが渦を巻き、ぼんやりと何かの形になろうとしては元の靄に戻っていくのを繰り返しているようにしか見えない。この石が精霊石なのは事実なんだけどなぁ。

『主、この石の中にいる精霊を引き摺り出してみてもよろしいでしょうか?』

「…面倒な事にならないのなら」

 精霊石の中から精霊を引っ張り出すってのは、やれん事ではないが、かなり荒っぽい芸当だ。しかも中に入っている奴が誰かとの契約待ちの状態で、外にいる奴が仲の奴と同程度、もしくはそれ以上の力を持っている場合だけ、という難しい条件付きだ。精霊は石の中に引き籠っている時は、術で簡易の空間を編み上げて、その中で主の呼び出しを待っているんだと前に聞いた事がある。で、引き摺り出そうと思ったら、その力の壁に強引に穴をあけて空間をこじ開けなきゃならねぇんだ。つまり、引き出す方が労力を必要とする。まぁシェルマはそんじょそこらの上級の精霊よりも能力値高いし、自分からやると言い出したんだから大丈夫だろ。てかそうだと思いたい。

 シェルマが手をかざしていた石から、瞬間的に突風が噴き出した。風は拡散せずに徐々に集まり、人の形になっていった。そして、なぜかそれに並行するようにシェルマの不機嫌さも増していく。溜息をつきながらやれやれと呟くのはよくある光景なんだが(その原因は8割方が俺にある)、俺以外の何かに対してここまで表情を露わにするのも珍しい。

『やはりあなたでしたか。そうでなければよいのにと思ったのですがね』

『久し振りに再会しての一言目がそれかよ。外へ出すのも力任せだったしよ。何がそんなに気に入らねぇんだ』

『別に何もありませんよ。少しうんざりしているだけです』

 不機嫌そうだけど、どうやら怒ったり嫌がったりしている訳ではないようだ。相手も見たところ悪い奴ではなさそうだし…。でも中身と外面が真逆な奴なんて幾らでもいるから、見てくれだけで判断するのはよくない。

「知り合いか?」

『…知り合いを通り越して、ここまでくれば只の腐れ縁です。悪い精霊ではないのですが、厄介事を振りまく事に関しては極上の悪者ですよ。それにしても、このような形で再開するとは思ってもみませんでしたね』

『そりゃこっちのセリフだ。黙って聞いていると思って好き放題言いやがって。…どうも皆さん、初めまして。ラドゥルファ=ウェン=ケイリン(旅する風のラドゥルファ)と言います。以後よろしく』

 見た感じは、他人から…特に女から好かれやすそうな好青年って感じ。シェルマに対する口の利き方はいつもの俺に近いが、あいさつは丁寧で、礼儀正しい奴だという印象も受ける。金に近い小麦色の髪はやや伸ばし気味で、後ろできっちりと一纏めにしている。髪は耳にかけて後ろに流しているが、左右とも耳の前に一房ずつ残していて、そこに小さな飾り玉を付けている。程よく日焼けした精悍な顔立ちで、彫りは深め。琥珀色の瞳は茶目っ気があるが、悪戯好きなガキの目に見えん事もない。でも全体としてみると、ちゃらいというよりもむしろ、格好良い系。軽く着崩している旅行着は薄青で、かなり緩くザックリと巻かれているターバンと、首元のスカーフはどっちも青みがかった緑色。

 …うん、腐れ縁じゃなかったらシェルマとは友人になれそうもないな。

「初めまして。キリ=ミズーリ=フェイルダーと申します」

「シェルマの当代の主で、リーヴェという。はじめまして」

『こちらこそ。…本当にお前はいつまでたっても最初の主人の面影を追い求めているんだなぁ』

『最初の主の遺した家に仕えているのですから、主にその面影が現れるのは仕方がありませんよ。…何はともあれ、お久し振りです、ラドゥルファ』

『久し振りだよ、本当に。…あー、本来なら契約をと言いたいとこだけど、とりあえずお前らについて行っていいか?』

『えぇ、構いませんよ。力が衰えて役立たずになっていなければ、ですけどね』

『お前こそ、腕が鈍っていたら承知しねぇからな』

 あいさつしたもののこっち二人はすぐに蚊帳の外へ追いやられ、旧友(?)二人は再び話に華を咲かせる。ニヤリと笑うラドゥルファと、にっこり笑うシェルマは、確かに風と水なんだよな。相容れないようでいて、よく似た性質も持っている。擦れ違ったり組み合わさったり。俺には真似出来ない付き合い方だ。

「とりあえずここから動かねぇと、見つかるもんも見つからねぇ。話があるなら、昼の休憩の時で十分だと思うぜ」

 強制的に全員に出発準備を促した。三人ともそれぞれ言いたい事聞きたい事がありそうだが、しょうがないという事になって、しぶしぶ沙駒に跨った。早く動き出さねぇと、すぐに暑くなるのが分かっていたからな。それに、一応水と風の精霊で力のあるのがいるんだ。クソ暑い中を行軍する事に、もし最悪の場合そうなったとしても、多少はどうにかできるだろうという期待もあった。

 結局まだ契約待ちなラドゥルファは、石の中に戻っちまったけど。

『主、私も一度戻ろうと思うのですが』

「アホ。俺は一晩寝てねぇんだよ。徹夜で行軍なんて、んな無茶苦茶な」

『…分かりましたよ』

 盛大に溜息をつかれた。そりゃ俺だって恥ずかしいが、背に腹は代えられない。さっきから地味に睡魔が襲ってきていて辛いんだよ。

 途中で落ちたりしないよう、荷物に入れていたロープで上着のベルトとシェルマの帯を繋いだ。フードをしっかりと被った上で、シェルマの後ろに座り、額を奴の背中に預ける形で猫背気味にしがみ付いた。

 動き始めてものの数分で、心地よい揺れの中ストンと眠りに落ちていった。

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